日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

御言葉の光に照らされて

2021-11-07 15:04:53 | メッセージ

礼拝宣教 詩編119編129~136節 招詞:ヨハネ12章35-36節

 

本日は日本バプテスト連盟の「バプテスト福祉ディ」を覚えての礼拝でもございます。先にその福祉事業の一団体のしんもり福祉会の理事長であられ、私たちの教会のメンバーでもあるKさんから「しんもり福祉会」についてのご紹介がありました。しんもり福祉会の歴史は、私たち大阪教会から生み出されました新森小路教会の閉鎖後、教会の青年有志たちの厚い祈りと願いによって平和の子保育園(現しんもり福祉会)は残り、その教会跡地において働きが現在まで続けられているということであります。又、活動休止となりましたが、大阪旭伝道所の礼拝や祈祷会はじめ、ベルフィリアによるハンドベルコンサートがその場所で行われてきたということも付け加えさせて頂きます。このように、私たち大阪教会にもゆかりのある事業体であるということで、今後も身近に祈りに覚えてまいりたいと思います。

 

本日は先ほど読まれました詩編119編129-136節から、御言葉に聞いていきます。この詩編119編全体は150ある詩編の中で最も長いものであります。その大きな特徴として、22の段落がヘブライ語のアルファベット順に構成されているという点です。中でも私たちにとって馴染みのある聖句の一つとして、105節「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という御言葉はご存知の方も多いのではないでしょか。                                            この詩編が編集されていった時代背景はお話してなしたように、国が滅ぼされ、連れて行かれた異教の地バビロンでの捕囚の体験がありました。詩人は生まれ故郷とは違う風土と文化の中で生活を余儀なくされる状況下において、どのように生きていくことが自分や同胞にとっての幸い、喜びなのか。又、様々な困難の中で、いかに人生の道を歩んでいったらよいのかを謳ったのが、このアルファベットからなる119編なのです。おそらくアルファベットにしたというのは、次世代にも語り伝えて行きたいとの願いをこめ、なじみやすく、又おぼえやすくしたのでありましょう。                      

まず、129節に「あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります」とあります。岩波訳では「あなたの定めは奇跡、それゆえわが魂はそれを守る」となっています。ちなみにこの「驚くべきもの」「奇跡」は死海写本によれば「蜂蜜の流れ」と訳され、つまり「あなたの定めは蜂蜜の流れのように麗しく、口に甘く、活き活きと回復させてくれるもの、という意味になります。                                               それは、たとえ先行きの見えないような状況下でも、又如何に困難な事が起ころうとも、であるからこそ詩人は「神よ、あなたの定めはそれほど素晴らしいので、「わたしの魂はそれを守る」と、力強く、神への信頼をもってこう謳っているのです。

次に、130節「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます」とありますが。これだと「たとえ無知なものであっても、、、」と、どこか他人事のように聞こえるかも知れません。又、岩波訳の「未熟者らを悟らせる」も、未熟な者たちという不特定多数の人たちを指す表現となっています。けれども、そもそも自分自身はどうなのか。自分はよく分かっているのでしょうか。よく分かっている、よく知っていると自認している人、満足している人は、御言葉に対する求めも、飢え渇きもなく、御言葉の本質とその奥深さを体感することが難しいのです。                                        むしろ口語訳がズバリと「無学な者に」と訳しておりますように、神の御前にあって自分は無知で未熟な者、何も分かっていないと思う人は、それを慕い求めるので御言葉が開かれ、光が射し出でるように、その人は御言葉の理解を得ることができるのです。このように御言葉を与えられる人は、131-132節にあるようになお一層「口を大きく開き、神の戒めを慕い求め、御顔をわたしに向け、憐れんでください。御名を愛する者への裁きに従って」と謳います。                                                                 ところで、この「裁き」とは神の戒め、律法でありますが。それは弱い立場に立たされた人に対する神の救済ともいえます。                                                        この詩編が書かれた時代、神の教えに敵対するような世の力と働き、神ではないものを神として崇め、自分の腹を満たし、神に造られた者が神に成り代わろうとする高慢と、弱い立場の人たちに対する虐げが横行していたことが読み取れます。                                               詩人は神に「御名を愛する者への裁きに従って、わたしを憐れんでください」と訴えます。又、「そういった社会に働くどんな悪もわたしを支配しませんように。虐げる者からわたしを解き放ってください」と、神の義を求めて訴えます。

ひるがえって私たちを取り巻く社会にありましても、様々な心に痛む出来事、あるいは弱者が置き去りにされている状況が深刻さを増しているように感じます。                                                                                                                                                                               詩人は136節「わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです」と嘆き祈るように謳います。                                                   本日は特にバプテスト福祉ディを覚えての礼拝を捧げています。主が世にあって小さくされた人、弱い立場におかれた人を深く憐まれ、愛してくださるとのキリスト教精神に基づき今日まで尊いお働きを続けられておられる6つの社会福祉の事業体を覚え、益々主の栄光が顕されていきますお祈りいたします。  

詩人は135節「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください」と謳います。この「あなたの掟」は、129節の「あなたの定め」、133節の「あなたの戒め」、134節の「あなたの命令」も又そうですが。神の御言葉は決して人を縛り、不自由にするためのものではありません。むしろその「定め」と「戒め」、神がお命じになる御言葉は、人を救い、人を生かし、平安と喜びをもたらす驚くべき神の恵みなのであります。                                                                   十戒をはじめ律法の書には実に600以上もの守るべき「定め」「戒め」が記されていますが。すべての掟は「神を愛すること」「隣人を愛すること」に集約されるのです。蜂蜜のように甘く、麗しく、人を活き活きと回復させる「神の定め」「神の戒め」「神の命令」「神の律法」。                               しかし人はなかなかそれを行い生きることができません。律法の遵守は神でなく人の裁きとなり、高慢と差別を引き起こしていきました。けれども、遂に時至って神の言(ことば)が人となり、お生まれになった。そのイエス・キリストによって「神を愛すること」「隣人を愛すること」が、私たちの間に具体的に見えるカタチで現わされたのです。まさにイエス・キリストは神の義と愛の顕れとして、十字架に引き渡され、私たち全人類の罪の裁きを十字架の死をもって成し遂げてくださったのです。この詩編の詩人の御言葉への渇望と神の義を求める嘆きの祈りは、まさにこの生ける御言葉なるイエス・キリストによってなされ、応えられているのです。                                                                 本日は1年半ぶりに主の晩餐式が持たれるようになりほんとうに感謝です。主イエスの十字架における贖いと救いの御業を心に刻んで覚える時となるよう願います。「主イエスが、人の世で小さくされている者を受け入れ、食卓を共にして下さったこと」を思い起こしつつ、御言葉の光に照らされて、今週もそれぞれに精一杯の歩みができますよう主に導いて頂きましょう。

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