主日礼拝式 Ⅰヨハネ手紙5章6-21節
緊急事態宣言で休会となって2ヵ月半ぶりにこうして礼拝や祈祷会が再開できますことは、このうえないよろこびです。久しぶりに主にある皆さまと互いに顔を合せることができてうれしい思いで一杯です。又、この場に集いたくてもお体の状態や諸事情からご自宅等で礼拝を守っておられる方の事も覚えつつ、共に主に礼拝を捧げてまいりましょう。
本日はヨハネ第一の手紙5章より、「この方こそ、永遠の命」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。この新共同訳聖書の5章始め1-5節には「悪の世に打ち勝つ信仰」と小見出しがつけられています。さらに19節後半には「この世の全体が悪い者の支配下にあるのです」と記されています。
近頃の国内外の情勢を見ますと「無力感」を覚えることばかりですが。
世界各地で起こっています権力と武力による市民への弾圧、政治の混迷とお金の問題、様々な利権をめぐっての不正がどこもかしこもはびこっています。それは無関心と保身を図ろうとする人々に押しあげられ、気づいた時には闇の中です。今はさらにコロナ禍での分断や切り捨てとも言える救済の手薄さといった問題がこの社会に暗い影を落としています。
人間が人間として生きることを奪う悪の力は今も働いているのです。真の神を知らないために、また神に背を向け欲するがまま生きようとするために人が神のようになり、神のようにふるまうのです。こうした真の神を認めようとせず、神でないものを神としていく偶像化(21節)こそ、死に至る罪(16節)なのです。
ヨハネはそういう中で、5章1節「イエスがメシア(キリスト:救い主)であると信じる人は皆、神から生まれた者です。4-5節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」と、力強く訴えかけるのです。
さて、ヨハネは6-12節でまず、イエス・キリストが「水」(バプテスマ)と「血」(十字架)を通って来られたことを証しします。ここに「霊は証しする」とありますが、聖霊はイエスさまのバプテスマに臨まれ、十字架も又聖霊のお働きのもとで成し遂げられたのです。ヨハネがわざわざこのように書き記すのは当時の信徒の中に、イエスさまが十字架にお架かりになる前に聖霊はイエスさまから出て行ってしまった、という人たちがいたからです。確かにイエスさまは立派な業や行い、奇跡のしるしをなさいましたが。しかし十字架の贖いによる御救いを実現なさるためにこそ、イエスさまは肉をとった人間の姿となられたのです。まさにこの神の愛の集大成といえる「十字架の救いの信仰」を伝えるために、ヨハネは「霊」と「水」と「血」の証しと言ったのです。
さらに、成し遂げられられた水と血の証しは2000年前に完結されたものではなく、今も、そしてこれからも続く普遍的な神の真理であるということを、活ける聖霊が時間や空間、歴史を超えて証ししておられるということです。
この水と血と聖霊という3つの証しによって神の救いの十全性が保証されているのです。ユダヤ社会では裁判の法廷に3人の証人がいなければなりませんでした。「罪あり」と訴えられた人のための3人の証人。霊と水と血の証しによってこそ、私たちは罪のゆるしの希望を持つことができるのです。
ところで話は少しとびますけれど、私たちは礼拝で使徒信条を用いていませんが、その信仰告白には豊かな点も多くあります。
次のようにイエス・キリストについて証しがなされています。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。」
ここには「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」と、イエス・キリスが人として人からお生まれになったことが信仰告白されています。又、「イエス・キリストはポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられた」とあります。
これは、イエス・キリストが単にポンテオ・ピラト個人に苦しみを受けたというのではありません。このポンテオ・ピラトのもとにというのは、ヨハネが本日の19節で「この世全体が悪い者の支配下にある」と述べたように、それは「悪い者の支配」の総称です。
今の時代においてもこうした「悪い者の支配」、世の力が実にあらゆるところに様々なたちで働いているということであります。まさに社会全体はその支配の下にあって闇の中でもがいているのでありますが、そこにイエス・キリストは救いをもたらすために十字架につけられた、ということです。しかしイエス・キリストは死者の中から復活され、私たちは神の子としての栄光を仰ぎ見るとともに、やがて来るべき正しい審きを司るお方の再臨を待ち望んでいるのです。
だからこそ、私たちはヨハネが強調する信徒の交わりを主の愛のもとで大切にし、罪のゆるしと体のよみがえり、11節にあるように「永遠の命」に生きる信仰の道を歩んでいるのです。
12節「御子と結ばれている人にはこの命がある」。私たちは神が御子を通して証しなさったことを信じることによって、御子と結ばれ永遠の命に与るのです。
そして、ヨハネは13節で「神の子を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」と述べます。
まあ、私たちがイエスは主であるとの信仰の告白をして信じていながらも、世にある日常の生活においては、自分が永遠の命、キリストの命に与っているという事実に心が鈍りがちになることがあるかも知れません。
私は高1の時に主を信じてキリスト者となりましたが。なかなか主の十字架による義とゆるしについて確信に至らず思い悩んでいました。けれど19歳の頃だったかと記憶していますが。会社の研修で半年間京都の長岡京市に来ていた時でした。
その時、一人で口語訳聖書のローマ3章21節以降の御言葉を読んでいたのですが。そこにはこのようにありました。「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」
ここを読んだその時、何か不思議なお働きによって私の心が開かれ、次のような思いが与えられたのです。「よくよく考えると、自分はあの高1の時にまあ幼い信仰なりにも主を信じた。そのことを主はちゃんと覚えて下さっている」と、そういう確信と平安が与えられたのですね。まさに聖霊のお導きでありました。
私たちの信仰の歩みはまさにこういった確認と確信の連続であります。
ヨハネは14-15節でも信仰者が祈りにおいて「確信」を持つように勧めます。
14節「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対するわたしたちの確信です。」
神は私たちの痛み、苦しみを知ってくださいます。私たちの訴えや願いにじっと耳を傾けてくださるお方であるという確信であります。その証しとして御子、イエス・キリストご自身の地上の歩みは、ヘブライ人への手紙2章18節に「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」とあるとおり、
このイエスさまこそ聖霊の導きのもと、絶えず父の神の御心を求める祈りの日々において確信を得ておられました。だから祈りと行動がつながっていたんですね。
さらにヨハネは15節で「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったとは既にかなえられていることが分かります」と述べます。
この事実は、ここに「わたしたち」とあるとおり、教会の皆で心を一つにして祈るようになった願いに対して、顕著に表わされるということを私も何度も経験いたしました。このような時代だからこそ、共に祈り続けてまいりましょう。
最後に18節「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれなった方(御子)が、その人(神を知る人)を守ってくださり、悪い者は手を触れることはできません。」
5章4-5節には「神から生まれた人は、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ものではありませんか」とあります。
私たちは主イエスにある信仰によって世に打ち勝つことができるのです。
ヨハネ福音書16章でイエスさまは、「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と宣言してくださいました。
始めにも申しましたように、今の時代においても神の愛と招きを拒むところからおこる悪の力や罪の働きは容赦なく、恐れと不安を引き起こしています。それは私たち信仰者の信仰と希望と愛を損なわせようとします。
しかし、主は最終的にそういった悪の力、神に敵対する者に打ち勝たれ、すでに勝利しておられるのです。神の勝利は御子の十字架の愛によってもたらされました。神は世の力を打ち砕かれ、罪の滅びから救い出すために、御子を犠牲にしてまで私たち人間を愛し通してくださるお方なのです。
ですから、いかに暗き世の中にあっても私たちは、この御神の愛に信仰の確信を得て、光の中を日々祈り歩むことができるのです。神ならぬものを神とする力にだまされず、流さず、「イエス・キリストこそ、真実の神、永遠の命です」との信仰を私たちの拠り所として、今週ここから遣わされてまいりましょう。