礼拝宣教 Ⅰヨハネ手紙4章7~12節
有名なシャンソンの曲に「愛の賛歌」というのがありますが。実は聖書に「愛の賛歌」と言われる御言葉がありまして、それは先ほど交読文で読まれましたコリント第一13章、「どんな業も行いも愛がなければ無に等しい。愛は忍耐強く、情け深く、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という有名な聖句です。
そこにはギリシャ語の「アガペー」:愛という言葉が9回記されております。それは人間の友愛(フィリア)、性愛(エロス)などとは異なる、神の人間に対する愛です。
そして本日のヨハネの手紙でありますが。この短い箇所には驚くべきことにそのアガペーの愛がなんと、先のコリント13章の9回を遙かに凌ぎ15回も記されているのですね。これまではそんなに気にせず読んでいたのですが。この個所はいってみればヨハネの手紙版「愛の賛歌」と言えるでしょう。
それでは、ここからアガペー・「神の愛」のメッセージを聞いていきたいと思います。
7-8節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。
ヨハネは先週の2章のところで、主イエスの「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という新しい掟、について触れていましたけれども、この4章ではその「愛」とはいかなるものか、というアガペー・神の愛のご性質について述べています。
まず、その愛は神の愛でありますから、本来私たちの心の内にはありません。肉親や友愛、恋愛などは人の心の内にあっても、このアガペー・神の愛はないのです。ですから、それは神が共におられるのでなければ人の内に存在せず、当然分かち合うことも与えることもできないのです。
それで、ヨハネは7節ありますようにアガペー・神の愛で「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」。逆に、神の愛で「愛する事のない者は神を知っていません」。そう記すのです。
では、その神の愛に私たちはどうやって与る者とされるのでしょう。
9-10節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
それはまさに、私たちがこの神の愛を知ることによって、アガペーの愛に生きる者とされるということです。
神は、天地万物を創造し人間には命の息を吹きかけて神の似姿として生きる者とされました。しかし、その人間が罪に陥り、被造物全体が罪と死の支配の下に呻き、苦しみ、さまようようになったのです。そこで神は律法と預言者をお与えになりますが、人はそれを守ろうと熱心になればなるほど、罪を自覚し、自分も他者をも裁いて、愛は益々遠ざかります。しかし、その弱き人間を神は愛してくださいました。私たちが罪の滅びから救われるために、まさに神の愛が「人」となられたのです。
神は御子イエスを、人の罪を償う犠牲としてこの世界に遣わして下さいました。ここに顕わされた神御自身の愛のご性質、その憐みといつくしみ。それはヨハネが言うように「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」下さったゆえに与えられた恵みなのです。罪に滅びる外ない、愛するに価しないような私たち人間であるにも拘わらず、御独り子を犠牲にしてまでも私たちを憐まれ、お救いくださる。ここに人の思いを超えた神の愛がある。これこそ「神の愛」だとヨハネは証しするのです。
ところで、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」という御言葉で思い浮かんできましたのが、ヨハネ福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とのイエスさまの有名なお言葉です。
ここでイエスさまは、もはや弟子たちをしもべとは呼ばず「友」と呼ばれました。
このところでもイエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とおっしゃいました。それは主が選ばれた一人ひとりを友と呼ばれ、愛されたように、互いに主にある友を愛しなさいということです。
さらに主はこうも言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。
自分の命を捨てると聞きますと、何か大きなこと過ぎて思わず後ずさりしてしまう気がします。が、実際には日常の人間関係において常に主に尋ねつつ、、主にゆだねていく。主に差し出し、主に従っていくということであります。小さい事に忠実な者は大きい事にも忠実だ、と主がおっしゃっているとおりです。それを修道女の渡辺和子さんは、「小さく死ぬ」と言っておられましたが。
ところで、ある高校生を対象にしたキャンプで、講師の方がいくつかのグループに分けて、「本当の友達の条件」について話し合ってもらい、出てきた意見の上位3位までを発表してもらったそうです。すると驚いたことにどのグループもその3つの内容と順位が全く同一であったとのことです。本当の友達の条件、第一は「心を開いて安心して話せる人」、第二は「本気で叱ってくれる人」、第三は「一緒にいるだけで楽しい人」。そこでその講師の方が、皆に目を閉じてもらい「自分がこれら3条件を持っていると思う人は手をあげてください」と言うと、誰も手をあげない。「ではこの3条件を一つも持っていないと思う人は手をあげてください」と言うと、全員の手があがったとの事です。
真の友がほしいと思う人は多くても、真の友になりたい、だれかの真の友になれる自信があるという人は、そういるものではありません。主イエスは、私のために命さえ差し出して、私の本物の友となってくださった。神の愛、全き愛を顕わされたのです。
本日の箇所に戻りますが。ヨハネは11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と述べます。
実はここに神の招きと御計画が示されています。ふつう借りがある人が、それを無償で免除してくれたとしたら、本当にその人に恩返しをと思うわけです。ここでも、その愛を下さった神にそれをお返しするために、「神に何かをささげなさい」となるのが一般的な考え方でしょう。しかしここでヨハネは、愛して下さった神を愛しなさい、とは言わず「わたしたちも互いに愛し合うべきです」と述べています。
愛されるに価しない者を神は愛し、ゆるし、生かしてくだった。そのようにして神に愛され、神の愛・アガペーを戴いた者は、神から生まれ、神のご性質に与り「互いに愛し合う」者とされるのです。そしてこれこそが、他のどんな業や行い、ささげものに勝った神の愛の証しとなっていくのです。
12節「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」
ここで2回も「わたしたちの内に」という言葉が使われていますけれども。本日の箇所では9節「神の愛がわたしたちの内に」。今日は読みませんでしたが、神がご自分の聖霊を分け与えて下さるという13節にも「神がわたしたちの内に」と述べられています。
この「わたしたちの内に」と訳されている原語の「エン」には、「わたしたちの間に」という意味もあります。日本語にも「エン(縁)」があるなどと言いますけど。それは人と人の関係性を指しています。そのことを踏まえますと、私たちが神の愛・アガペーを通して互いに愛し合うならば、神は私たちの間にとどまって下さり、神の愛が私たちの間で全うされているという事です。他の聖書には「全う」を「完成」とも訳しておりますけれども。それは、私たちが互いに神の愛を通して愛し合う関係性の間で、完成されていくということなのです。
イエス・キリストは、ヨハネ福音書1章14節にあるように「言は肉となって、わたしたちの間に宿られ」ました。又、ルカ福音書17章20-21節において、主は「神の国はいつ来るのか」と尋ねられたとき、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と仰せになられました。私が神を愛するのだ、と息巻いていた熱心な信仰が分離主義や人と人を分け隔てしていた時代の中で、神はそのアガペーの愛によって人を救い、この愛が主の友とされた人の間で完成へと向っていくという、その素晴しい壮大な救いの御計画を主は今日も実現へと導いておられるのです。
本日は「愛の完成者」と題し、御言葉に聞いてきました。何かと試みの多い時代でありますが。しかし今も私たちを「友よ」と呼びかけ、アガペ-の愛によって互いの愛へと招かれる「愛の完成者」イエス・キリストに倣う者とされ、今週も一日ひと日を共に祈り合いつつ、歩んでまいりましょう。