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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

来たり給うキリスト

2021-02-14 13:48:04 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ11章2-19節

 

おはようございます。昨夜は宮城県、福島県を中心に震度6強という大変強い地震がありました。負傷者も出ているようですが、大きな被害となりませんようにと祈るばかりです。さて、緊急事態宣言解除が3月7日迄延長となりました。途中で解除となった折は礼拝開始のお知らせをいたしますが。今しばらくこのような形での礼拝が継続されていくことを御理解下さい。

 

バプテスマのヨハネは3章に記されているように、ユダヤの荒れ野において「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しました。そして彼のもとにぞくぞくと集まって来て、罪を告白する人々に「悔い改めに導くバプテスマ」を施していました。

しかしヨハネは「自分の後に来られるお方こそ、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語っていました。

ヨハネはその後、領主ヘロデが行っていたあらゆる悪事について、率直に神の前によろしくないと苦言を呈したため、捕えられ投獄されてしまいます。

ヨハネはそうした獄中で「キリストのなさったことを聞いた」とあります。ここにわざわざイエスでなく「キリスト」と記されています。

それはヨハネの「来るべき方はイエスよ、あなたなのでしょうか」との問いかけに対する「イエスこそキリスト(メシア)」との宣言であります。さらに「イエスのなさったことこそキリストの証しである」と読むことができるでしょう。

ところがヨハネは獄中でそのイエスさまのなさったことを聞くと、自分の抱いていたキリストのイメージと何ともほど遠く、正面切って悪人を成敗するわけでもない。又、民衆を奮い立たせて社会変革を起こされるようなふうでもありません。

ヨハネは先のマタイ3章13節で「キリストは手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるまで火で焼き払われる」と語り、この世の義人と悪人とを選り分け、正しい裁きを行なって世を正される神の権能を帯びた王、それがヨハネのキリスト像だったようです。けれど、そんな勇ましさとはどこかかけ離れた柔和なイエスさまの噂に、ヨハネはじれったさを覚えていたのでしょうか。その真相を確認するために、自分の弟子たちをイエスさまのもとに送るのです。

そうしてイエスさまのもとに着いた弟子たちはヨハネに言われたとおり「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねます。

するとイエスさまは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と、仰せになります。

「行って、見聞きしていることを伝えなさい」というのは、ヨハネの弟子たちが人の噂ではなく、実際にその目で見、その耳で聞いたこと伝えなさい、ということです。あの人はこんな人だよ、と人から聞いたというのは本当の出会いではありません。又、一面だけで評価することもできません。そのように、神の言葉も単に知識や道徳のように読んでいる限り心に響いて来ないでしょう。一対一で生けるキリストと出会うことが大切ですし、そうして初めて御言葉が私の血肉となる。自分が新しくされていくということが起こってくるのですね。私たち自身も日々主と出会い続ける者でありたいと願うものです。

先ほど招きの詞として読まれたイザヤ書29章18—19節には次のように記されています。「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い。貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」。

それは救い主、キリストの到来によってもたらされる回復の預言であります。

「その日」とは、救いの主、キリストの到来の日を指し、その天の国到来の出来事がイエスさまのお働きによって事実となるのです。その光景を目の当たりしたヨハネの弟子たちに対してイエスさまは言われます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。

この混迷の時代にも思える状況の中で、ともすれば強いリーダーシップや財力、ネームバリューなどなどがもてはやされていますが。天の国の到来はどのような姿で表されたかのかを、さらに聖書から聞いていきたいと思います。

 

さて、ヨハネの弟子たちが帰った後、イエスさまは群衆にバプテスマのヨハネについて次のように話し始められます。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。・・・(そして強調して)はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れなかった」。

現代風に言えば、時代や風潮に移り変わるヒーローや裕福な人や権力者や宗教的指導者たちを見るために荒れ野に行ったのかと、、、。

「いや、そうではないだろう。時は移っても決して変わらず、おもねることも、飾りたてることもなく、権力者や指導者に対してもまっすぐに『悔い改めよ。天の国は近づいた』と訴えるバプテスマのヨハネのもとに行ったのではないか」と、おっしゃるのですね。

ところが、イエスさまはその一方でこう言われます。

「しかし、天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」。

「天の国で最も小さい者」というのは、天使のような存在を指しているのではありません。それはキリストによって天の国が到来したことを信じて生きる人のことを指しているのです。天の国はそういう人たちの交わりです。別の箇所でイエスさまが言われた「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章21節)というその天の国です。

それは何も、信じる人が優れているとか偉大だという事ではなく、主イエスによってもたらされた救いの恵みこそが偉大な神の賜物なのであります。イエスさまは世の力が支配する中で、小さくされた人、弱くされた人、病を抱えた人、罪人とみなされた人と関わりを持たれ、神の愛と祝福を宣言なさいました。それは何か上から目線で、してあげようということではなく、人の弱さ、痛み、苦しみに共感をもって手をおき、祈り、涙する。来たり給うキリスト。救いの主は、世の中にあるだれもが救いと解放を願ってやまないことをご存じであられるお方なのです。この救いの恵みを知る者は、その喜びと感謝をもって生きるでしょう。神の恵みの中で立ち上がって歩みだすでしょう。さらには他者とその幸いを分かち合うまでになるでしょう。

イエスさまはそのような神の国の交わりに生きる人は、ヨハネの時までの律法を守る努力や清めにさえ優る義に生きていると、おっしゃっているのです。

私たちはどうでしょうか。救いの喜び、神の福音が、他者との具体的な分かち合いや行いとなって滲み出てくるような信仰の確信に日々与り続けたいものです。

ここの下りの、「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今(牢獄中)に至るまで、天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうしている」という言葉に思わずギョッとしてしまいますが。

地上における天の国の実現に向けた働きに逆らう力があって、凄まじい迫害があったのです。ヨハネはこの後処刑されます。イエスさまは十字架におかかりになります。教会も今日に至るまで世の力による弾圧が繰り返されてきました。しかしキリストによって到来した天の国は今や世界の至るところに実現され続けています。それは、世の力の何をもってしても奪われることはないのであります。

 

最後に、イエスさまは群衆に向けて「耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている」と仰せになるのですが。それは、天の国の訪れ、福音の良き知らせに耳をかそうともせず、共に喜ぼうともしない人々の姿を、子供たちが結婚式ごっこや葬儀ごっこといった遊びに誘うわらべ唄にたとえたのです。

「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」。一緒にごっこ遊びをやろうと呼びかけたのに、誰ものってこないねえ。一緒に楽しもうという呼びかけの声です。それは、天の国の喜びの時代がキリストの到来、イエスさまがお出で下さったことで実現しているのに、一緒に喜べず無関心で、ただ傍観している人たち。何をやっているんだ、と反目し、力づくでやめさせようとする人たちを、イエスさまはきっと大変残念なお気持ちで見つめていらったのですね。

 

「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(主イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。律法の義にまっすぐに生きた「ヨハネ」にも、天の国の福音をもたらされた「主イエス」にも、又その言葉と御業にいやされ、救われ、回復された人が喜び、神に立ち返っても、それを見ても聞いても、冷めた心で見下している人たち。そういった世相。

 

それにも拘わらず、イエスさまは希望を語られます。

「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。

ヨハネの弟子たちはイエスさまに、「来たるべきお方は、あなたですか」と尋ねましたが。イエスさまはわたしがそれだよと、直接答えられず、何が起こっているのか自分の目で見て体験してみなさい、と言われます。御言葉の力によるいやし。神の愛の招きによる全人的回復。それがイエスさまの答えなのです。

それはヨハネが当初期待した世の力による統治や社会革命ではありません。

旧約時代の預言者ゼカリヤによって示されたとおり、「武力によらず、権力によらず、能力によらず、ただわが霊によって」(4章6節)、神の霊、その御救いによって天の国は打ち立てられるものなのです。

「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。すでに来り給うキリストによって天の国の招きに与った私たちも又、このキリストの正しさの証し人として、感謝と喜びを共に分かち合っていく者とされてまいりましょう。

 

2021/2/14宣教音声→https://drive.google.com/file/d/16sEDWQzdRmaFNDtAK0VxE5eM_NICgLxG/view?usp=drivesdk

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