礼拝宣教 ヨハネ19章17-30節 受難週
いよいよ主イエスのご受難を覚えて過ごす受難週を迎えました。
少し前の話ですが、新聞の声の欄にある方が妻を亡くした後、その妻の記した詩を見つけ投稿されていました。それは人生最後の1週間がこのように過ごせたらという願いを込めた詩でありました。そこには、厳しい病状の中で最後の1週間を有意義に過ごしたいという切実な願いが記されていました。
その詩は多くの人に感動と共感を与え、随分と話題になったようですが。私たちの命も生活も限りあるものです。詩編90編の神の人モーセの詩、祈りのところには「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」とあります。一日一日を二度と繰り返されることのない尊い日として、主の前に正しく数えることができますよう願うものです。
レント(受難節)の1ヶ月あまりイエスさまの人生の最期の1週間の記事をともに読んでまいりました。今日はイエスさまの最期の1日に起こった出来事から聖書に聞いてまいります。
「ユダヤの王」
17節で「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴダという所へ向かわれた」とあります。それは処刑場でした。
たくさんの奇跡や不思議な業をあらわされた神の子イエスさまです。ユダの裏切りも初めからご存じだったのですから、そこから逃れることも十分できたはずです。
何とかして十字架刑の苦難と死を切り抜けることもできたはずです。けれどもイエスさまは敢えてそうはなさいませんでした。それは一重に、父の神の御心に聴き従い御神の救いの業を成し遂げるためでした。
前夜ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られたイエスさま。そこで十字架の道こそ、すべての人に救いが開かれるため成し遂げられねばならない唯一の道であり、それを父なる神は望んでおられることを確信なさり、その御心を受けとって自ら十字架を背負われたのです。
神のご計画とはいっても、それは一人の人間として、恐れや様々な葛藤や悩みの果てに、選び取られた道であったに違いありません。このお受けになるであろう苦しみと死もさることながら、イエスさまが弟子たちをこの上なく愛され、飼う者のいない羊のようにさまよう民衆をどれほどか深く憐れんでおられたことでしょうか。
さて、ローマの総督ピラトは、イエスさまの十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤの王」と、その罪状書きを掛けた。それは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれてあった」とあります。ヘブライ語はユダヤ人の言葉で、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシャ語は当時の地中海世界で広く使われていた共通語であったそうです。いわば当時のだれもが理解できるその「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」との罪状書きは、いわば全世界に向けられた、「主こそ王、神の救い」という、変わることのない真理を示すメッセージであったのです。
ユダヤの民は旧約時代からずっと来たるべきメシア、王の到来を待ち望んでいました。
この罪状書きを見たユダヤの指導者たちの心は動揺します。なぜならいくら罪状書きであろうと「ナザレのイエスがユダヤの王」などと公になることは、許されないことであったのです。そこで彼らは、ピラトに「この男はユダヤの王と自称した」と書いて下さいと嘆願するのです。しかしピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えたとあります。
無意識、無自覚であったでしょうが、ローマの総督ピラトはここで、ナザレのイエスがユダヤの王であるばかりか、世界の王、救い主、キリストであることを、世界に布告しているのです。実にここに神の摂理が示されているのです。
「神のご計画の実現」
このヨハネの福音書は、旧約聖書で預言された、来るべきメシア(救世主)がイエスさまであられることを証しています。
その1つは、18節、「イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真中にして両側に十字架につけた」とありますが。それは預言者イザヤの書53章12節に、「彼は罪人のひとりに数えられた」と記されたことが実際に起こったことを示しています。
2つ目は、23節以降、「兵士たちがイエスさまの服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着は一枚織の衣になっていたのでくじ引きをして決めた」とあります。これはメシアの苦難を預言したといわれる詩編22編19節に、「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と記されていることが実現したことを伝えているのです。
3つ目はイエスさまの死の場面の28節で、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した」とあります。
ここで重要なことはイエスさまが「今や成し遂げられたことを知り」と言うのは、神のご計画の実現をご確認されたということです。その上で「渇く」と叫ばれたのです。
この「渇く」というのも詩編22編16節の「口は渇いて素焼きのかけらとなり」という御言が実現したことを伝えているのです。が、その渇きは、イエスさまが父の神に「絶え入るばかりにあなたを慕い求める」そのお姿を描いているのです。
マタイとマルコの福音書には、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と、イエスさまが父なる神に叫ばれたと記されていますが。このヨハネの福音書はイエスさまの十字架の苦難と死は、旧約聖書に予め預言されていた神さまの摂理と救いのご計画の実現であったことを伝えているのです。
「世の罪を取り除く神の小羊」
そして、今日の「十字架を背負われるキリスト」の中心メッセージは以下にあります。
さて、ここで兵士たちが、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した」とありますが、これも詩編69編22節に「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします」と記す、それはメシア、キリストの苦難によって実現されていますが。
注目したいのは、この酸いぶどう酒をイエスさまに差し出すために使われたヒソプの枝です。それは過越しの祭で用いられるものであります。
かつてイスラエルの民が囚われのエジプトから神さまによって導き出される折に、それぞれの家の鴨居に「ほふられた小羊の血」を塗ることで、滅ぼすものから守られ、災いを過ぎ越すことができたのですが。そのほふられた小羊の血はヒソプの枝に浸してから鴨居に塗られたのです。
ここでイエスさまは「ヒソプの枝に付けた海綿状のぶどう酒」を受けとられると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた、と伝えます。
このヨハネの福音書においてバプテスマのヨハネは、イエスさまを「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。まさにそのとおりイエスさまは世の罪を取り除く過ぎ越しの小羊として十字架上でほふられたのです。ヒソプの枝はその神さまのご計画の実現の証しであります。
十字架を背負うキリスト(救い主)こそ、世の罪を取り除く神の小羊であられます。この福音の力強いメッセージが、このヒソプの枝に表わされているのです。
今まさに、聖書の諸々の預言書をはじめ、主イエスが告知なさった出来事が現実のものとして私たちに迫ってくるようにも思えますが。このような全世界の人々が震撼する状況は、私どもにとりまして、いや全世界におきましても、過越のような時ということができるかと思います。
旧約聖書の出エジプトの災いの出来事をあたかも再びなぞるかのような事態が世界中で、この疫病に限らず様々なかたちで起っています。そういう中で、私たちはそれぞれ如何に歩んでいったらよいのかを、聖書の御言葉、殊に主イエスの言葉と行いから聞き取っていくことが必要かと思います。
先月8日の礼拝後に新型コロナウイルス蔓延の対応について教会員で意見交換をし、当面は礼拝だけは継続していくことを確認いたしました。それから1ヶ月がほぼ経ちますけれども、事態は収束するどころか益々拡大していることを憂慮します。そして皆さんもこれまでに経験したことのないような事態の中で、戦々恐々と日々の歩みをなさっておられるのではないでしょうか。
そして今、これは大阪教会のことですが。この事態の中、果たして礼拝を継続することが主の御前に正しいことかを、尋ね求め、祈ってきました。
その中で示されましたのは、シンプルに「今、イエスさまだったらどのようになさるのか」という事です。
本日のヨハネの福音書の「十字架を背負われるキリスト」のお姿はどうでしょうか。
イエスさまは自ら弟子たちをはじめ、世の人々を最後まで愛し抜かれました。
確かにここに集まって礼拝を守り続けるということは大事なことです。七日の旅路を守られ支えられた恵みと感謝をおぼえ、礼拝から新しい週が始められることは幸いなことです。けれどもそれは私たちのために神さまが信仰の励ましの場、拡がりと分かち合いの場として与えてくださったものです。礼拝堂もそうです。が、建物のため人があるのではなく、人のために建物も集会も与えられてきたのですね。
今、この緊急の事態の中でここに集まって礼拝継続することに、囚われる必要があるのだろうか?牧師としてはとても悩ましいことですが、イエス・キリストこそが、その愛における安息日の主であられる。私はそのような思いへと導かれています。
「十字架のもとで始まる新しい関係」
さて、本日のイエスさまの十字架の場面の中で、もう一つ心に留まる光景がございます。
それは、十字架のイエスさまとそのもとに留まり続けた女性たちのことであります。
25節「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」。
この女性たちはイエスさまがガリラヤにおられた時からいつも付き添い従ってきたようです。彼女らは表舞台にではなくイエスさまとその一行の身のまわりのことや食事のお世話をしてきたのであります。
ところが、イエスさまが捕えられて主だった弟子たちは散り散りに逃げて行くのです。そのような中で、なおイエスさまの十字架のもとに留まり続け、その死の最期を見届けた女性たちの姿はひときわ存在感があります。
苦しみの果てにいまわの息であられたイエスさまは、十字架上から母とそのそばにいた愛弟子とを見て、母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。それから愛弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われます。
愛弟子とは、その時随分と年齢の若かったヤコブの兄弟ヨハネであったようですが。
彼はそれ以降、イエスさまが言われたとおりに、イエスさまの母マリアを引きとって世話をした、とあります。
死の直前に自分の母親を家族や親族に託すということは一般的な事であったのでしょう。イエスさまの母マリアにもイエスさまのほかに、子どもたちもいましたから、肉親や親族に母のことをお願いすることができたはずです。
しかしイエスさまは、愛するこの弟子に母を託したのです。
聖書には、イエスさまの「兄弟がやってきてイエスのなさっていることをやめさせようとした」という記述もあります。又、イエスさまが、御自分の母と兄弟が訪ねて来たことを聞かれた時、「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いて行う人のことである」(マタイ16章)とお答えになったともあります。
ここでイエスさまが母にその弟子をして、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われた時、この十字架のもとでキリストにある新しい人間関係が生まれたのです。それは血肉の関係、肉親の関係ではなく、十字架のキリストのもとで、この新しい関係が結び合わされるのです。
ここにキリストの教会の本質がございます。あらゆる違いを超えた神の家族としての共同体。私たち一人ひとりも又、この主イエスの十字架のもとにあって神の家族として互いを大切にし合って生きるよう招かれているということを、今日改めて思い起こしたいと思います。
最後になりますが、十字架につけられたイエスさまの身体は鞭で皮膚は裂けぼろ布のように傷だらけでした。迫る死を前にされ、苦悩と痛みをただひたすら耐え忍ばれたのです。その姿は人の目に敗北者と映ったことでしょう。しかしそれはイザヤ書53章5節に、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と預言されたとおりのことが主イエスによって成し遂げられるためであったのです。
イエスさまはキリストとして完全に勝利されました。
私たちも人生において苦しみや悩み、痛み、悲しみの時が訪れます。そのような中で、この十字架のイエスさまのお姿、その愛を知る時、深い慰めと希望を見出すことができます。なぜなら主イエス・キリストの愛は苦難と死をも超えた勝利だからです。
このキリストのうちにとどまり続け、その愛の実をぶどうの房のように結んでいくことが、今わたしたちに託されている務めなのです。
主によって贖いとられた一人ひとりが、かけがえの無い存在として大切におぼえられ、神の家族としてつながっていることに感謝しつつ、希望のイースターを共に迎えてまいりましょう。
祈ります。主よ、受難週にあって主が十字架の苦難と死を通して、この世を愛し抜かれた救いのメッセージを頂き、感謝します。今まさに、過越しといえるような出来事が起り、世界が、、又、私たちも恐れと不安の中にあります。が、どうか、主よ、あなたの愛につながって、すべての悪と災いにも打ち勝つことができるように、お守りください。
私たちの主イエスの御名によって祈ります。アァメン