礼拝宣教 ヨハネ21章1-14節
七日の旅路を守り導いてくださった主に感謝と賛美を捧げます。
今朝の箇所は復活の主イエスが7人の弟子たちに現れる記事ですが、主イエスはすでにエルサレムにいた弟子たちに2度にわたりご自身を現わしておられました。鍵をかけた狭い家の中、絶望的な思いに閉じ込められていた弟子たちの間に、またそこに居合わすことのできなかったトマスと弟子たちに再度ご自身を現わされたのです。そして3度目にご自身を現わされたのは、ティベリアス湖と呼ばれていたガリラヤ湖のほとりでした。
弟子たちは復活の主に出会った後、故郷のガリラヤに戻ってきていたのです。ここで彼らの日常の生活が再開されたのです。
だだ、そうはいっても主イエスの弟子をやめてもとの漁師に戻ったということではありません。主の十字架と復活の出来事を胸に日常の生活の場にいたのです。この時一緒にいたのはペトロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、他の2人の弟子の計7人でした。
はじめにシモン・ペトロが「わたしは漁に行く」と言い出すと、他の6人の弟子たちも「一緒に行こう」と言って、彼らも舟に乗り込んで漁に出ます。
「しかし、その夜は何もとれなかった」のです。
ペトロやゼベタイの兄弟らはイエスさまの弟子になる前は漁師でしたので、夜通し漁をして1匹すらとれなかったことにがっかりし、疲れをおぼえていたことでしょう。
そうして既に夜も明けたころ、舟の中からふと岸辺に目をやると、復活の主イエスが向こう岸に立っておられました。
けれども弟子たちはそれが主イエスだと分からなかった、とあります。
そこには、如何に労しても一匹すら魚がとれないといういわば日常の生活の苦労に、体も心も疲れ果てた時の私たち自身の姿を物語っているかのようです。
そんな弟子たちに主イエスは「子たちよ、何か食べる物があるか」とお尋ねになります。
主は私たちの食べる物のことまで心を配ってくださるお方なのです。主ご自身人として飢え渇きを体験されたからこそ、人のひもじさまで気にかけてくださるのですね。
そのような主のお声かけに弟子たちは、食べる物が「ありません」と率直に答えます。
そこでイエスさまは弟子たちに「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と、指示されます。
弟子たちがそのとおりにすると!「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」くらいの大漁になったというのですね。
皆さん、ここに今日の大きなメッセージがあります。
主イエスの言葉に聴きそのとおりにすると、どのような時も神の祝福が伴うということです。
私たちの日常生活には実に様々な出来事が次々と起こってきます。時には自分の力ではどうしようもない大きな越えがたいような壁に直面することもあります。先行きが見えず、どうしたらよいのか分からないような出来事が押し寄せる時。
そのような時こそ、祈りのうちに主の言葉に聴き、御言葉によって何よりも自らの心を守り、主の教えてくださることを実践して行くことが大切です。
祈りと御言葉に生きる。それがひとりで困難な時は、主の弟子たちもそうでしたが、信仰の友を与えてくださっています。私たちはひとりで舟に乗っているのではなく、そこには同じく主を信じ愛する友、仲間が与えられています。
厳しい現実の中にも助け導いて下さる神に信頼し、共に希望を見出していく者とされていきたいものです。
さて、こうして主のお言葉通り網を降ろした彼らは、思いもしなかった、網を引き揚げられないほどの大漁の奇跡を目の当たりにすることになります。
この時ゼベタイの子のヨハネには、ある記憶がよみがえってきました。
それはペトロはじめ、漁師であった彼らがイエスさまに従っていくことになった時のことです。
その時もイエスさまの言われるとおり、網を降ろすと舟が傾くほど大漁になったのです。それは漁師であった彼らが、主イエスの弟子として従っていく決心を与えられる時となりました。その体験がこの時よみがえって彼は向こう岸へ立つお方が、まさにイエスさまだ!といち早く気づいたのです。
そうしてヨハネがペトロにこう言うと、ペトロは何と我を忘れて、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んで、主イエスのところまで泳いで行くのですね。普通は水に飛び込むのに上着は脱ぐでしょう。服で溺れてしまいます。けれど、ペトロはイエスさまの前に出るのにと、急いで上着をまとったんじゃないでしょうか。まあ、どれほどペトロがイエスさまを切に慕い求めていたかということが伝わってくるようですが。
これまでも私はここを読む度にペトロのとった行動は、早く主のもとに向おうという純粋な姿だと思ってきました。けれども今回のレントの受難の記事から順を追って読んできて、このペトロの姿にはイエスさまを3度も否んだ罪を恥じ、主の前に何とか体裁をととのえようと必死になっている様子が表れているように思えるのです。
しかし主イエスはそんなペトロの弱さや心情をすべてご存じであられました。
弟子たちに示された復活の主イエスの顕現はこれで3度目となります。
それは、3度イエスさまを否んだペトロに向けた主イエスの愛とゆるしのメッセージであったように思えます。
その主の愛とゆるしによってこの後ペトロも又主の兄弟たちを力づけ、福音を分かち合うものとされていくのですね。
さて、他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で岸辺へ戻って来ました。
そして、陸に上がってみると、炭火はおこしてあり、その上に魚がのせてあって、パンも備えられていました。
そして、主イエスがさらに、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われたので、シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き揚げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった、とあります。
因みにこの魚はティラピアという体長40センチほどの中型の淡水魚だそうで、私も一度食べたことがあるのですが。素揚げされていたのですが淡泊な味でそれほど美味しいとは思いませんでした。
さらにその数が153匹という意味については、いろんな説があって確かなことはわかりませんが。ただ153という端数まで数えあげられているというところに、引き揚げられた一匹一匹をも数えられているという丹念さを感じます。
それはこの後、主の弟子たちが本当の意味で人をすなどる漁師となり、彼らを通して救われ福音に与っていく人々一人ひとりが神に知られ、覚えられ、数えられてているということを表しているように思います。
私たちも又、その貴重な一人ひとりであることを再確認し、主に感謝を捧げましょう。
話を戻しますが。
その大漁を目の当たりにした7人の弟子たちは思い知ったのではないでしょうか。
「ああ私は、主イエスがいなければ魚一匹すら捕ることもできない。」
それはこの後、彼らが主イエスの救いと祝福を伝え証しする中で何度も直面する弱さと無力さです。
人が人を救うなんてできることではありません。身近な人でさえその心を変えることはできません。主に頼り、祈るほかありません。
そんな時こそ、主のおっしゃる言葉に望みをおき、従っていく。そこに私たちは主の栄光を拝することが起こされていくのです。
弟子たちは自分の力、経験によって頑張ったけれども思い通りにいきませんでした。
一匹も獲れなかった。
お腹をすかせ、体も心もくたくたになっていたその弟子たちのために主イエスは食事を用意してくださっていたのです。すでに食卓を整えていて下さる。それは収穫に先立つ主の御業です。
私たちが気づこうが気づくまいが、主はすでに主の食卓を整えて待っていて下さるのです。それは何か特別なこととしてではなく、私たちの日常の中で食事の場を持つように、主は私たちの思いを越えて、すでに食卓を整えて待っていて下さるのです。
主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と弟子たちを招かれます。
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
弟子たちはそのお方が主イエスであることに気づいていましたが、日常の中に確かに復活の主が共にいてくださることに畏れを抱き、敢えてそれを口に出して、尋ねようとしなかったのです。
そのような弟子たちに、「イエスは来て、パンを取って与えられた。魚も同じようにされた」とあります。
この光景はかつてイエスさまが5つのパンと2匹の魚を5千人にお与えになったヨハネ6章のエピソードを思い起こさせます。
その時、イエスさまはパンと魚を受けとられ、男だけで5千人、女性や子どもを加えるとその倍の1万人ぐらいはいたのではないかと考えられますが。その人々を前に、パンと魚を取り、感謝と祈りを唱えてから、分け与え始めたのであります。
飢え渇き、疲れ果てた多くの群衆を青草の上に座らせ、そのだれもが満腹するほどイエスさまはパンと魚とを分け与えられました。
弟子たちはその出来事を体験してどんなに驚いたことでしょう。裂いて分けるほど増えていったからです。
注目するのは、他の福音書ではこのパンと魚を弟子たちが配給したとされていますが。
ヨハネ福音書ではイエスさまご自身があたかも群衆の一人ひとりにパンと魚を与えられたように記されています。
そこには、イエスさまご自身が私たち一人ひとりの命のパンであることが表されているのですね。
ヨハネ6章51節で、イエスさまは「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われました。
苦難と死によって裂かれた主イエスのみ体と流された御血潮。その尊い代価によって私たちは罪ゆるされ神に立ち返る者として生かされています。主イエスこそ全世界に開かれた救い主、命のパンなのです。
最後になりますが。
主イエスがここで弟子たちを食卓に招かれたことは、弟子たちにとってどんな意味があったのでしょう。
主イエス自ら食卓を整えて弟子たちをもてなし、仕えることの模範を示されたのです。
主イエスと共に王座について自分は右にあなたは左に、誰が1番偉いか、と議論していた弟子たちに対して、主イエスは弟子たちの足を自ら洗われ、互いに足を洗い合いなさいと命じられました。さらに復活の主イエスは、自ら弟子たちの食卓を整えられることを通して弟子たちに主の食卓を整え、互いに仕え合うことを教えておられるのです。
私たちも又、主の弟子としての生き方、人生をそれぞれのあり方で務め励んでいきたいと願います。人に誉められ認められなくても、人に知られなくても、具体的に誰かのために祈り、神の国と神の義を求め、私たちの日常の中に主の食卓を整える者。それが主イエスの弟子なのです。
夜通し働いても何の収穫もなく、気落ちして疲れ切っていた弟子たちに、復活の主イエスは、いのちと平安と喜びとなってくださいました。
主の食卓に招かれ、食事に与った弟子たちは、主の愛をいっぱいに受けてどんなに元気づけられたことでしょうか。
今日は主の言葉に従うことの重要性と、すべてに先だって主が恵みを与えてくださることを確認いたしました。
私たちも命のパンであられる主イエスの養いがなければ、何一つできないような者です。
そんな私たちのことをいつも心にかけ、主自ら私たちの食卓を整えていて下さる。
今週も霊肉ともに守られ、健やかでいられるよう、互いに祈り、とりなしつつ、日々主と共に歩んでまいりましょう。
復活の主イエスの愛の招きに応えてまいりましょう。
祈ります。
主よ、今私たちは大阪教会の会堂に集って共に礼拝を捧げることができませんが、どうか私たち一人ひとりがあなたにしっかりとつながって歩むことができますように守り導いてください。又、あなたにある兄弟姉妹がこの現況下においてこそ、あなたに執り成し、祈り合って共につながり続けてこの難局を乗越えていくことができますようにお支え下さい。さらに、現況下において教会員お一人おひとり、とりわけ医療従事者として勤務されている方、又働かざるを得ない方のいのちと健康とが主にあって守られ支えられますようお導きください。主よ、わたしたちはあなたがすべてを治めておられるお方であることを信じています。どうか一日も早くあなたの教会に集い共に礼拝を捧げる日が訪れますよう、どうか導いてください。主の尊い御名によって祈ります。