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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

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主イエスと一緒に

2020-01-19 19:59:44 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ6章16-21節 

先週は工藤信夫先生よりフィレモンへの手紙を通してメッセージを頂きました。福音を伝えたため迫害され捕えられた使徒パウロが、「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と記した言葉から、語られたのですが。この「もうける」とは、単に生理学的な意味で子を産む女性に限った事柄ではない。神の愛と憐みに満たされてその恵みを他者に知ってほしい、次世代に受け継いでいってほしい、そのような願いと執り成しをする人は、うける人、生みだす人だということをお聞きしました。私たちもまた、そのような者でありたいものです。

さて、今日は再びヨハネ福音書に戻り、6章のエピソードから御言葉に聞いていきたいと思います。前々回はイエスさまとファリサイ派で議員のニコデモとのやり取りから「御子イエスにある命」というテーマで御言葉に聞いていきました。それから聖書教育に沿って水曜の聖書の学び会では、ヨハネ福音書4章のイエスさまとサマリアの女性との対話の場面より、「イエスさまこそ、尽きることのないまことの生きた水」であるという箇所を読みました。
今日読んでいます箇所の前には、5つのパンと2匹の魚で男だけで5千人以上の人々が満腹した、という奇跡物語が記されています。それに続く本日の箇所には、イエスさまがガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちの乗る舟に来られたといういわゆる奇跡物語が記されてあります。そうしてこの2つの出来事の後に、「イエスさまは命のパンである」という私どもにとっての大切な聖礼典であります主の晩餐の原点ともいえるお話がでてまいります。
今日はその、命の糧であるイエスさまとはどういう存在であられるのか、ということを念頭におきながら聖書に聞いていきたいと思います。

6章の1節で、「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」とあります。
おそらくこの時は弟子たちと一緒の舟に乗って宣教拠点となったカファルナウムからティベリアス湖の向こう岸に渡って行かれたのでしょう。
続く16-17節には、「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」とあります。おそらく弟子たちはパンの奇跡後相当疲れ果てていたでしょう。もう早く帰りたいとの急ぐ思いがあったのか、イエスさまを残したまま舟に乗り込んで向こう岸のカファルナウムへ戻ろうとします。まあここの前を見ると奇跡を目の当たりにした人々から、イエスさまは王にまつりあげられそうになりますが。しかしイエスさまはそれを拒んで山に退かれたとあります。
イスラエルを当時支配していたローマの抑圧からの解放を実現する王として、ユダヤの人々も、さらに弟子たちも期待していたんですね。ところがイエスさまは雲隠れなさったということで、弟子たちの中にはある種の不信感や失望感が生じたのかも知れません。どちらにしましても、行きの往路はイエスさまと一緒に向こう岸に来た弟子たちでしたが、この帰りの舟には彼らだけでイエスさまは乗り込まれていません。

そのとき「既に暗くなっていた」とあります。岩波訳の聖書では「既に闇になっていた」と訳されています。こちらの訳の方がその真意をよく伝えています。12月のアドヴェントの時に読みましたヨハネ1章にも「暗闇は光を理解しなかった」とありました。そこでも「闇」という言葉が使われているのです。ですから、それは単に暗かったというのではないのです。
弟子たちは元漁師でしたから暗くてもこれまでの自分たちの経験によって、その暗いなかを自分たちだけで辿り着く自信がありました。だからイエスさまを抜きにして行動した。それが「暗闇」だと聖書は示すのです。光である神さまの愛、救いである主イエスを理解しない、受け入れようとしない。それが暗闇だ、ということですね。

私たちの人生はしばしば舟旅になぞらえられます。人生行路とか、いくつもそんな唄があります。教会もまたしばしば舟にたとえられます。そこには見ず知らずの人たちがたまたま乗り合わせているのではありません。乗っているのは皆、主イエスの弟子たちです。主イエスを信じ従っている者たちが共に乗り込み、目指す地に向かって漕ぎ出し、渡っていく、それが世にある教会の姿です。私たちは神さまのご計画と聖霊の導きによってこの舟に乗り込み、信仰の共同体とされた人たちと共に目指す地に向かって漕ぎ出したのです。
ところで、今日の聖書では弟子たちのこの舟にイエスさまが乗っておられなかった。これは一体どういうことでしょうか。それは弟子たちが自分たちの考えだけで目的地を決めて急いだからです。

すると18節「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」。舟は高波にもまれながら、それでも元漁師でもあった弟子たちは躍起になり、自分たちの実績や経験に頼って25乃至30スタディオン、まあ5000メートル~5500メートルを、高波の中彼らは結構な距離を舟で漕ぎ出し突き進んでいったということです。

今日の聖書の重要なメッセージはここからです。なんと強風に漕ぎ悩んでいた弟子たちの舟に、イエスさまが、湖の上を歩いて近づいて来られたのです。弟子たちは近づいてこられるイエスさまを見て、「恐れ」ます。そこで彼らは何を恐れたのでしょうか。幽霊か化け物が水の上を歩いて近づいて来る、との恐怖心が襲ったのでしょうか。並行記事でありますマタイとマルコ福音書にはそのように語られています。              
けれどもこのヨハネ福音書は違うのです。
「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた」とだけ語っています。それは、イエスさまとは一体どういうお方なのだろうという大きな畏怖の念が湧き上がった、又一同がそういう思いに包まれたのではないでしょうか。

するとイエスさまは恐れている彼らに、「わたしだ。恐れることはない」とお語りになるのです。このお言葉こそ、今日の聖書が一番伝えんとしているメッセージなのです。
この「わたしだ。恐れることはない」というお言葉の「わたしだ」は、原文のギリシャ語の言葉をそのままご紹介すれば、「エゴー エイミ」です。それは英語に当てはめれば、「アイ アム」です。それをこの文脈に即して訳せば「わたしだ」と強調しているわけです。又、文脈によって「わたしはある」と訳すことができます。あのモーセが荒野の燃える柴を前にして神の御声を聞いた時、神自ら「わたしはあるというものだ」と御自身をお示しになられた。この「エゴ- エイミ」と同じなんですね。
今日のところの前のエピソードでは、イエスさまがパンの奇跡でもって5千人以上の人々を満たされましたが。今読んでいる個所の後に「イエスは命のパン」と見出しがついたところの35節「わたしが命のパンである。わたしを信じる者は決して渇くことがない」とおっしゃった、この「わたしが」もエゴ- エイミ。さらに51節「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と語られていますそこもエゴ- エイミですが。このように「エゴー エイミ」は主イエスとはどなたであるかを語ることにおいて用いられる大事なキーワードなのです。
先週礼拝では読めませんでしたが、4章の「サマリアの女」のところでも、サマリアの女性が、私たちはキリストと呼ばれるメシアが来ると聞かされていると言った時に主イエスが、「あなたと話しているわたしがそれである」とお語りになった。これも「エゴー エイミ」です。それは、主イエスがそのように父の神と一つであられることが言い表わされているのです。
先にも申しましたように、主なる神がモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するための使命へとモーセをお召しになったとき、同胞たちに神のお名前を尋ねられたらどう答えたらよいでしょうかというモーセの問いに対して主は、「わたしはある。わたしはあるというものだ」とおっしゃった。それは、まさに生きておられる神さまが力をもって臨んでおられることを示す言葉なのです。湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたイエスさまもまた、このお言葉をもって弟子たちに語りかけられた。
エゴー エイミ。「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃったのです。

私たち、又教会は、この世の現実の中で信仰をもって歩んで行こうとする時、時として忙しさや焦りから、イエスさまにより頼んでいくことより、自分の考えや経験値による判断や、この社会の原理原則を優先してしまうことがないでしょうか。イエスさまを抜きに自分が主になって先走りしてしまうことがないでしょうか。人は、何を主として生きるのか、ということによってその生き方も、大きく変わってきます。

ここで、昔?大阪キリスト教短大神学科時代に講義でお世話になった村上久先生がご経験された出来事を綴った手記をご紹介します。
「ある教会の特別聖書講演会に招かれて説教した時のことである。私は一見して新婚と分かる夫婦に出会った。説教が終わると、前の方に席をとっていた2人が話しかけてきた。ご主人はエリートコースを順調に進み、名の知れた大手の会社に就職し、出世コースを驀(ばく)進。身を立て名をあげることが彼の人生の目標だったという。そして能力的にも一応の評価を得て、あるポストに落ち着くことができた時点で結婚に踏み切った。ここまでは順調であった。ところがそれから半年もたたないうちに、彼は鉄槌で頭をなぐられるような挫折感を味わうことになる。視力が急に落ちてきたことを自覚して診察を受けに行った結果、脳腫瘍と診断されたのである。その時彼は目の前が真暗になったという。その診断を死の宣告と受け止めたのだ。
その時彼は初めて分かったそうである。それまで自分が一生をささげても悔いはないと思っていた仕事や、立身出世の目標が、いざという時何の支えにもならないということを。そんなことのために自分は今まで生きてきたのかと思うと情けなかった。これが脳腫瘍の宣告を受けて初めて彼が知った真理であった。
「その時支えとなったのは、私のそばにいて共に戦ってくれた妻でした」と語るご主人の目には涙が浮かんでいた。「先生。それでも私たち夫婦の力だけではやっぱりだめな気がします。もっとしっかりした確かな支えが欲しいのです。聖書やキリスト教の中に本当に頼れる確かなものがあるかも知れないと思って、きょう生まれて初めて教会を訪ねました」。脳腫瘍の手術を終えて退院間もないご主人と奥さんはこのように私に語ってくれた。お二人を前にして、唯一安全なイエスにある人生に移ることの必要をしみじみ感じさせられた次第である。

21節「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。
興味深いのは、イエスさまを迎え入れた、イエスさまが乗り込まれたから嵐が止み、舟が目指す地に着いたというのではなく、「迎え入れようとした。すると間もなく目指す地に着いた」ということです。それは「イエスさまを迎え入れようとする」ことが大事だといっているのです。
「わたしだ。恐れることはない」と言われる生きておられる神さま、大いなる御業をされる方、主イエスを、自分たちの舟に「迎え入れようとする」。主イエスと一緒に歩もうとすることに、私たち教会という舟に乗船している者のあるべき姿が示されているのではないでしょうか。
人間の力の限界を強く思い知らされ、すぐに恐れと不安と諦めに陥ってしまう私たちにできること、なすべきことは、まことの神さまとしてお出でくださった主イエスを自分の人生に、又共同体にお迎えしようとする、私たちの姿勢が大切なのです。
「主よ、来て下さい。主よ、栄光を現わして下さい」。それを求めて生きるならば、その先の事は主イエスご自身がして下さるのです。私たちはそれを求めているでしょうか。
それによって弟子たちの舟は、ほんとうに主が備えてくださる目指す地に着いたのです。彼らの舟は確かにカファルナウムに着いたのですが、そのように具体的に限定されて書かれておらず、ただ「目指す地」と書かれています。そこがミソなんです。その地こそ、主に信頼し求めて生きる者に主が備えてくださる「目指す地」だからです。

「エゴ- エイミ」。今日も主は私たちに「わたしだ、恐れるな」と、御自身を現わしておられます。この主に堅く信頼し、主と共に一緒に目指す地に向って漕ぎ出してまいりましょう。

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