新年礼拝宣教 ヨハネ3章16-18節
主イエス・キリストのご生誕の聖歴2020年を心よりお慶び申しあげます。
今年も変わることなく主の愛と救いを確認する週の初めの礼拝、また週の真ん中の聖書の学びと祈り会を守り、喜びに満たされた歩みとなりますよう祈願いたします。
昨年度は、コリント二5章17節の「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」との年間の聖句でありました。「新しく造られた私たち」という標語をメッセージの中にもしばしば折込みつつ語らせて頂きましたが。この聖句は口語訳聖書では、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と訳されています。ここには「見よ、すべてが新しくなった」という感動が強調されているのですね。
古いもの新しいものというと、時代や時の流れをイメージいたします。本日も新年の初めての主の日の礼拝がもたれているわけですが。しかし聖書のいうところの「すべてが新しくなった」というのは、万物の一切が新しく創造されたということです。付け足しとかリフォームしたとかじゃなくて、全く新しく創造されたと言うのです。そしてその驚くべき創造のみ業は、キリストによってもたらされました。イエスさまの十字架の贖いにより古き自分が罪赦され、バプテスマの水に死に、霊によって新しい人とされるのであります。
この「古いもの」というのは、キリストを知らなかったために囚われていたこの世の価値基準、自我の欲するままの生き方です。それは神の愛と救いを拒絶する生き方です。しかし、キリストがその古い自分の罪のために死んでくださったという信仰、聖霊の導きによる確信と確認を怠らず、その愛にとどまり続ける人は、すべてが日毎に新しくされ続けるのです。それは恵みの体験に他なりません。
さて、先ほど新年礼拝の箇所としてヨハネ3章16-18節が読まれました。
この個所の前段において、ユダヤの議員でファリサイ派に属するニコデモという人が登場します。ファリサイ派は罪や不浄と自分を分離してきよく正しい行いをもって生きてゆこうとする派閥の人たちでした。ニコデモは高齢者となるまで律法を熱心に守り通してきたのですが、その魂の奥深いところで神への強い飢え渇きをもっていたのです。
行いによっては、それを完全になし得ない罪の自覚が生じます
彼はある夜イエスさまを訪ねて来ました。そのニコデモに対してイエスさまは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とお告げになりました。これは「人は自分の力や行いで自分を救うことは出来ない。神によって、聖霊の働きによって新しい人に生まれ変わらせていただかなければ、誰も救われない」と言われたわけです。
しかし、先に申しましたようにニコデモはファリサイ派に属する熱心なユダヤ教徒ですから、たくさんの本を読んで、立派な教師につき、律法を暗唱して、自分の力で、自分が律法を守って、良い人間、正しい人間になる。そのことによって神に認められ、救われると思っていたわけです。
ニコデモとイエスさまの二人の対話は、この救いについての根本的な理解の違いから、どうしても食い違ってしまいます。イエスさまが「霊から生まれる」ということを語りますと、ニコデモは「どうやってもう一度生まれなおすことが出来るでしょう、そんなことはありえない」と言うのです。
ニコデモは、神によって、聖霊の働きによって、人が全く新しい人に生まれ変わるということが信じられなかった、受け入れることが出来なかったのです。
しかし、誰もニコデモを責めることは出来ないでしょう。
イエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受け、神の子、神の僕とされる中で、新しい人に生まれ変わるということを、私たちも、少しも分かっていなかったと思うのです。私は高校1年生の時にイエスさまを救い主と信じて、バプテスマを受けましたが、バプテスマを受ける前から聖霊の働きについては理解していたとは言えません。父なる神や子なるキリストは何となく分かるけれど、聖霊がよく分からないということがあったと思います。
私がちょうど20歳の頃でしたか。ローマ書6章「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」というバプテスマについてのみ言葉を読んでいた時でありました、その時に「古き人である私は完全にキリストと共に十字架につけられた」という何とも言葉では言い表すことのできないような平安と喜びの感動がこみ上げてきたのです。それは聖霊の臨在と恵みに圧倒された経験であったと思います。
そうして、私自身、聖霊が分かる、正確には聖霊の満たしとお働きを知らされる時というのは、日々御言葉に与り、祈る中で主の恵みを確認し、同時に主の日の礼拝や水曜の聖書を共に読んで分かち合い祈り合う祈祷会、さらに主にある兄弟姉妹とのさまざまなつながりにおいてであります。
この時のニコデモは古きに留まり、神が新しいことを興されたことを理解することができません。
そこで、イエスさまはニコデモに、旧約聖書の例をあげて救いの道を明確に説明されました。モーセの導きでエジプトを脱出し、荒野で不平を言う人々に燃える蛇が下され、多くの人が噛まれて死ぬのですが。その時、人々を救うために神が与えてくださった方法は、青銅の蛇を作って旗竿の上につけ、それを仰ぎ見ることでした。それを仰ぎ見た人は蛇に噛まれても生きたのです。つまり、モーセが荒野で蛇を挙げたように、イエスさまご自身も神に備えられた民の救いのため十字架の木に挙げられなければならない、と言われたのですね。
それは信仰、霊の目によって十字架につけられたイエスさまを仰ぎ見る人は、御子イエスの命、永遠の命をもつ、ということを伝えているのです。
人々が永遠の命を得る、神の国に入る、そのためにイエスさまは十字架の上にあげられる、と言われているのです。間違ってはいけないのは、十字架の像を見たら救われます、こうすれば永遠の命を得ることが出来ます、神の国に入れます、その方法を教えましょう、と言っているのではないということです。こうしたら救われるというなら、律法を守ったら救われるというのと何ら変わりません。もし、そのようなことを教えるだけなら、それは単なる教師です。
しかし、イエスさまはその道をただ教えるだけの方ではなかった。自ら十字架の上にあげられることによって救いの道を切り拓かれたのです。ニコデモはラビ、先生と言ってイエスさまを訪ねてきたわけですが。そうではなく、イエスさまはまさに救い主、キリストなのです。
ここには、ニコデモがイエスさまのお話になったことに対して、どのような反応をしたのかは聖書に何も記してありませんので分かりませんが。ニコデモという人は、このヨハネによる福音書には後に7章と19章と2回登場いたします。
7章では、イエスさまが祭司長たちに捕らえられそうになった時、ニコデモはイエスさまを弁護します。そして、19章では、イエスさまが十字架の上で死んだ後、アリマタヤのヨセフによって遺体が引き取られ墓に入れられる時に、ニコデモは没薬を持って来て、イエスさまの遺体を葬ったのです。このような形で出て来るという事は、ニコデモはイエスさまの十字架と復活の後にキリスト者となったと考えてよいのだと思います。
さらに言えば、3章16節の有名なこの御言葉は、そのニコデモ自身によって証しされたのだと思うのですね。なぜかというと、ニコデモは夜こっそりとイエスさまを訪ねたので他の人は誰も知らなかったはずだからです。
ニコデモはこのイエスさまの言葉を、あの時は分からなかったけれど、本当に本当のことだと分かった。私は、イエスを信じて、霊によって新しく生まれ変わらせていただいた。そういう思いの中で、この話を他のイエスさまを救い主と信じる使徒たちに証ししていったのでははないでしょうか。ちなみに、それを聞いた使徒たちによっておそらくこのヨハネの福音書は編集されていったのでありましょう。
このニコデモとイエスさまの対話は、後にイエスさまを信じ、イエスさまの救いに与ったニコデモが、イエスさまに初めて出会ってお話しした時、自分は何も分かっていなかった。しかし、そんな自分に対して、イエスさまは正面から向き合ってくださって、福音の真理を説いてくださった。だから、この福音をみんなに知ってもらいたい。そういう強い願い、思いをもって証ししていた。そんな姿を想像するんですね。
ヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
ちなみに私が小学生の時に憶えたのが、この聖句でした。暗唱聖句の中ではこの聖句が私の中で一番馴染み深いものとなっています。
ここで「世を愛された」と言われている「世」とは、全世界、全人類を指しています。世を愛された神さまの愛からこぼれ落ちている人は一人もいないのです。ですから、この「世」というところに、私たちは自分の名前を入れて読むことが出来ます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、( )を愛された。独り子を信じる( )が滅びないで、永遠の命を得るためである」。今度はみなさんとご一緒に声を出して読んでみましょうか・・・。
次の17節の「世」のところも、皆さまのご自分の名前を入れて読んでみられるとよいかと思います。ここもご一緒に読んでみましょう。「神が御子を( )に遣わされたのは、( )を裁くためではなく、御子によって( )が救われるためである」。
この神さまの素晴しい救いを「水と霊」、すなわち、キリストの救いによる「水のバプテスマと聖霊」によってキリスト者とされたのであり、実にニコデモは後に、そのようにこの言葉を受け取ったのだと思うのです。
皆さんも、自分の名前、自分の名前だけではありません。自分の大切な、あの人、この人の名前を入れて読んだらよいのです。が、しかしもっと深くゆたかに読んでいくのなら、「世」のところに自分がどうしても愛せないような、あの人、この人の名前を入れて読んでいくと、さらに神さまの御独り子の愛を深く感じとれるのではないでしょうか。
神さまの愛は、まことに度外れた愛なのです。ご自身に敵対する罪人である私たちのために、罪に滅ぶほかない私たちのために、身代わりとして御独り子イエスさまを十字架にお架けになった。又、イエスさま自ら私たちの罪のために裁きを受けて下さったほどの深い深い愛なのです。それほどの価値があるといえないような私のために。しかし、神さまはそうなさった。どうしてなのかは分かりません。それが神さまの愛だからとしか言いようがない。そして、それによって私たちが罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受けることになった。それは確かなことです。
愛というものは言葉に表そうとしても、なかなかうまく伝えることは出来ません。神さまの愛にしても言い表し得ません。しかし、神さまの愛は見えるかたちで、私の罪の裁きを受けて、十字架に磔にされるというお姿で現わされたのです。このイエスさまのあがないの死という出来事によって、神さまの愛は私たちに示されたのです。何万回「愛している」と言われても、その愛は分かりません。しかし、この愛する独り子を十字架に磔にしていった人々、敵対していたすべての人をも、神の子とし、永遠の命を与え、救い続けていてくださった、ここに神さまの愛があるのです。
18節「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」。
「裁かれない、裁かれる」。ここを読むときに神さまははっきりとされているお方であると思うのです。しかし16節から読みますとわかるように、ここは「世」を、ひとり一人をかけがえのない存在として愛される神の愛が語られているのです。その神の愛を信じるか、信じないか。
先ほど「世」のとこに名前を入れて読みましたが。私や私の大切な人の名前を入れることは容易いことですが。自分に敵対する人、自分に対してよく思わない人の名を入れて読み、祈っていくことこそ、愛なる神さまとつながって生きるってことなんですね。
ニコデモはファリサイ派として物心ついた時からずっと自分と人を分け隔てしながら生きてきました。しかしその神さまの深い愛を、頑なに拒み、それを受け入れず、信じない者は、既に裁かれている。
私たちはクリスマスを共に喜びの中で迎えましたが。神の御子イエスさまが世を救うために人となって来てくださったその目的は、すべての人、その誰も、この神さまの愛と救いを信じ、受入れて神と和解すること。そうして人が誰一人として罪に滅びることなく、神の救いと命に与ることにあります。
本日は「御子イエスにある命」と題して、ニコデモとイエスさまとの対話を背景に、御言葉に聞いていますが。
永遠の命とは、神が世にお遣わしになった「御子イエスのうちにある」こと、その御子イエスによる水と霊によって今も信じる私たちに与えられている、というメッセージでありました。
ニコデモの「神の国」「真理」「救い」への求道心はいつになっても途絶えることはありませんでした。最初は闇夜の中で人の目を気にしながらイエスさまを訪ねた彼が、先にも申しましたように、イエスさまが訴えられそうになると、公の場でイエスさまを弁護します。イエスさまに対する自分の立場を明らかにするのです。それは勇気のあることでした。
さらにイエスさまが犯罪人として十字架刑で死なれ、墓に入れられる時も、あの「人の子も青銅の蛇のように木にあげられなければならない」という言葉を思い起こしていたのでしょうか、没薬をもってきてイエスさまの遺体を葬ったのです。このようにニコデモはイエスさまとずっと関り続け、イエスさまを救い主、キリストと信じ、新しい人とされたのですね。
キリスト共に日々罪に死に、キリストと共によみがえる。毎日が新しい命に生かされている喜びの今年の私たちの歩みとなることを祈りつつ、この礼拝から遣わされてまいりましょう。
祈ります。
主よ、こうして新しい年、2020年を喜びをもって迎え、まずあなたを礼拝することから歩み出すことができます幸いを感謝します。
主よ、新しい年も、いつも、どんなときも、救いと命の希望であるあなたの内にとどまり続ける者であらせて下さい。そうして日々あなたによって新たにされる私たちが、あなたの栄光を表すものであるようにしてください。
主よ、今年もあなたのみ救いである福音の証し人として生きる私たちを、病魔や災いから守り、身も心も魂もすこやかであらせてください。
どうか、今年も私たち一人ひとりのすべての必要を満たしてください。
私たちの家族や家庭のうえに、又仕事や生活の上に平安と豊かな祝福をお与えください。
また、私たちが生きるこの世界と社会全体にあなたの平和をお与えください。世の権力、人の欲望、金や銀のあらゆる偶像礼拝が生み出す戦争、紛争や搾取、格差や虐げ、切り捨てや無関心があります。どうか生ける神であるあなたこそが神としてあがめられますように。
世界のだれもがあなたのご愛と救いを知って立ち返り、すべての人に与えられた命の
道を見出すことができますように。
全世界の諸教会と信徒に、私たちのうえに守りと平安、お用いがありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。