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誕生と使命

2024-10-06 13:32:16 | メッセージ
礼拝宣教    エレミヤ1章1~12節 

本日から約2カ月に亘ってエレミヤ書から御言葉に聞いていきます。
まず、このエレミヤについてですが。彼が預言者として立てられ、活動した時期については1章1節から4節までに記されております。ヨシヤ王が南ユダを統治していた13年目の紀元前626年に彼は主の言葉によって預言者として立てられます。そのヨシヤ王の時代は神の教えと戒めが読み直されたいわゆる宗教改革によって平安と繁栄が保たれていました。ところがヨシヤの子ヨヤキム王の時代になると国民(くにたみ)は主の教えを忘れ逆らい、腐敗していくのです。そして、次のゼデキア王の時代には遂に南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされ、南ユダ王国、そして都エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされてしまうのです。エレミヤは捕囚の民となる紀元前586年までの実に40年間に亘り、そのような激動の時代を主の預言者として活動したのです。

この預言者エレミヤの召命については、いくつかの特徴的な面を見ることができます。
それは、まず4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と記されていますように、エレミヤの預言者としての召命は、彼が自分からやりたくて求めたものではなく、又人から与えられたり、勧められたりしたものでもないということです。主ご自身が彼を召し出し、使命を与えた。しかもそれは、昨日今日決まったというものではなく、5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とありますように、エレミヤが生れる前からなんと主が計画なさり、預言者となるためにエレミヤは世に生れて来たのです。
詩編139編ダビデの詩にはこのような賛歌が記されています。
「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」
それはエレミヤだけではなく、私たち一人一人もまた、天地万物をお造りになられた主なる神さまが、母の胎内に私を造り、私のことを知ってくださり、ご計画をもって地上に送り出しておられるということです。
私たちがイエス・キリストのみ救いを信じ、新生の命に与ったことも、聖書には「神のご計画によって召された」とあります。「いや、私はそのような者ではない」とお思いになる方もいらっしゃるかも知れません。エレミヤもそうでした。
現代の社会において、多くの人が自分の存在意義を見出すことができず、苦しんでいるといえます。仕事や学問の成績が良いか悪いか。周囲の見た目や、地位や肩書き、お金があるかないか。そういうことで常に計り計られています。この社会ではそれらがあたかも人としての存在の意義であるかのように評されていることが、往々にしてあるのではないでしょうか。
聖書は私たちが存在している意義や価値をそうしたこの世の基準や評価によらず、創造主であられる神さまが母の胎内にいるときからあなたを造り、あなたのことを知っていてくださり、母の胎から産まれ出てからも、あなたと共にいて、この地上の人生を歩み行くものとしてくださるのです。
「青春の日々にこそ、おまえの創造主に心を留めよ。」あなたの若き日に、あなたの創造主を覚えよ」(コへレト12章)と聖書の言葉がありますが。まあ昔とは違うでしょうから70~80歳が青春であってよいわけです。大切なのは、今、この光のあるうちに光の中を歩むように、救いの神をほめたたえつつ、恵みに応えて生きる。その証しの日々に私たちが存在し、生かされている。これが良き知らせ、福音なのです。

主はエレミヤに、5節「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と語られます。
「聖別する。」それは、特別な目的のために取りわけておくということです。エレミヤが清いとか、聖なる者であったからというのではなく、主がエレミヤを諸国民の預言者としてお立てになるために、主自らエレミヤをその使命のために聖別されたのです。

その主の言葉に対してエレミヤはこう答えます。
6節「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」エレミヤはためらい、自分には相応しくありませんと、何とか逃れようとするのです。ちなみにエレミヤは「若者に過ぎないので、語る言葉を知りません」とも言っていますが。彼は当時少なくとも20歳にはなっていただろうということですから、単に年齢的に若いということではありません。自分のような若輩者にはあまりにその使命は重く大きすぎるという恐れの思いがあったのでしょう。それはエレミヤより少し前の預言者イザヤも主の召命にあたり、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と答えているのです。又、出エジプトのために立てられたモーセも、「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕に言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」とやはり答えました。
共通するのは、彼らが聖なる主への畏れを持つ人であったということです。又、その担うべきものがあまりに重く、自分の才能や能力によっては到底務めることなどできないという誠実さからくるものでありました。私なら出来と考えている人は、往々にして高慢と貪欲なために主がお用いになることができないのです。

さて、主はエレミヤに語りかけます。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」
主も引き下がりません。
ここで大切なのは、「主が共におられる」という確約、約束です。「主が共におられる」ことを頼みとし、杖としていく人を主はゆたかにお用いになられるのです。主はエレミヤを南ユダだけでなく、諸国民の預言者として立つよう任命されます。
そして主はエレミヤに「手を伸ばして、その口に触れ、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』と約束されます。主が必要な言葉を与え、共にいて必ず救い出す。そう仰せになります。
さて、そのエレミヤに思いもよらぬ主の言葉が臨みます。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
預言者エレミヤの生きた時代は、シリアや南ユダを含むパレスチナ地方一体の支配権をめぐり、大国エジプトとバビロンが争う中におかれていました。南ユダはエジプトと安全保障同盟のような関係を結ぼうとしますが、それは神の御心ではありませんでした。神は国民(くにたみ)が立ち返って神に信頼するよう預言者を通して語りかけます。エレミヤはエジプトに頼ればバビロンの反感を買い南ユダの滅びに繋がると王と民に訴えるのです。何だか昨今の情勢にも重なる話のようですが。

しかし、南ユダの国民は聞き入れられるどころか、エレミヤは多くの民から売国奴のようにみなされるのです。それでもエレミヤは主の御言葉に立ち、屈することなく、「主に立ち帰れ、戦争のための同盟に加わるなら南ユダは滅びる」と、警告を強く語り続けるのです。次第にエレミヤに対する非難中傷が激化し、彼の兄弟や親戚にもその被害が及ぶような危機にさらされていきます。

それでもエレミヤは最後の最後まで南ユダの国民に向け、「主に立ち帰らなければ、この国は滅ぶ」と訴え続けましたが。南ユダの王はじめ民はエレミヤの語る主の言葉に聞き従うことはありませんでした。そうしてまさに紀元前586年、主の預言のとおり南ユダの国は陥落してしまうのです。
それは「滅び」としかいいようのないものでした。主の言葉を語った預言者エレミヤの働きは無意味であったのでしょうか。
エレミヤに臨んだ主の言葉をもう一度よく読んでみましょう。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
確かにエレミヤの語った主の言葉は南ユダの国で現実となり、抜かれ、壊され、滅ぼされ、破壊さ
れました。
しかし、ここに「建て、植えるために」と、あります。崩壊と滅びの中においても、エレミヤの蒔
いた主の言葉は虚しく無くなったのではなく、やがてその来たるべき時、滅亡を免れた残りの人々
の間に主の言葉は芽を吹き、南ユダの国のみならず、世界に実りをもたらしていくのです。その預
言通り長い時を経てエルサレムへの帰還と信仰復興による神殿再建の時が訪れるのです。

11節、主はエレミヤにアーモンド(シャーケード)の枝を指し示して語りかけます。
「エレミヤよ、何が見えるか。」そこにはまだ実りの無いアーモンドの枝だけがエレミヤの目に映ります。
そのアーモンドは枝だけで実りの気配すらありません。アーモンドの木は枯れたように見えるその枝に、ある日突然ピンクの花を一斉に咲かせ、実をつけるそうです。当時の腐敗し滅亡せざるを得なかった南ユダの状況は実りの無いアーモンドの枝のようでした。
しかし、崩壊と共に捕囚の民の厳しい冬を耐え忍んだアーモンドの木が春の訪れと共にその枝に一斉に花を咲かせ、やがてアーモンドの果実を豊かに実らせるように、エレミヤを通して蒔かれた神の約束の言葉は、長い捕囚の民の生活を支え、解放とエルサレム帰還を経て実を結んでいくのです。

主なる神さまは12節にあるとおり、これからエレミヤを通して語られる言葉が成し遂げられるように見張っている(ショーケード)とおっしゃるのです。アーモンドは「シャーケード」、見張っているは「ショーケード」と、どちらも似ていますが。何かニューモラスにも思えますが。アーモンドの実はアーモンドの形が「目」に似ていることから、目にたとえられてもいるそうです。人々が何と悪い時代だ、逆に良い時代だと思っていても、神は見ておられる、見張っておられるのです。南ユダの民は滅びてしまったかに見えました。しかし、エレミヤを通して語られた神の言葉はバビロンから南ユダの民を帰還させ、荒廃したユダの地を植えなおし、信仰の復興がなされるのです。
確かにエレミヤが語った主の言葉は実現いたします。
エレミヤは「涙の預言者」と称されていますように。その生涯は、主の言葉を伝えても同胞の民から拒絶され、行く末を案じては憂い、涙する日でありました。けれどその語った神の言葉はそのエレミヤ自身の名が表すとおり、「主が建てたもう」という復興の実現として結実したのです。希望の種、御言葉を蒔き続けたエレミヤの人生でありました。

最後になりますが、本日は「誕生と使命」という題をつけました。
この世に生まれたのならば、何かを世に遺して人生を終えたいと考える人は少なくないでしょう。内村鑑三氏は「後世への最大遺物」「デンマルク国の話す」(岩波文庫)という本が著され、世の多くの人に読まれ続けています。
それは、当時の若い人たちのみならず、万民にむけても語られている内容であるからです。世で起した業績、地位や名誉、財産を遺せる人は一部でしょうが。すべての人が後世へ残せるものについて内村氏は、「高尚なる生涯」だと語っています。

エレミヤにとっての後世への最大遺物は、彼が命をかけて主の言葉にどこまでも聞き、それを伝えつつ生きていったその神聖にして高尚な生涯でありました。しかし、後世の最大遺物それは、何もエレミヤ、内村氏に限ったことではなく、すべての人びとのうちに主が託しておられることなのです。
それは世に生まれた者誰もは、天から与えられた使命が与えられているのです。私たちひとり一人が何のために誕生し、今を生き、存在しているのかを、今日の聖書の言葉から思いめぐらしつつ、ここから歩みだしていきたいと思います。

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