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限られた時

2018-07-22 20:11:56 | メッセージ

礼拝宣教 創世記19章15~29節 

 

本日は創世記19章からソドムとゴモラの火と硫黄による裁きと滅亡。又、そこでなされたロトの救出劇から御言葉に聞いていきたいと思います。

その中でも、なぜロトは裁きと滅びから逃れることができたのか、ということを重点的に見ていきたいと思います。

 

①  「主の憐み」

1節以降で、2人の御使いがソドムの町の状況を調査するためソドムを訪れるのであります。その調査は前回読んだ18章20節にあるように「ソドムとゴモラの罪は非常に重いと訴える叫びが実に大きく」、主が御もとに届いたその叫びのとおりかどうかを確認するため、主の御使いたちがお出でになったということです。

するとその時、町の門の所に座っていたロトが、この御使たちを立ち上がって迎え、地にひれ伏し、彼らを歓待したというのですね。

ここは少し不思議な気がします。なぜロトは一人、門の所に座っていたのか。又、なぜ主の御使いだとわかって引き留めたのか。それらは想像の域を出ませんが、ロトは罪の重いソドムの町とその人々に馴染めず一人門の外にたたずんでいたのかも知れません。又、肥沃な潤った土地での定住者としての生活は安定していても、心は虚しく飢え渇いていたのかも知れません。だからこそ主の訪れを敏感に感知できたのかも知れません。

そうして主の御使いをもてなしていたところ。その彼らが床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞってロトの家に押しかけ、取り囲んで「彼らをなぶりものにしてやる。ここに連れてこい」とわめきたて、ロトに迫って来たのです。ソドムの人たちも御使いを見て、ただならぬ人たちだと思ったようですが。何と自分たちの欲求を満足させるために「なぶりものにする」というんです。人間というのは堕落すると神への畏れを失うばかりか、自分の欲求のはけ口にまでしてしまう、というのはおぞましいことでありますが。それに対してロトは娘を差し出してまでも主の御使いに手を出さないようにと懇願します。

すると2人の御使いは戸口にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせて難を逃れることができたのであります。

 

そのような緊迫した状況の中で2人の御使いはロトにこういうのです。

「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです」。

ソドムの町にはアブラハムが主に執り成した10人も正しい者がいなかったという事でありましょう。

しかし、もしあの時、ロトが門の前にいた主の御使い気づくことがなかったなら、ロトとその家族親族もソドム町の人々諸共滅ぼされてもおかしくなかったのです。何事にも時があります。

これを聞いたロトは娘の嫁いだ婿のところに行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促すのですが、婿たちは冗談だと思ったというのです。

彼らにはその町の状況、もっといえばその時代に対する危機感や憂いが無かったのです。その潤った地に安住し、どっぷりと浸り込んで心が鈍くなっていたので、いくら促され警告されても、その心に響かなかったのでありましょう。

 

さて15節、夜が明けるころ御使いたちはさらに強く、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」とロトをせきたてます。ところが、ロトはためらいます。

それは、もとの言葉では「時を引き延ばす」「ぐずぐずする」との意味なんです。

 

すると、二人の御使いではなく、何と「主が憐れんで、2人の御使いにロト、妻、2人の娘の手を取らせて町の外へ避難させた」、いわば強制退去させたというのです。ロトが自主避難したんじゃないのです。主自らロトを憐れまれ、御使いに手を引かせ町の外に連れ出されるのです。

 

主はさらに、ロトに「命がけで逃れよ後ろを振り返ってはいけない低地のどこにもとどまるな山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」と言われます。

この4つの主が命令形で語られていることを行えば、滅びから救われる、と言われるのです。

ところがです。それに対してロトは、「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください。あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さい町です。あそこへ逃げさせて下さい。・・・どうか、そこでわたしの命を救って下さい」と、主に願うのです。

 

13章のアブラハムとロトの別れの記事には、ロトがアブラハムと別れていくにあたって、ヨルダン川流域一帯のソドムからツォルに至る低地の、肥沃で主の園のように潤っていたそのような地に移り住むことを選ぶわけですが。彼は家族らと、その財産である家畜とそれを管理する者たちと共にその地に移り住んで、定住者として安定した日々を過ごしていたのです。ですから再び先行きの見えない遊牧民の天幕に暮らすような生活に戻ることには、ためらいがあったのではないでしょうか。

ロトは主に対して「山まで逃げ延びることができません。小さい町・ツォルなら逃げて行けると思います」と言ったのは、ロトの心に山まで逃げるよりは、まだソドムに近い小さい町・肥沃な地に逃げ延びれば、今迄の生活に近い日常が送れるのではないか、という考えがあったんだと思うのです。

それは、主の言葉にそのまま従うことよりも、どこか自分の考えや生活の便宜性を優先させていた、と言えるのかも知れません。

 

そのようなロトの申し出に対して、主は言われます。

「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさない。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから」。

 

まあここを読みますと、主は駄々っ子のようにぐずぐずするロトのいうことを何と寛大にお聞きになられることかと思います。

山に逃げた方がよいに決まっているから、山まで逃げろ、と主は言われたのです。

それをためらうロトに主は叱責なさってもおかしくないのに、主はロトのことを憐れまれるのですね。なんとも不甲斐なく、肉の思いを捨て去り難い。又、そばで激しく葛藤しているロトを主は放っておくことができなかった。否、それ以上に、この主の憐れみ、ヘブライ語で「ヘセド」という言葉は何度も申しますが。自分の腸が痛むように憐れんだごとく、主はアブラハムの申し入れを飲まれるんです。ただその主の御憐れみのみによるのです

 

②  「アブラハムの執り成し」

さて、ロトが救いに与ったもう一つの大きなポイントは、29節に「神はアブラハムを御心に留め」と記されています、このアブラハムの存在にあります。

先週読みました18章でアブラハムは主と向き合いながら、とことん「ソドムのために取り成し」続けました。

それはソドムに正しい人が50人いたら、45人、40人、30人、20人、そして遂には10人しかいないかもしれません、とアブラハムは主に執り成すのです。

そして主は「その10人のためにわたしは滅ぼさない」というお約束下さるのです。

 

しかし今日の箇所にありますように、ソドムの町の悪行の実態はひどいものでした。まあそういうなかで、このロトとその家族も先に申しましたように、その主の御憐れみによらなければ救われない者であるにも拘わらず、29節「神はアブラハムを御心にお留めになって、ロトを破滅のただ中から救い出された」のです。

ロトには自分を滅びから救い出せる力はありませんでした。しかし彼は独り孤独ではなかったのです。彼のこと、彼が滅びから救い出されるために、その背後で親身になって執り成し続けたアブラハムの存在があった。主はそれを御心に留めて、ロトを救われるのです。

まあ、ここを読みますと、アブラハムの旧約聖書の時代の神の選びと祝福、又その

執り成しの大きさ、その力強さを本当に思わされますが。

それは今、新約の時代に生きる私たちにとりまして、まさに神の憐れみの顕現、顕れイエス・キリストの存在とその執り成しによって私たちも又、たとえ救いようのない者であっても、滅びの中から救い出されているこの幸いを思うものです。

 

私たちもロトではないですが、肉的生活に安住し、主に頼りきって生きる強い信仰を持ちえないような事がなきにしもあらずです。

しかしそのような私たちのためにイエス・キリストがヘセドの愛、腸を強く傷めるような憐れみのゆえに、十字架の上で執り成し、罪の贖いと救いを成し遂げて下さったのです。今日もこの主イエス・キリストのとりなしのゆえに、神さまは受ける資格のない私たちに救いの恵みを与えてくださっているのです。

この愛を頂いた私たちも又、愛をもって隣人のために執り成し祈る者でありたいと切に願うものです。

 

③  「限りある時」

最後に今日の宣教題を「限りある時」とつけました。

これまでの記事を時系列追っていきますと、アブラハムの執り成しは一日前の昼下りになされ、その日の夕方、2人の御使いはソドムに到着します。ロトが彼らを家に迎え、食事の後ソドムの者らがやって来て追い払われ、娘婿の所に行き、夜が明ける頃、ためらうロトは妻と2人の娘とともに町の外れへと連れ出されます。

先に読んだように、ロトは山ではなく近くの小さい町に逃れ、太陽が昇ったとき、主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地

一帯を、町の全住民、地の草木諸共滅ぼされたということです。

 

このように今日のところは、「昼下がり」「夕方」「夜明け」「太陽が昇った真昼」と、どこか時間や時の流れを意識しながら記録されているように思えます。アブラハムの執り成しからロトらの救出とソドムの滅びに要した時間は、僅か16時間前後であったということもわかります。

 

「ユダヤ5000年の教え」の著者であるラビ・マービン・トケイヤー師は、そのご著書の中でこう述べています。

「『タルムード』は「限られているものは何か?」と尋ねている。それは、人の生命であり、時間である。金銭よりは、時間の方が大切なのだ。それなのに、人々は金銭を使うときには慎重であっても、時間を浪費することについては、さして気にとめない。中略。しかし、2つのなかでは、時間のほうが大切であることを忘れてはならない。中略。お金で時間を買うことはできないが、時間でお金を買うことができる」と。

こうしたユダヤの人たちの考え方の根底には、聖書のコヘレトの言葉(口語訳は伝道の書)が示す、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。又、「神はすべてを時宜に適うように造られる」という信仰と思想とが反映されているように思います。

 

私たちは時間というある意味限られた中で、生かされ、生きています。時間が限られているからこそ尊いし、価値ある命とその営みを享受し得るのでしょう。もう二度と繰りかえされる事のない今という時。失われた時間は金銭では買う事ができません。

主の御使いがロトに「ソドムの町を滅ぼすために来た。家族を皆連れて逃げなさい」と告げた時、先にも触れましたが、ロトは「ためらった」のです。

それは限られた時を先に延ばそうとする企てなんですね。

でも時は限られているのです。その限られた時は、ロトのもつ財産や資産で賄えるものではなのです。まさにお金で時間は買えません。

「後ろを振り返ってはいけない」との主の警告に背いたロトの妻は「塩の柱になった」とございます。後ろのもの、過ぎた時間に囚われたら今を生きる事の価値が損なわれてしまう。

聖書はいつの日か必ずやって来る主の日と救いの完成に向けて、「私たちが限られた時をどう使い、どう活かして、生きるのか」を、いつも問いかけ続けています。

 

礼拝の招詞、エフェソ5章15-17節をもう一度読んで今日の宣教を閉じます。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」

今週も私に語られた主の御言葉をもってそれぞれの場へと遣わされて参りましょう。

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