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幸いの根っ子に!

2018-07-08 16:04:15 | メッセージ

礼拝宣教 創世記12章1~9 

 

先週は、あの九州北部豪雨から丁度一年を迎えましたが。その当日は私の母の介護のため北部九州の上空を飛行機で飛んでいて猛烈に発達した恐ろしい雨雲に巻き込まれ今まで経験したことのないような状況でありましたが。ところがその日と同じような集中豪雨が長期にわたり九州、中国四国地方、さら兵庫大阪北部、京都と襲い、各地からあらゆるところで数十年に一度という特別警報、避難指示、避難勧告が出され、亡くなられた方、まだ多くの行方不明の方がたもおられるという、考えられないような甚大な被害が出ております。6月18日に大阪北部地震が起きたばかりなのに、ほんとに何が起ってもおかしくないような恐怖を覚えますが。

 

本日は創世記12章、神からの召命を受けたアブラハムの記事から「幸いの根っ子」と題し、御言葉に聞いていきます。

 

(前背景)

アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいわゆる世界3大宗教の信仰の父祖と言われていますが。もとの名をアブラムと言い、今日12章の前の31節にはその父テラについてこう記されています。

「テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナンの地に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。」 そしてアブラムの父テラはハランの地で死ぬのです。

アブラムの前にその父テラもカナンの地を目指してその家族ともども移動していたのですね。ヨシュア記24章2節を読みますと、

「イスラエルの神、主はこういわれる『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含め、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向こうから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた』」とございますように、テラはその家族と一緒に偶像を崇めていたということです。

そのハランの地で父のテラを亡くしたアブラムですが、そこで彼は主からの召しを受けることになります。

 

(神の召しと約束)

まず神はアブラムに1節、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われます。

この「行きなさい」と言うのは命令や強制ではなく「自ら」「自分のために」行きなさいというのが正しく、それは自発的意志をもって行いなさいということです。

それに対してアブラムは自ら主のお言葉に従うことを選び取り旅立ったということであります。

 

さらに、ここで主はアブラムに「私が示す地に行きなさい」と招いておられるのですが。この

「示す」とは「見せる」とも訳されることから、主はアブラムにビジョンを見るために「自ら行け」と招かれるのです。

アブラムがハランを発ったとき75才であったとありますが、75才にして彼はビジョンを見るための決意をもって、自ら主のお言葉に従い立ち上がったということですね。

 

大方の人は60を過ぎますと、もう盛りも過ぎて、あと残りの人生何とか元気に、という方も多いかもしれません。けれども神の御言葉の招きを自ら選び取って、主が示されるビジョンを見るために立ち上がる。

私たちに年齢制限はありません。大切なことはいつでも、主の招きに自ら応えて、神のビジョンを見るために立ち上がる、ということですね。今日もこの主の御言葉の招きに応える者でありたいと願います。

 

2節で、神さまはアブラムに3つの約束をなさいます。

その1つは「わたしはあなたを大いなる国民にする」という約束です。

この族長時代に「あなたを大いなる国民にする」ということは、子孫が繁栄して増え拡がっていくということを表していました。

この約束は、アブラムの妻が不妊の女性で、子どもがいなかったときに与えられたのです。世の常識や見識を超えた神の約束であります。

 

2つ目の主の約束は「アブラムを祝福し、彼の名を高める」というものでした。

それは前の11章で、バベルの塔を建設しようとした人々が「有名になろう」。口語訳では「われわれは名を上げよう」と、人間の高慢が神のようになっていこうとすることとは対照的です。

「神が」人を祝福し高めてくださるということです。

 

そして3つ目が、今日の宣教題といたしました神の約束。アブラム自ら「幸いの根っ子になれ」という祝福の約束であります。

新共同訳の「祝福の源となるように」いう言葉の「源」は原語にはありませんで、「あなた自身が祝福である」、「あなたが幸いの根っ子」だ、という神の宣言であり約束なのです。

 

(神の祝福)

神はアブラムに続けて語りかけます。

3節「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

ここで興味深いのは、新共同訳ではわかりにくいのですが、もとの言葉では「アブラムを祝福する人は複数形ですが、呪う者は単数形」なのです。つまり、呪う者はわずかだが、祝福する人は大勢いるということです。

言い換えますと、アブラムのこれからのカナンに向かっていく道のりにおいて呪う者がいるのではないかと思えるような出来事が待ち受けているかもしれないが、それにまさってあなたを祝福する人の方が圧倒的に多い、ということなのです。

 

先ほどこどもメッセージの中にも、神さまは「あなたを愛し、あなたが生きていることを喜ぶ人は数えきれないほどたくさん現れるでしょう。わたしはその人たちのことも愛し、その人たちのいのちを喜びます。わたしは世界中のどの国の人も、どの民族の人も、あなたによって祝福へと招きます」とございました。

聖書には「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とありますが。そのように神さま

が祝福したアブラムを通して、その祝福は地上に拡がって行き、その祝福の根であるアブラムによって地上の氏族すべては祝福に入る、という神さまのお約束であります。

 

(御言葉に聞き従う)

まあ、そうは言いましても、アブラムには子もなく、また父と共に住んだハランの地は安住の地であり、今のままでも何ら問題もないような状況であったわけですから、アブラムも常識的

に考えるなら、今さらそんな大ごとは無用だ、と拒絶することもできたと思うのです。

しかしアブラムはその神の約束の言葉を自ら受けていくのですね。4節にあるように、唯「主の言葉に従って旅立った」のですね。

 

アブラムに与えられた目的地は、地図を見てココ、というのではなく、唯導かれる道を行くというものでした。主が示す地、主がビジョンを見せようとなさる地でした。

それが実際どこなのかはアブラムに語られていませんでした。

彼はその行き先も知らないまま、ただ主のお言葉に従うことを選び取って旅立ったのです。これが信仰です。何か保証があるから始めようか、ではなく。主の約束の言葉と導きの他ない、けれどもこれに従っていく。そこに信仰によるゆたかな人生のあゆみが与えられていくのですね。

さてそうして、彼は実際に「カナンの地に入った」というのであります。

彼はカナンの地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木のところまで来ます。そこにはすでにカナン人が住んでいたのでありますが、アブラムはひるむことなく、そのカナンの地に入ったというのですね。なぜなら彼には神のお約束があったからです。

 

 

 

(信仰と主の御業)

まあ、そうしたところがブラムは、7節『あなたの子孫にこの土地を与える』との主の御声を聞くこととなるのです。まさにアブラムは神さまの約束の地を確認するのです。

聖書はそれを信仰といいます。

先に今日の礼拝の招きの言葉としてヘブライ11:1読まれました。「信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することです」。

アブラムにとっては、子孫はどこにいるのか? あの砂漠の中のどこに行くのか?行く先も知らないまま家族を連れて踏み出すというまさに人生の大きな決断でありました。何か見えるような保護があったわけでもありません。必要な若さや力があるとも思えない状態でした。しかしアブラムは「わたしが見せる地に行きなさい」との主のお言葉に、唯自分をかけて踏み出すのであります。すると、「あなたの子孫にこの土地を与える」という具体的な確約と神の御業をアブラムは体験していくことになるんですね。これが信仰であります。見えるから信じる、保証があるから信じるのは、信仰とはいえません。これが私たちに与えられた神の御恵みです。

 

私たちも、主の御言葉を聞いて終わるのならなんの益もありません。

シンプルではありますが、聞いたことを信じて実際に行うとき、主は御業を起こしてくださるのです。何事に対しても、ああ自分に力がない、できないと思えることであったとしても、それが主の御心だと祈りの中で確信し、願いを起こしてくださった主により頼んでしっかりと祈りつつ、行動していくとき、主は必ず御業を仰がせてくださるのです。大切なのはその私のために用意してくださっている素晴らしい主の招きに自ら応え、信仰の人生を歩み出すことです。

 

(主の御目と語りかけと主への信頼)

さてそのような信仰とともにもう1つ大切なこと忘れてはならないことがございます。

それは主への信頼です。

主はアブラムに対し御自ら何度も「わたしが」と一人称で呼びかけられ、その呼びかけはあたかも「わたしに任せなさい。あとはわたしが責任を負うから」とおっしゃっているかのようです。

その「わたしが」とおっしゃる主の呼びかけに、アブラムは胸を打たれ、主に信頼して立ち上がったのではないでしょうか。

主は共においでくださる、との信頼は本当に大切だし、すばらしい祝福です。まあ、そう言うと、それはアブラムに起ったことで私には関係ないという方もあるかも知れません。しかし主は「地上の氏族はすべてアブラムによって祝福に入る」と言われました。そのアブラハムを経てそして今や、私たちはイエス・キリストによって「主はわたしと共におられるお方」となられたのです。

「わたしがあなたと共にいる」。

その主の御声が聞こえてこない。主が私たちに絶えず働きかけておられるにも拘わらず、自我の思いや願望でいっぱいになるあまり、その主の御声が聞こえなくなってしまうようなことが私たちにないでしょうか。そこには霊の耳が閉ざされているという状態が起っているのかも知れません。しかしそれはもったいないことです。確かに言葉にして祈れないような時もあるでしょう。しかしそんなときこそ、牧師や信仰の友に「わたしのために祈って」と遠慮無く伝えてください。

「主よ、あなたが働いてください、あなたの栄光を私に見せてください」と必死に求め続ける中に、主は不思議に証となることを起こしてくださるのです。信仰は体験です。

 

(献身について)

さて、そのアブラムの旅立ちについて5節にこうあります。

「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かった。」

このアブラムの旅立ちをよく献身になぞらえることもあります。献身と申しますと、何もかも捨てて、いわばその身一つで従っていく、ということを想像しがちですが。

ここでアブラムは何もかも捨ていったかというと、そうではいないのです。その理由は族長として家族やその仲間を養い守るために財産を管理するという責務もあったのでしょう。彼は家族や財産・家畜を管理しつつ大勢の人々と一緒に主の示される地へ旅立つのです。

 

ここで私が注目したのは、アブラムは神からいただいた、又いただこうとしている祝福を分かち合う仲間とともに旅を続けたということであります。

先週は神学校週間を覚えての礼拝でした。イエスさまは「収穫は多い、しかし働き人が少ない、働き人を起こしてくださるよう神に願いなさい」とおっしゃいましたが。まあ、そのお言葉のように、直接献身して伝道者になる方が起こされることは確かに必要なことでありますが。

その一方で、仕事や事業を通して神と人とに仕え、祝福を分かち合う働きに召された方も必要なのです。いや、むしろそういう人が生み出され、御言葉に養われ、世にあって福音をもたらす存在として用いられていく働きはまた尊く、大切です。

主によって立てられた各々がその遣わされた所で与えられた賜物や分に応じて主の働きに参与していく。それは本気で祈り、又執り成すこと、礼拝を心込めて捧げることも、それがどんなに小さなことであったとしても、主に忠実に仕えようとするとき、私たちも又、祝福、幸いの根っ子であり、主から戴いた祝福を「共に分かち合う」祝福をもたらす存在であるのです。

ある賛美歌の歌詞に「祈りと証し、愛の業 なさしめたまえ我らにも」とございますが。主が私の人生の旅路を証しとして下さるように祈りをもって、共々に愛の業に励んでまいりたいと切に願います。その実践を通して主は大いなるビジョンを私たちに仰がせて下さることでしょう。

 

(共なる礼拝)

最後に、アブラムはカナンの地に入るや、主のために、祭壇を築いた、とありますね。

また、ベテルの東の方に移ると、そこに天幕を張って、そこでも祭壇を築き、主の御名を呼んだ、とあります。おそらくそこにはアブラハムと共なる一行もいたのだろうと思われます。

そのように私たちも又、どこにいようと、又どのような状況であっても、私の生きる基盤である、主の恵みと愛による救いを一日一日、確認する時がほんとうに大切なのです。どんなよい業も私たちの救いの源、いのちの主を他において祝福、幸いの根っ子になることはできません。

その主、救いの主イエスへの感謝にあふれ、父の神に立ち返り、聖霊の親しき交わりの中で主の祭壇を築いて日々をあゆむことは本当に大切です。そして週のはじめの主の日の礼拝に主にある家族、兄弟姉妹と一緒に集い捧げることを通して自らの立ち位置が正され、主にきよめられて「神と人の交わりに生きる力を戴く」。そのことが私たちはどうしても必要なのです。ここに、共なる礼拝の大切さがあります。

 

今日は「幸いの根っ子に」と題し、御言葉に聞いてきました。

今日の宣教からそれぞれに必要な御言葉が語られたことでしょう。そのお一人おひとりに語りかけられた主の御言葉に自ら立ち、「神のビジョン」を仰がせていただく、その実現への御業に与る者とされてまいりましょう。主の祝福がさらに私たちを通して分かち合われていきますよう、今日もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。

 

 

 

 

 

 

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