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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

剣や槍によらず

2016-06-13 11:54:14 | メッセージ
 礼拝宣教  サムエル記上17・41~54
 
先週は元プロボクシング世界王者であったムハメド・アリさんが亡くなられたというニユースがありました。彼はイスラム教徒として米国のベトナム戦争への参戦には協力できず、兵役を拒否し非暴力を貫かれた人でした。そのため世の人々から心ないバッシングや差別を受けますが、それにひるむことなく、プロボクシングの世界王者に輝きます。引退後難病を患いますが、様々な慈善活動や平和的な奉仕をされてきた人です。

本日は少年ダビデと巨人ゴリアトの対決についてのエピソードです。小学生の頃教会学校で、お話や紙芝居を通してよく聞いたり見たりしたという方もおられるでしょう。今日はここからメッセージを聞いていきたいと思います。

本来は17章冒頭から読みますと、より理解しやすいかと思うのでありますが、その部分は割愛させて頂きました。

「経緯」
まずゴリアトとダビデとが対決することになった経緯についてですが。
10節で、ペリシテ軍の大男ゴリアトが、「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」と言い放ったとあります。このゴリアトは、ガド(パレスチナの由来の地)の出自で、背丈が3メートルもあり、60キロ近くある鎧を身に着け、7キロある槍を背負うまさに大男、巨人であったのです。40日間、朝な夕なそのゴリアトがやって来てイスラエル兵の戦列に「相手を一人出せ」と叫ぶのを見ては、サウル王もイスラエルの兵らも恐れおののいていたということです。
そのイスラエル兵の戦列の中に、先週も出てまいりましたエッサイの子、ダビデの兄の3人がおりました。ダビデは父エッサイの遣いとして3人の兄たちの安否を確かめるために送られて来るのですが、そこでゴリアトのいつもの言葉を聞くことになります。
すると1人のイスラエル兵が他の兵士らにこう言うのです。「あの出て来た男を見たか。彼が出て来るのはイスラエルに挑戦するためだ。彼を討ち取る者があれば、王様は大金を賜わるそうだ。しかも王女をくださり、更にその父の家にはイスラエルにおいて特典を与えてくださるということだ。」
それを聞いたダビデは周りの兵士に「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは。あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」そばにいた兄のエリアブは、ダビデに腹を立て「何をしにここに来たのか。お前の思い上がりと野心はわたしが知っている」とたしなめます。
きっと兄からすれば、ダビデのとった態度は、何て偉そうで、生意気なのかと思えたことでしょう。確かにダビデは少年でありながらも自分の将来や父のことなど考えていたのかも知れません。ダビデは再度同じことを兵に聞き、その答えが同じであることを確認するのです。この辺に何ともダビデの人間臭さというものが出ているようにも思えるのですが。

そのダビデのことをサウル王に告げるものがいました。私の想像ですが、その兵士はダビデが「生ける神の戦列に挑戦するとは」と言った時の少年ダビデの言葉と意思の強さに感銘を受けたのではないでしょうか。この兵士からダビデのことを聞いたサウル王はダビデを召し寄せます。ダビデはサウル王に対しても、堂々と「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が言って、あのペリシテ人と戦いましょう」というのですね。ダビデの言葉の端々に神への畏れの思いが読み取れます。
しかしサウル王は「お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。戦うことなどできはしまい」と答えます。まあ当然といえば当然です。それでもダビデは思いを曲げることなくサウル王にこのように言うのです。
36‐37節「彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」 
実はここにダビデのダビデたる所以、神を神として畏れ敬い、その神に寄り頼んで勝利を得ていった体験があり、それが確信となっていたのです。それは又、父のいうことを忠実に聞き、託された羊を命がけで守る日常のあゆみから培われた資質でもあったのでしょう。いずれにしろ、ダビデの根底にあるのは「神への畏れ」と「神が共におられる」ことへの信頼です。彼は若くして生ける神にこそ、事の一切を統べ治めるお方であることを知っており、ゴリアトのように神を畏れることなく自分の力を神のように誇示する者の行く末が、滅びであることを確信していたのです。

サウル王はこの少年ダビデの言葉と気迫に押しきられるようい、「行くがよい。主がお前と共におられるように」と、ゴリアトと1対1で戦うことを認めるのです。唯しかし、何しろまだ少年ですからダビデのその身を察し、彼に王の装束を着せ、その頭には青銅の兜をのせ、身に鎧を着けさせ」、武装させます。
 ところが当のダビデは「こんなもの着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と断ります。何ともユーモラスな場面に思えますけれども。ここでも少年ながらダビデははっきりと自分の身の丈にあった戦い方を心得ていたんですね。
「ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取り、川岸から滑らかな石を5つ選んで、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れて、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った」のです。

「剣や槍によらず」
ここからが本日の箇所になりますが、巨人のゴリアトがダビデに近づいて来て、彼を認めるや「ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った」とあります。ゴリアトはダビデに向かって「わたしは犬か。杖をもって向かって来るのか」「自分の神々によってダビデを呪い、お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と豪語します。サウル王が神々と言っているのは、様々の神ならざる偶像のことです。

そのような挑発にダビデはひるむことなく、巨人のゴリアトに対して確信をもってこう語ります。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」主の名によってお前に立ち向かう、ここが本日のメッセージの肝心要のところです。
 ゴリアトは自分の力や武力によって戦いを挑んで来るのでありますが、ダビデは主の名によってその大きな力に立ち向かっていくのです。
47節「主は救いを賜わるのに剣や槍を必要とされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは、主のものだ。主がお前たちをわたしの手に渡される。」
どうでしょう。私たちは時に対決をしなければならない何がしか、あるいは対峙しなければならない諸問題が起こってきます。
その時、鎧や兜で身を固め、剣や槍をもって武装して戦闘態勢に入っても、決して神の栄光を顕わすことはできません。48節以降には、その戦いの様子が描かれています。
「ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうための戦いの場に走った。ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した、ダビデの手には剣もなかった。」

ここで強調されているのは、ダビデが剣や槍によってではなく、生ける神への信頼と「主の戦いなのだから主が守ってくださる」との信仰的な確信をもって、非常に厳しい戦いをひるむことなく挑んでいった。そこに生ける神の守りと勝利がもたらされた、ということであります。
私たちそれぞれにも信仰の戦いはあるでしょう。それはやがて表わされる神の勝利に向けての戦いであります。やがていつか証しに変えられる日が訪れる。そのために必要なのは「剣や槍ではなく、神への信頼と主の御名によって立ち向かう信仰」です。

さて、今日の箇所を最後まで読みますと。ダビデが「ペリシテ人の剣を取って、とどめを刺し、首を落とした」「ペリシテ人は刺し殺され、遺体は道に続くように倒れていた」などと、ほんとうに戦争のむごたらしい状況がそのまま伝えられています。
日本の戦国時代や、まさに大坂冬の陣、そしてこの茶臼山の夏の陣もそうですが、真田丸という大河ドラマもやっていますけれども、所詮戦争は殺すか殺されるかのむごたらしい殺し合い、略奪行為であり、美談で語られるものではありません。
旧約聖書は人間のそのような赤裸々な姿を隠さずそのまま描写しています。それは人の世にあって権勢や権力によるせめぎ合いが常に起こって来ます。また、一度そのような状況になれば、たとえ神を畏れる者であっても、手を血で汚すような状況が直接ないにせよ、生じ得るということです。神の戒(10戒)ははじめから「殺すな」「奪うな」です。神を神として拝し、敬い、自分のように隣人を愛する。これが神の戒めの黄金律であります。
私たちの主イエス・キリストは、まさにその黄金律を完全なかたちで示すためにこの世においでくださいました。その究極的顕れが、あの十字架の非暴力、無抵抗のお姿であります。主イエスこそ父の神への畏れと真実に人が生きる命を勝ち取るために戦われたお方であります。ニ度と私たちとこの国が血で手を汚す歴史を繰り返さなくてよいように、こどもや孫たちの世代に命の尊さを伝え、主の平和の福音の拡がりと命の尊厳を求め祈り、執り成す。そのことが益々求められている昨今ではないでしょうか。

先週の水曜日、安全保障法制は違憲とする提訴が大阪地裁になされました。一昨年7月に首相が憲法解釈によって集団的自衛権を認めるという閣議決定をなし、さらに昨年9月19日に弩号が飛び交い騒然とする中、現政権は議事録も残されない異常な状態で「安全保障法制」を強行採決しました。あのような議事録も残されていない採決は議会制民主主義としてはあり得ないことで、無効だと言わざるを得ません。この「安全保障法制」は平和憲法を骨抜きにし、短絡的に武力に依存していくことにつながる危惧を強く感じております。この訴訟が今の時代の中で、冷静な議論を呼び覚ます一助となればと願っています。

又、先日の火・水・木と「9条世界宗教者会議」が中央区の御堂筋沿いにある真宗大谷派難波別院(通称 南御堂)で開催されました。この会議には日本、韓国、香港、中国、タイ、インド、ドイツ、アイルランド、カナダ、アメリカから約120名の宗教者が参集したのでありますが、日本国憲法、とりわけその憲法9条は世界に誇るべき、共有されるべき素晴らしい宝だと改めて思った次第です。武力によって平和は築けません。報復に報復、憎悪に憎悪が増し加わり無益な血が流されるばかりです。それが今も世界の脅威となっています。

最後になりますが 9条世界宗教者会議の冒頭挨拶に立たれたNCC議長さんの言葉を紹介して、本日の宣教を閉じます。「世界の平和は正に危機に瀕していると思わざるを得ない。イエスは「民は民に、国は国に対立して立ち上がり、方々に地震が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」(マタイ13・8)と言われた。この産みの苦しみは始まり、それは世界のあり方が真に正されるための苦しみと聖書は語る。その産みの苦しみを引き受け、担い合うのは宗教者だと信じます。その平和を築く覚悟を持てるのが宗教者ではないか。」

今日の47節にあるダビデの言葉のように、「主は救いを賜わるのに剣や槍を必要とはされない」ことを世に示していくのは、少年であったダビデが神を畏れぬ巨人のゴリアトに立ち向かってゆくようなものではないでしょうか。しかし私たちにも武器はあります。
それは主イエス・キリストなる神の愛という石投げ紐と命の言葉という小石です。私たちもそれぞれに身近な隣人から世界へとキリストの平和を祈り求めていく者でありますよう、祈ります。

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