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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

昼は雲の柱、夜は火の柱

2015-07-19 14:48:45 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記13章17-22 節  

本日は先程子どもメッセージでお話されましたとおり、奴隷の地エジプトから逃れたイスラエルの民を、神がカナンの地へとまっしぐらのペリシテ街道には導かれず、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられ、その旅路を昼は雲の柱、夜は火の柱をもって先立ち、導かれたという箇所であります。ここには、「回り道」「ヨセフの骨」さらに「雲の柱と火の柱」の三つのエピソードが続きます。今日はそれらが指し示す「神さまの導き」ということについて御言葉より聞いていきたいと思います。

「近道となる戦いのルート」
イスラエルの民は遂にエジプトを脱出しました。その目的地は、遥か昔彼らの父祖であったアブラハムに神が告げられた乳と蜜の流れる約束の地、故郷カナンの地であります。けれども世代はすっかり移り代わった彼らには、その目的地がどこなのか定かでありませんでした。そんなイスラエルの民の先頭を神は離れることなく導いてゆかれます。 
神はエジプトを脱出したばかりのその民に、カナンへの一番の近道となるペリシテ街道に導かれません。カナンへはこのペリシテ街道を経て入るのが通常の一般的ルートであったのですが、そうはなさらなかったのです。聖書は、神さまがそのルートへ民を導かれなかった理由について、「民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われたからである」と伝えます。このペリシテ街道はエジプトとパレスチナを結ぶ公道として様々な民が往来し、そこにイスラエルの民が踏み入ることは他民族との争い、まさに戦争になりかねなかったのです。そういう意味から、神はこの近道のルートを避けられたのであります。
幾世代も奴隷として生活してきたイスラエルの民が戦闘状態に陥った時、後悔してエジプトに再び帰ろうとするかも知れない。しかしそこにあるのは滅びでしかありません。先週、皆さまもご存じのとおり、衆議院で安全保障関連法案が与党多数によって可決されました。まだこの法案は参議院を経ていないので決まったものではありませんが。
これまで日本の自衛隊は憲法の下、専守防衛、個別的自衛権(自国を守ること)の原則に徹した任務を遂行し、戦後この原則のもと集団的自衛権を禁じることで、他国と戦争を交えることはありませんでした。憲法9条は戦争に加担することへの実質的歯止めとなって日本は不毛の戦争に巻き込まれずにすんだ今日があります。が、昨年7月の「集団的自衛権」(戦闘行為)が行使できるようにした閣議決定と先週の「安全保障関連法案」の衆議院での採決は、まさに武器や戦力をもって外国に出て行くこと、日米同盟の下、アメリカ軍のために自衛隊が集団的自衛権を発動することができるようにしたものです。それはこれまで日本が大事に保ってきた専守防衛とは全く異なるもので、こちらから武器や武力で戦闘行為をなす、そのような事態になりかねないという大転換となります。私たちの日本はかつての大戦で、どれだけ尊い人命が奪われたことでしょうか。これまで戦後70年という永い間憲法を尊び平和が堅持されてきた恵みを今こそじっくりと顧みながら、聖書の示す命と平和の主に祈り求めてまいりましょう。

「回り道」
さて話を戻しますが、ここで神は民を近道の「戦いが生じる道」ではなく、葦の海に通じる「荒れ野の道」に迂回させられたというのであります。それは「スコトから旅立って、荒れ野の端のヨタムに宿営し、葦の海の前に通じる道」でした。すなわちカナンという目的地から見れば、明らかに回り道であったのです。しかもそれは荒れ野の道であります。まあ、普通であればスムーズに進める近道を通って目的地につけるのならそれに越したことはないと思うのが私たちであります。けれども神さまはそのようには導かれなかった、ここに本日のメッセージがあります。神さまは彼らをわざわざ遠回りの道へと導かれたのは、イスラエルの民が彼らを守り導かれる神さまご自身を知り、その恵みを自ら体験することが必要だったからです。それは、彼らがほんとうの意味で名実共に神の宝の民とされるためであり、その経験を通して神に信頼をもって生きる者とされるためであったのです。
私どもクリスチャンも、いつも目の前に2つの道を見ているのではないでしょうか。
一見、合理的で人の思いや欲求に適う道と、たとえ遠回りに思えても、祈りつつ荒れ野でしか聞くことのできない神の御声に聞き従い、御業を仰いでゆく道です。いずれにしてもいえることは、神への信頼は信仰の体験によって深められるということです。

「ヨセフの骨」
さて、この「遠い回り道」と次の「ヨセフの骨を一緒に携え上った」2つ目のエピソードは繋がっていきます。どちらも人の目には遠い道のりと永い時を要したという点で共通しています。このエピソードの基となったのは、創世記50章のヨセフの遺言ですが、  その24-25節に次のように記されています。
「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携え上ってください」。
まさにそのヨセフの預言と遺言はイスラエルがエジプトの奴隷となってから400年以上の歳月を経て遂に実現するのであります。神さまはその永い年月の間中ずっとイスラエルの民をお忘れになることなく見守っておられたのです。「神の計画と人の計画は異なる」と聖書にございますが。たとえすぐに結果が現われなかったとしても、さらには自分の世代で神さまのご計画が目に見える形で現われなかったとしても、神さまは決して約束をお忘れになったり、取り消されるようなお方でないのであります。ヨセフの兄弟、子、孫、ひ孫、玄孫へと神さまのビジョンが語り継がれてゆく中で、たとえ時代は移り変っても、神さまの約束は決して変ることなく、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放し、先祖に約束された地カナンへと導かれるのであります。そのことがこの「ヨセフの骨を一緒に携えて上る」エピソードに証しされているのです。
人はすぐに答えを出そうと急ぎ、目先の事で結果や効果を期待し、すぐ判断しようとしますが、神さまの顧みと導きは人の思いを越えて働かれるのです。イスラエルの民はこれまでずっと先人たちを守り導き、今こうして自分たちを顧み導いていてくださった神さまの大いなる恵みを知るのです。

「雲の柱、火の柱」
次に3つ目の「雲の柱と火の柱」のエピソードについて見てみましょう。
21節に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」と記されています。
これは神さまが遠回りの荒れ野の道を行かせた民をたえず導いてくださるしるしです。荒れ野の日昼は暑さが非常に厳しいです。そういう中を旅することは大変困難を極めたでしょう。その道のりにおいて民が疲れをおぼえるとき、神は大きな雲の柱を立て強烈な日照りから民を守り導いてくださったのです。又、荒れ野の夜の旅路は一転して急激に冷え込みます。真っ暗で不安も襲って来たでしょう。そこは強盗をはじめ、猛獣や毒蛇に襲われる危険がありました。そういう時神は火の柱を立てて民を照らし、不安と恐れから守ってくださったのです。イスラエルの民はそうして神さまの導きによって昼も夜も平安を得て、行進することができたのです。
「神は民の先頭を離れることはなかった」と記されていますが。先頭を行く者が道を間違えれば大変です。神自ら民の先頭を一時も離れることなく導かれる。これ以上確かなことはありません。私どもの教会も同様ではないでしょうか。今日がありますのは主ご自身が私どものあゆみの先頭を決して離れることなく、昼は雲の柱、夜は火の柱を立てて守り導いて下さったからにほかなりません。

「今日のお話を受けて」
今日のお話から思いますのは、イスラエルの民のみならず私どもも又、その願いとは異なる遠い回り道の荒れ野のような困難な状況に、疲れ覚えたり不安になったりすることがあります。けれども聖書は、この「荒れ野の回り道」のような中で、「神さまがあなたと共におられる、あなたの人生を守り先導しておられる」というのです。
近道をして短時間で目的地に着くのは確かにいいことのように思えます。しかし私どもクリスチャン、主の愛に見出され生かされている者は、たとえ苦労や困難な道を辿ることがありましても、神さまが共におられ守り導いてくださっていることを、机上ではなく信仰の体験として知らされるのですね。
神さまに召し出されて神の民として歩む。その原点が何かを私たちはすでに聞いてまいりました。申命記7章6節-8節「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。
彼らが神の民とされたのは、彼らが力強く能力があったからではなく貧弱であったけれども、そんな彼らを神さまは断腸の思いで慈しまれ、我が民、宝の民とされたというんですね。それがイスラエルの民が神の民とされた原点だというのです。

ですから、すべて一切はみな神さまの御憐れみ、恵み以外の何ものでもないのですね。スムーズに近道で目的地に着けば人間って傲慢ですから自分たちの手柄や能力だと自慢したり勝ち誇ったりいたします。しかしそれでたとえ人の目に立派に映ったとしても、神の民としての証しにはなりません。逆に、荒れ野のような回り道、行く先の見えないような旅路は確かに困難と厳しさ、不安や恐れもございます。しかしそこで、謙虚に祈り神の言葉によって力づけられ、互いに祈り祈られるその中で神の宝の民とされていく恵みの出来事が起こされていくのですね。そのように、民を先導し、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって神さまは私どもをたえず守り導いてくださるというのが、今日のメッセージであります。
私どもクリスチャンも又、神さまの深い憐れみ、御子イエスの十字架の犠牲と贖いの死によって、弱く罪深いこの身が救い出され、驚くべきかな、神の子として生かされていることを知っています。
神さまに召し出された私どもの生は、この地上において、神の御恵みが臨んでいることを証しすることにございます。この世の旅路は険しくとも、先立ち導いてくださる神さま、たえず共にいて守り導いていてくださる神さまに信頼しながら、決して恵みを見失うこのなくこの旅路を共に歩んでまいりたいと思います。

最後に御言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるのかは お前に告げられている。
 正義を行い、慈しみをもって愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」
                             ミカ書6章8節
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