礼拝宣教 出エジプト5:1-6:1 神学校週間
本日は神学校週間をおぼえて礼拝を捧げております。先程アピールがなされました。私たちの教会が加盟する日本バプテスト連盟の教派神学校としては福岡の西南学院大学神学部がございます。まずは、この神学部と神学生のことをおぼえて祈り、ささげていきたいと願っておりますが。西南学院大神学部報をはじめ幾つかの資料を教会員の方には配布していますので、どうぞ目を通していただければと思います。又、昨今全国諸教会においては、西南学院大学神学部の卒業生以外にも、東京バプテスト神学校、又九州バプテスト神学校の卒業生たちが牧師、又副牧師、伝道師、各主事として多数働いておられます。働きながら学ぶことのできる東京、九州バプテスト神学校の存在も献身者には大きいので、共におぼえて頂けると幸いです。
先週は3章のモーセの召命の箇所から「わたしは何者でしょう」というテーマで御言葉を聞きましたが。本日の箇所の前4章では、そのモーセは神さまからエジプトにおいて奴隷の身となっていたヘブライ人たちを解放する使命とそれに伴うしるしを約束されます。ここを読みますと、神さまは自分の無力さを知っているモーセをそのご用にお立てになったことが分かります。
神さまは「自分には能力がある、自分に自信があるから働けます」という者を召されるのではなく、自分の足りなさや弱さを知るがゆえに神さまに祈り従うほかない者をご用のためにおもちいになられるのです。折しも本日は神学校週間をおぼえて礼拝をささげておりますが、そこに主の召しの原点があり「主に信頼して応えていく」ということが献身なのであります。モーセは「わたしは弁が立つ方ではありません」「全くわたしは口が重く舌の重い者なのです」「ああ主よ、どうぞだれか他の人を見つけてお遣わし下さい」と言うのですが、神さまはそのようなモーセと共にそのご計画を行うため、パートナーとして兄のアロンをお立てになるのです。雄弁であったアロンはモーセの語るべきことを代弁する者とされました。そして、モーセには神の杖が与えられ、神のしるしを行う者とされたのです。モーセは到底一人では負いきるものではないと思うのですが、神さまはその働きを補い支える人をちゃんと起こして下さるのです。そのように私たちの身近なことの中においても、不思議に助け手が与えられたというお証しがおありではないでしょうか。
さて、5章の冒頭で、いよいよ2人は主の言葉をエジプトの王ファラオに伝えるのでありますが、「主とは一体何者なのか、どうしてその言うことをわたしが聞かねばならないのか」とファラオは激怒し、エジプトにいるヘブライ人たちに過酷な労働を課せ苦しめるのであります。エジプトには当時の労働者が自分たちが仕える神にささげものをささげるために巡礼をしたという記録が残っており、そのように他国の労働者が一時宗教的行事で出国することが許されていた、ということです。ではなぜファラオはモーセらの申し出を退けたのでしょうか。それはファラオがイスラエルの民らは一時的な巡礼ではなく、エジプトから出て行こうとしているということを悟ったからです。
このモーセとアロンがエジプトの王ファラオに主の言葉を伝えたことは、結果的にエジプトにいたイスラエルの人たちに一層過酷な苦役を課せる結果となりました。民の監督としておかれていたイスラエル人の下役たちは、その不当な仕打ちに耐えかね、ファラオに直訴しますが受け入れられず、イスラエルの民が苦境に立たされたことを悟り、モーセやアロンに「このようになったのはあなたたちの責任だ」といわんばかりに激しく抗議しました。
同胞から怒りをぶつけられたモーセは、22節にございますように「主のもとに帰って、訴えます。『わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません』。」
モーセはこのように強く神に抗議するのです。
このモーセの「なぜ」という言葉には、神のおっしゃったとおりに行動し、実行したのになぜこのような結果になってしまったのか、という思いや、神は虐げられる民をその苦役から救い出すと約束されたにも拘わらず、神の手は動かない。それどころか自分たちがなした事で民に益々苦役を課せられることになってしまった。「わたしを遣わされたのは、一体なぜですか」と、彼は主に問うたのです。
興味深いのは、聖書はモーセが神に抗議した際に「主のもとに帰って、訴えた」と記述していることです。「主のもとに帰る」とは、主なる方に向きを変え、その「御もとに立ち帰る」ことを意味します。「なぜ」との訴えは、単なる神への抗議や神否定ではなく、一対一の神との対話の祈りであったのです。
モーセは「あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」と、主に訴えます。
よくそこまで神さまに対して言えるな、と思われるかもしれません。が、それはうらを返せば、そこまでモーセが神さまと組合い、格闘するぐらいの思いでもって、神の言葉と約束に向き合って来たからこそ、そのように強く主に訴えることができたんではないでしょうか。
「主のもとに帰って、訴える」ということは、極めて信仰的なことであり、そこに身をおく事をとおして常に主と自分との関係を再確認させられていくのです。
主はそのモーセに言われます。
「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
事態が悪くなっていく現実にモーセは主の手は動かない。「あなたは御自分の民を全く救い出そうされない」と言うのですが、主は「わたしの強い手によって」それは成る。
今目に見えるところは災いと思えるような現実であろうとも、「わたしの強い手によって」それはやがて果たされることになる、とモーセに語るのであります。
主がここで「わたしの強い手によって」と2回も強調しておられるのは、まさに虐げられ打ちひしがれていた主の民が抱えた苦しみや痛みへの共感がそこに込められているように私は思うのでありますが、その後の6章5節以降で主はモーセに仰せになります。
「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」
大いなる審判によってあなたたちを贖う。ここに主の究極の救いが示されているのではないでしょうか。
私たち信仰を与えられて歩んでいるものにとりましても、日常の出来事の中で、時に状況が悪くなっていくばかりのように見えることがないでしょうか。そういった時に、私たちはどのようにあればよいか、ということを今日の聖書の言葉は指し示しているように思えます。
22節、「モーセは主のもとに帰って、訴えた。」
困難の中でなお主のもとに帰って、どこまでも主と一対一で向き合い、格闘し主を離れずにその約束の言葉に依り頼み続けていくこと。必ず私を強い御手をもって導き、腕を伸ばして、大いなる主イエスの審判によって贖いたもう、との祈りと信仰を私たちは求めつつ歩んでいきたいと願うものです。
最後に、ヘブライ人への手紙4章14節-16節をお読みして宣教を閉じます。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰を保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
本日は神学校週間をおぼえて礼拝を捧げております。先程アピールがなされました。私たちの教会が加盟する日本バプテスト連盟の教派神学校としては福岡の西南学院大学神学部がございます。まずは、この神学部と神学生のことをおぼえて祈り、ささげていきたいと願っておりますが。西南学院大神学部報をはじめ幾つかの資料を教会員の方には配布していますので、どうぞ目を通していただければと思います。又、昨今全国諸教会においては、西南学院大学神学部の卒業生以外にも、東京バプテスト神学校、又九州バプテスト神学校の卒業生たちが牧師、又副牧師、伝道師、各主事として多数働いておられます。働きながら学ぶことのできる東京、九州バプテスト神学校の存在も献身者には大きいので、共におぼえて頂けると幸いです。
先週は3章のモーセの召命の箇所から「わたしは何者でしょう」というテーマで御言葉を聞きましたが。本日の箇所の前4章では、そのモーセは神さまからエジプトにおいて奴隷の身となっていたヘブライ人たちを解放する使命とそれに伴うしるしを約束されます。ここを読みますと、神さまは自分の無力さを知っているモーセをそのご用にお立てになったことが分かります。
神さまは「自分には能力がある、自分に自信があるから働けます」という者を召されるのではなく、自分の足りなさや弱さを知るがゆえに神さまに祈り従うほかない者をご用のためにおもちいになられるのです。折しも本日は神学校週間をおぼえて礼拝をささげておりますが、そこに主の召しの原点があり「主に信頼して応えていく」ということが献身なのであります。モーセは「わたしは弁が立つ方ではありません」「全くわたしは口が重く舌の重い者なのです」「ああ主よ、どうぞだれか他の人を見つけてお遣わし下さい」と言うのですが、神さまはそのようなモーセと共にそのご計画を行うため、パートナーとして兄のアロンをお立てになるのです。雄弁であったアロンはモーセの語るべきことを代弁する者とされました。そして、モーセには神の杖が与えられ、神のしるしを行う者とされたのです。モーセは到底一人では負いきるものではないと思うのですが、神さまはその働きを補い支える人をちゃんと起こして下さるのです。そのように私たちの身近なことの中においても、不思議に助け手が与えられたというお証しがおありではないでしょうか。
さて、5章の冒頭で、いよいよ2人は主の言葉をエジプトの王ファラオに伝えるのでありますが、「主とは一体何者なのか、どうしてその言うことをわたしが聞かねばならないのか」とファラオは激怒し、エジプトにいるヘブライ人たちに過酷な労働を課せ苦しめるのであります。エジプトには当時の労働者が自分たちが仕える神にささげものをささげるために巡礼をしたという記録が残っており、そのように他国の労働者が一時宗教的行事で出国することが許されていた、ということです。ではなぜファラオはモーセらの申し出を退けたのでしょうか。それはファラオがイスラエルの民らは一時的な巡礼ではなく、エジプトから出て行こうとしているということを悟ったからです。
このモーセとアロンがエジプトの王ファラオに主の言葉を伝えたことは、結果的にエジプトにいたイスラエルの人たちに一層過酷な苦役を課せる結果となりました。民の監督としておかれていたイスラエル人の下役たちは、その不当な仕打ちに耐えかね、ファラオに直訴しますが受け入れられず、イスラエルの民が苦境に立たされたことを悟り、モーセやアロンに「このようになったのはあなたたちの責任だ」といわんばかりに激しく抗議しました。
同胞から怒りをぶつけられたモーセは、22節にございますように「主のもとに帰って、訴えます。『わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません』。」
モーセはこのように強く神に抗議するのです。
このモーセの「なぜ」という言葉には、神のおっしゃったとおりに行動し、実行したのになぜこのような結果になってしまったのか、という思いや、神は虐げられる民をその苦役から救い出すと約束されたにも拘わらず、神の手は動かない。それどころか自分たちがなした事で民に益々苦役を課せられることになってしまった。「わたしを遣わされたのは、一体なぜですか」と、彼は主に問うたのです。
興味深いのは、聖書はモーセが神に抗議した際に「主のもとに帰って、訴えた」と記述していることです。「主のもとに帰る」とは、主なる方に向きを変え、その「御もとに立ち帰る」ことを意味します。「なぜ」との訴えは、単なる神への抗議や神否定ではなく、一対一の神との対話の祈りであったのです。
モーセは「あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」と、主に訴えます。
よくそこまで神さまに対して言えるな、と思われるかもしれません。が、それはうらを返せば、そこまでモーセが神さまと組合い、格闘するぐらいの思いでもって、神の言葉と約束に向き合って来たからこそ、そのように強く主に訴えることができたんではないでしょうか。
「主のもとに帰って、訴える」ということは、極めて信仰的なことであり、そこに身をおく事をとおして常に主と自分との関係を再確認させられていくのです。
主はそのモーセに言われます。
「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
事態が悪くなっていく現実にモーセは主の手は動かない。「あなたは御自分の民を全く救い出そうされない」と言うのですが、主は「わたしの強い手によって」それは成る。
今目に見えるところは災いと思えるような現実であろうとも、「わたしの強い手によって」それはやがて果たされることになる、とモーセに語るのであります。
主がここで「わたしの強い手によって」と2回も強調しておられるのは、まさに虐げられ打ちひしがれていた主の民が抱えた苦しみや痛みへの共感がそこに込められているように私は思うのでありますが、その後の6章5節以降で主はモーセに仰せになります。
「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」
大いなる審判によってあなたたちを贖う。ここに主の究極の救いが示されているのではないでしょうか。
私たち信仰を与えられて歩んでいるものにとりましても、日常の出来事の中で、時に状況が悪くなっていくばかりのように見えることがないでしょうか。そういった時に、私たちはどのようにあればよいか、ということを今日の聖書の言葉は指し示しているように思えます。
22節、「モーセは主のもとに帰って、訴えた。」
困難の中でなお主のもとに帰って、どこまでも主と一対一で向き合い、格闘し主を離れずにその約束の言葉に依り頼み続けていくこと。必ず私を強い御手をもって導き、腕を伸ばして、大いなる主イエスの審判によって贖いたもう、との祈りと信仰を私たちは求めつつ歩んでいきたいと願うものです。
最後に、ヘブライ人への手紙4章14節-16節をお読みして宣教を閉じます。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰を保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」