イースター宣教 マタイ28:1-10
主イエスの復活の記事はそれだけで終っていません。
他の福音書にはない続きがあるのです。「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた」というのです。ちなみに、この「おはよう」はギリシャ語原語であなたに「喜びがありますように」という意味です。
そうです、何と復活の主イエスさまはこの二人に先立ち、自ら女たちに出会ってくださるのです。すると「女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。彼女たちの喜びはいかばかりであったことでしょう。ひれ伏したとは、まことの主を礼拝したという意味ですね。
聖書教育4~6月号(日本バプテスト連盟発行)に本日の聖書個所を読む視点として、「私たちは復活のイエスさまがどこにいるのかと探そうとしますが、実は、復活したイエスさまの方が私たちを探しておられます」と記されています。ほんとうにそうなんですね。私たちが探す前からイエスさまが私たちを探し出し、たとえ私たちが気づかなかったとしても、イエスさまは私たちに近寄って来てくださっている、どんなにうれしい知らせでしょうか。
イースター礼拝のために、祈りのしおり、又案内のはがき、チラシを作りました。そのイースターの「案内はがき」の大きな見出しに、導かれるままにこういう言葉を記しました。「わたしのそばにはいつも、もうひとつのあしあと」
これは友人の牧師が、学生の時でしたか当時まだ作者不明であった「あしあと」という英語の詩からイメージして曲をつけたのですが、その歌詞の一部分であります。ちなみに、その詩の原文の邦訳は以下のとおりです。
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみのときに、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
この詩はマーガレット・F・パワーズさんという方が書かれたものです。彼女が学校の先生をしていた時、教室で雷に打たれて、激しいショックを身に受けました。彼女が雷に打たれた同じ日、帰宅途中に雷に打たれた彼女の教え子は亡くなってしまいました。彼女は自分の体に残る苦しみと、亡くなった子供のことで悩み、つらい毎日を送ります。どうしてあの子が死ななくてはいけなかったのか、どうして自分は生きているのか。彼女は毎日祈り続ける中、ついに聖書に答を見つけます。それは、死が終わりではないということ、神様を愛し、イエス・キリストを信じるなら、永遠の命が保証されているということを知るのです。しかし、彼女は落雷のショックから体調が戻るのに何ヶ月もかかるということが分かり、仕事を断念せざるをえなくなります。自分の体調、大切な教え子、そして生きがいだった仕事を同時に失って、彼女は深い悲しみの中にいました。
マーガレットさんと結婚したポールさんも、つらい生い立ちを背負った人でした。彼は、母親を幼くして亡くし、酒に酔った父親から虐待を受けて育ったのでした。ポールが血を流し泣いていても、父親は彼を殴り続けたのだそうです。母親を失い、楽しい少年時代も奪われてしまったポールは、警察沙汰を起こす少年に育ちました。彼は一つの少年院からまた別の少年院に転々として何年もの歳月を過ごします。しかし、彼は、「あるキリスト教の集いに誘われ、何度か参加するうちに、神と対話するようになります。母親が死んで以来心の中に隠してきた自分の思いを神に打ち明け、「わたしはあなたを愛している」とささやく神のみ声に聞きしたがって、神様を信じるようになりました。
この二人が出会い、親しくなっていきます。二人はお互いの過去を話し、「でも、どんな時でも、神様がすべてを導いてくださる」と涙を流して語り合います。この二人が、結婚を決意するときのことです。二人は砂浜を歩きながら話していました。二人は波に流されたあしあとをめぐってさまざまな話しをします。その時、マーガレットがこう語ります、「二人で対処できないような大変なことがこれから起こったらどうしよう」。するとポールは答えます、「そういう時が来たら、その時こそ、主が私たちを背負い、抱いてくれるときなのだ」。これが「あしあと」という詩の作られた背景であったというのです。
実はこのあしあとの詩にまつわるエピソードにはまだ続きがあります。
この多くの人々を感動させた「フット・プリント(あしあと)」という詩は、長い間、作者不明とされていました。この作者がマーガレット・パワーズさんのものだということが分かったのは、まったく思いもかけない出来事によってであったのです。
それはマーガレットさんの夫と娘が水難事故に巻き込まれ、自分も腕を折るという試練の時、入院していた夫に看護婦さんが「この詩をお読みすれば、きっと励ましになると思うの」と読んでくれたのが、マーガレットさん自身が若い頃に作ったあの「フット・プリント(あしあと)」という詩だったのです。ほんとうに不思議なことは起こるものですよね。
「神さま、あなたはどこにおられるのですか」「あなたは助けてくださらないのですか」と
思うようなつらい時。神さまは私たちを背負って共に歩いてくださっている。
あの二人のマリアが主イエスと出会われた時のように、私たちがあなたはどこにおられるのですか、と探そうとする前から、私たちを探し出し、主イエスは共にいてくださる。
「わたしのそばにはいつも、もうひとつのあしあと」。私たちの信じる生ける神さまはこのようなお方であられるのです。
復活の主イエスに出会うことを願うすべての人に、聖書はそのように語りかけ続けます。
主イエスの復活の記事はそれだけで終っていません。
他の福音書にはない続きがあるのです。「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた」というのです。ちなみに、この「おはよう」はギリシャ語原語であなたに「喜びがありますように」という意味です。
そうです、何と復活の主イエスさまはこの二人に先立ち、自ら女たちに出会ってくださるのです。すると「女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。彼女たちの喜びはいかばかりであったことでしょう。ひれ伏したとは、まことの主を礼拝したという意味ですね。
聖書教育4~6月号(日本バプテスト連盟発行)に本日の聖書個所を読む視点として、「私たちは復活のイエスさまがどこにいるのかと探そうとしますが、実は、復活したイエスさまの方が私たちを探しておられます」と記されています。ほんとうにそうなんですね。私たちが探す前からイエスさまが私たちを探し出し、たとえ私たちが気づかなかったとしても、イエスさまは私たちに近寄って来てくださっている、どんなにうれしい知らせでしょうか。
イースター礼拝のために、祈りのしおり、又案内のはがき、チラシを作りました。そのイースターの「案内はがき」の大きな見出しに、導かれるままにこういう言葉を記しました。「わたしのそばにはいつも、もうひとつのあしあと」
これは友人の牧師が、学生の時でしたか当時まだ作者不明であった「あしあと」という英語の詩からイメージして曲をつけたのですが、その歌詞の一部分であります。ちなみに、その詩の原文の邦訳は以下のとおりです。
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみのときに、あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
この詩はマーガレット・F・パワーズさんという方が書かれたものです。彼女が学校の先生をしていた時、教室で雷に打たれて、激しいショックを身に受けました。彼女が雷に打たれた同じ日、帰宅途中に雷に打たれた彼女の教え子は亡くなってしまいました。彼女は自分の体に残る苦しみと、亡くなった子供のことで悩み、つらい毎日を送ります。どうしてあの子が死ななくてはいけなかったのか、どうして自分は生きているのか。彼女は毎日祈り続ける中、ついに聖書に答を見つけます。それは、死が終わりではないということ、神様を愛し、イエス・キリストを信じるなら、永遠の命が保証されているということを知るのです。しかし、彼女は落雷のショックから体調が戻るのに何ヶ月もかかるということが分かり、仕事を断念せざるをえなくなります。自分の体調、大切な教え子、そして生きがいだった仕事を同時に失って、彼女は深い悲しみの中にいました。
マーガレットさんと結婚したポールさんも、つらい生い立ちを背負った人でした。彼は、母親を幼くして亡くし、酒に酔った父親から虐待を受けて育ったのでした。ポールが血を流し泣いていても、父親は彼を殴り続けたのだそうです。母親を失い、楽しい少年時代も奪われてしまったポールは、警察沙汰を起こす少年に育ちました。彼は一つの少年院からまた別の少年院に転々として何年もの歳月を過ごします。しかし、彼は、「あるキリスト教の集いに誘われ、何度か参加するうちに、神と対話するようになります。母親が死んで以来心の中に隠してきた自分の思いを神に打ち明け、「わたしはあなたを愛している」とささやく神のみ声に聞きしたがって、神様を信じるようになりました。
この二人が出会い、親しくなっていきます。二人はお互いの過去を話し、「でも、どんな時でも、神様がすべてを導いてくださる」と涙を流して語り合います。この二人が、結婚を決意するときのことです。二人は砂浜を歩きながら話していました。二人は波に流されたあしあとをめぐってさまざまな話しをします。その時、マーガレットがこう語ります、「二人で対処できないような大変なことがこれから起こったらどうしよう」。するとポールは答えます、「そういう時が来たら、その時こそ、主が私たちを背負い、抱いてくれるときなのだ」。これが「あしあと」という詩の作られた背景であったというのです。
実はこのあしあとの詩にまつわるエピソードにはまだ続きがあります。
この多くの人々を感動させた「フット・プリント(あしあと)」という詩は、長い間、作者不明とされていました。この作者がマーガレット・パワーズさんのものだということが分かったのは、まったく思いもかけない出来事によってであったのです。
それはマーガレットさんの夫と娘が水難事故に巻き込まれ、自分も腕を折るという試練の時、入院していた夫に看護婦さんが「この詩をお読みすれば、きっと励ましになると思うの」と読んでくれたのが、マーガレットさん自身が若い頃に作ったあの「フット・プリント(あしあと)」という詩だったのです。ほんとうに不思議なことは起こるものですよね。
「神さま、あなたはどこにおられるのですか」「あなたは助けてくださらないのですか」と
思うようなつらい時。神さまは私たちを背負って共に歩いてくださっている。
あの二人のマリアが主イエスと出会われた時のように、私たちがあなたはどこにおられるのですか、と探そうとする前から、私たちを探し出し、主イエスは共にいてくださる。
「わたしのそばにはいつも、もうひとつのあしあと」。私たちの信じる生ける神さまはこのようなお方であられるのです。
復活の主イエスに出会うことを願うすべての人に、聖書はそのように語りかけ続けます。