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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

復活の主イエス

2010-04-07 19:48:51 | メッセージ
イースター宣教(1)マタイ28:1-10

「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に見に行った」と記されています。
安息日が金曜夕方から始まり土曜夕方に終わりますので、安息日が終わって週の初めの明け方というのは、これは日曜日の明け方のことであります。この日、主イエスはよみがえられ、死より復活されたと聖書は伝えます。
この朝、それまでずっとイエスさまに同行して来た二人のマリアはイエスさまの葬られた墓を訪れます。彼女たちはイエスさまが十字架刑で処刑される折も、ずっとそれを見守っていました。弟子たちは逃げ去ってどこかエルサレム周辺の場所に身を隠していたようでありますが。彼女たちは心からイエスさまをお慕いしていたんでしょう。彼女たちのイエスさまを失った悲しみや嘆き、その涙はつきなかったことでしょう。
そんな時、大きな地震が起こり、イエスさまの葬られたお墓に天使が出現します。
天使たちは、墓をふさいでいた石をわきへ転がし、その上に座りました。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったとあります。
墓の番をしていた番兵たちはこの光景をみると、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと聖書は伝えます。この番兵たちとは、前の62節以降に記されているように、イエスが生前「三日後に復活する」と言っているのを聞いたユダヤの祭司長や律法学者たちが、もし弟子たちが来て墓から遺体を盗み出し、復活したなどと言いふらすなら、人びとをさらに惑わすことになりかねないと、ピラトに願い出てユダヤ人の番兵たちをそこにおき、墓に封印をしていたのです。この番兵たちは、あたかもイエスの復活を、そんなことはありえない、あるわけないと否定する不信仰を象徴しているかのようです。しかし、その不信は恐怖のうちに打ち破られます。

一方、同じようにイエスの墓にいた二人の女たちですが、彼女たちも天使の出現と墓が開かれる光景を目の当たりにして恐れるのでありますが、彼女たちは天使から語りかけられ、その希望のみ言葉を耳にするのです。そこが番兵たちと全く違いました。
同じ出来事に遭遇して片や不安と恐怖。片や天からの励ましと希望。キリスト者の日常についても同じことが起きますよね。不信が起これば不安や恐れに取りつかれますが、キリストを訪ね求めるなら天からの励ましと希望を受けます。


さて、そのみ言葉は、「恐れることはない。あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」というものでした。「イエスは死からよみがえられて墓にはもうおられない」というのです。
さらに天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。
すると、女たちは「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。恐れながらも大いに喜んでいたという様子、どうでしょう。まだ復活の主イエスをその目で見たわけじゃない。その復活の主イエスと顔と顔を合わせたわけじゃない。その知らせを聞いた時、喜びが湧きあがってきたのです。
Ⅰペトロの手紙1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています」とありますように、主イエスを訪ね求める人は、この墓という場所に象徴されるような絶望や悲しみの中でさえ、希望が、喜びまでもが与えられていくのです。彼女たちが急いで墓を立ち去ったというのも、このよき知らせを一刻も早く弟子たちにもたらしたい、伝えなければという思いでいっぱいであったということなのでしょう。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」ヘブライ11:1
目に見えないものを信じる信仰は、希望と喜びの源であります。

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