環境問題スペシャリスト 小澤徳太郎のブログ

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「将来不安」の解消こそ、政治の最大のターゲットだ

「原爆資料館で見つけた故パルメ首相のメッセージ」と「閣内の環境相の位置づけの重要性」

2010-08-17 11:15:13 | 政治/行政/地方分権
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8月14日のブログでは、22年前に当時のスウェーデンのエネルギー・環境大臣一行と広島の原爆資料館と竹原火力発電所を訪問した思い出を紹介しました。
そして、8月15日は第65回の終戦記念日でした。


今日はもう一度、思い出を紹介します。

★原爆資料館で見つけた故パルメ首相の色紙

ダール大臣一行と広島の原爆資料館を訪問した翌年、89年4月4日に、私は再び、原爆資料館を訪問しました。そして、その時に見つけたのが次の写真が示すスウェーデンの故パルメ首相の手書きの色紙でした。



No man or woman on earth can be ? ? (文字が判読不明) on the name of Hiroshima. This must never happen again.
世界の人々は、ヒロシマの名において決して過ちを犯してはならない。このことが決して再び起こってはならない。

Olof Palme
December 8 1981
軍縮と安全保障に関する独立委員会委員長      
オロフ・パルメ氏
昭和56年12月8日来館

写真を撮り損ねたのですが、近くに飾られていた中曽根康弘氏の色紙は私のアルバムのメモによりますと肩書きと名前、つまり「内閣総理大臣 中曽根康弘」とだけだったと書いてありました。

余談ですが、故パルメ首相がヒロシマを訪れたおよそ10年前、1972年6月に「第1回国連人間環境会議」がスウェーデンの首都ストックホルムで開催されました。そのときの新聞記事にスウェーデンの「戦争と環境問題に対する基本認識」の一端を垣間見ることができます。



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社会的な合意形成 ⑤ 環境問題解決の鍵:科学と政治()2007-03-04)

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再び「科学者」と「政治家」の役割(2007-11-29)


★1990年1月9日の内閣の改造

次の図は、スウェーデンの環境・エネルギー大臣一行がヒロシマを訪問した8ヶ月後に行われた内閣改造の一端を示したものです。


故パルメ首相を引き継いだカールソン首相は、当時スウェーデンが直面していた諸問題に対処するため、内閣の中に全体を統括する「特別グループ」と具体的な問題に取り組む「3つのグループ」を設置し、各閣僚をそれぞれのグループに配置しました。このグループの配置に当時の首相の「環境問題に対する基本認識」が見てとれます。特別グループと3つのグループのすべてにエントリーされているのが「環境相」です。

この内閣改造に伴って、来日中は「環境・エネルギー相」であったビルギッタ・ダールさんは内閣改造後に「環境相」となりました。スウェーデンが直面していた諸問題の対処に設置されたすべてのグループに環境相がかかわっていることに注目して下さい。「日本の環境相の閣内での位置づけの重要性」と「スウェーデンの環境相のそれ」との間には大きな落差があることがわかります。この落差は「環境問題に対する基本認識」の相違に基づくものだと思います。

この内閣改造が1990年、つまり20年前だったことが重要です。20年後の今なお、そして、政権交代がなされても、日本では「強固な縦割り行政」が“継続(持続)し”、問題の解決を妨げています。気候変動への対応のような具体例でも、日本の環境省と経済産業省の間には協力関係が成り立っているようには見えません。  

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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (三谷)
2010-08-19 00:07:46
お世話になっております。
ブログいつも拝読しております。
元スウェーデン環境相とのお写真、若い小澤先生を拝見することができました。当時からのご活躍の一端を見た思いです。
また、記事で紹介されている故・パルメ首相の対応がなんというか実にかっこいいですね! 本当に大人の国の、大人な首相だったのだと感じました。
環境相の位置づけでも、この国がいかに長期的な広いビジョンに基づいて「本気」で動いているのかが非常によくわかりました。
引き続き更新楽しみにしております。
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時には古いことも・・・・・ (小澤)
2010-08-19 12:15:05
三谷さん、

よく、「歴史に学ぶべきだ!」と聞いたり、読んだりします。人間社会の一般論としては、その通りだと思います。

しかし、私たちが、今直面している「地球規模の環境問題」を考える時には、1970年頃まで遡って考えることは必要ですが、それ以上歴史を遡っても、学ぶべきことはあまりないのではと、私は考えます。

1970年の大阪万博のスカンジナビア(2007-03-18)
http://blog.goo.ne.jp/backcast2007/e
/2d4bb62a597608336e8553b82b61862d

日本の江戸時代は「循環型社会だった」とか「リサイクル社会だった」とよく言われます。そうだったのかもしれませんが、私たちが
これからの未来社会を考える時の参考にはあまりならないと思います。

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URLをもう一度 (小澤)
2010-08-19 14:18:25
http://blog.goo.ne.jp/backcast2007/e/2d4bb62a597608336e8553b82b61862d
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Unknown (三谷)
2010-08-20 22:40:29
小澤先生

コメントご返答まことにありがとうございました。
今後も「時には古いことも」を期待しております。
さて、おっしゃるとおり「歴史に学ぶべきだ」という「いい言葉」はよく言われますが、思うにそれが「歴史を学ぶ」ことの本質的な意味ではないのではないかと最近思います。
かつて史学の学生だったころ「歴史学ほど世のためになっていない学問はない」と思ったものです。それがなくなっても(歴史学業界の人以外に)誰も困らないだろうからです。
そうではなく、おそらく、ある人の行動や心理の問題を分析するのに不可欠のデータが成育歴・生活歴であるのと同じことが集団についてもあてはまる、それが「歴史の意味」なのではないかと思います。
われわれの過去=歴史が、今のわれわれ自身のアイデンティティを形作ってきたのであり、いわば私たちは歴史的存在そのものであると。
先生がおっしゃっていた通り日本人が「まったくだらしがない」状態にあるのは他人事ではなくそう思います。
いわば「社会が病んでいる」ということだと思います。
なぜだらしがないのか、それにどう対処すればいいのか、そしてその人が立ち直るために不可欠な人生の「夢」とは何だったのか…
思うにスウェーデンとはきわめて幸福な来歴を経てきた国なのだと思います。
その表れこそ持続可能な国づくりにかける国民やリーダーの「本気さ」に、まさに今回の先生の記事のように現れていると強く感じます。
江戸時代以前・前近代の日本の歴史については、こうして見てみれば当たり前とはいえ、おそらく私たちのアイデンティティにとってきわめて重要な時代だったと思います。
そのことをきれいに忘れて抑圧してきたことが、現在の日本人の病=だらしのなさの根底にあるものだと私には見えますが、いかがでしょうか。
以上は岡野先生の受け売り(正しく理解しているとして)ですが、しかし確かにその通りだと思うのです。
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事実に対する解釈や分析はいろいろあるが・・・・・ (小澤)
2010-08-25 07:38:20
三谷さん、

スウェーデンと日本は、一見対極にあるように見えますが、それは20世紀後半の現実社会への対応相違によるものだと思います。

60年代に表面化した「高齢化の急激な波」がスウェーデンの「高齢者福祉」を進展させ、世界が注目する「新年金制度」を生みだし、80年代に表面化した「地球規模の環境問題」が20世紀の「福祉国家」から21世紀の「緑の福祉国家」(エコロジカルに持続可能な社会)への転換を選択したのだと思います。

つまり、現在は人間による過去の選択の結果なのだと思うのです。次の2つのブログを参照して下さい。

★再び、「今日の決断が将来を原則的に決める」という経験則の有効性(2007-07-30)
http://blog.goo.ne.jp/backcast2007/e/bb827a3f830a028bb72e3807124a61e8

★「混迷する日本」を「明るい日本」にするために(2009-01-13)
http://blog.goo.ne.jp/backcast2007/e/68857261aebc6b472d0f6096d0625042

私が日本の江戸時代の「循環型社会」や「リサイクル社会」がこれからの日本の未来社会の参考にならないだろうと書いたのは、「自然」と「人間」の力関係が相対的に大きく変わってきているからです。

江戸時代までは人間の力は自然に対して圧倒的に非力でした。ところが、現在では、自然のかなりの部分が人間の力で抑え込まれています。

ですから、現在の人間社会を支えている電気が世界的規模で1週間完全に停電すれば、1ヶ月であればなおのこと、私たちは自然の力のすごさを改めて認識することができるでしょう。
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Unknown (Unknown)
2010-09-02 01:40:11
小澤先生、ご返信ありがとうございます。
お忙しい所とは思いますが更新楽しみにしております。

さて、歴史ということに限らず、ことがらへの解釈や分析は様々とのことで、まったくその通りだと思います。日本では言論の自由が保障されているという表面上の事柄にとどまらず、あらゆる解釈に相対的に真理があるという意味で本質的にそう思います。

先生は歴史を考えることには現代の問題に取り組む上ではまったく妥当性はないとのお考えかと思いますが、それは世界の外面だけを見るうえでは正しいのだと思います。
外面にはどこにも歴史の意味も価値も見出すことができないからです。
たしかに近世・江戸期に相当高度に達成されていたとされる「循環型社会」や「リサイクル社会」をどれほど学んでみたとしても、それがどれほど興味深く郷愁を覚えようとも、私たちがそこに帰れるとは到底思えないという意味でほとんど意味がないのは間違いありません。

思うに歴史とは内面のカテゴリーに属することだと思われます。両国の現状の大きな距離が「20世紀後半の現実社会への対応相違」から生じたのは先生が書いておられる通りなのだと思いますが、私にはその対応相違のスタート時点ですでに大きな差があったのではないかと思われました。
それは歴史の違い、内面のレベルの差だったのではないでしょうか。

これは受け売りであって私が考え出したことではもちろんなく、(正しく理解できているとして)持続可能な国づくりの会の理念の理論的背景にあるケン・ウィルバーの四象限説の言っていることですが、小澤先生はこのことをどのようにお考えでしょうか。
その理論からすると、外面の問題に取り組むには本質的に内面の問題に取り組まなくてはならないことになります。とくに内面の時限がほとんどきれいに忘れられている現代日本の思想風土においてはなおさらで、だからこそ、今こそ歴史を取り戻さなければならないのだと思いますが、いかがでしょうか。
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意見交換には共通の基盤が大切 (小澤)
2010-09-11 09:52:42
「先生は歴史を考えることには現代の問題に取り組む上ではまったく妥当性はないとのお考えかと思いますが、それは世界の外面だけを見るうえでは正しいのだと思います。」

 この理解は正しくありません。私はそのような大それた認識を持っておりません。

 私が申し上げたのは人類の歴史においては「江戸時代」を含めて、それまでとその後現在に至るまで「自然と人間の力の間には相対的に大きな力の変化」が生じており、現在の環境問題の状況は人類歴史上経験したことがない初めてのこと(つまり、地球の限界、地球の有限性)だ、だから私たち人間の将来を考える際に地球の限界をまったく意識しなくてもよかった江戸時代は参考にならないだろうということです。

 ですから、これは事実の確認です。答えはたぶん「イエス」でしょう。議論余地はないと思います。「ノー」であれば、議論の余地はあります。

 歴史学徒であられた三谷さんに、歴史に苦手意識が強い私が三谷さんの発言にコメントするのは恥ずかしい限りですが、三谷さんのコメントは、私の問題意識を遙かに超えた「歴史に学ぶ」の一般論に広がってしまっています。


 三谷さんがおっしゃる歴史は内面であれ、外面であれ、人間の生きてきた記録ですから、人間が行き続けている限り、類似の現象が歴史上くり返されています。つまり、今起きていることは過去にも起きているので、将来を考える時の参考になります。ですから、「歴史はくり返す」というのは正しい経験則だと思いますし、「歴史に学ぶ」というのも合理性があると思います。


 「ケン・ウィルバーの四象限説」というのはよく知りませんので、答えに詰まります。しかし、三谷さんがおっしゃる「外面の問題に取り組むには本質的に内面の問題に取り組まなければならないことにならないことになります」ということは、「まず、内面を、それから外面を」ということなのでしょうか。

 そうでしたら、この考えは「なぜ日本の現状が困った状況にあるかの説明」としては論理的にわかり易いのですが、既に起きている困った状況、これから起こると推定されるさらに困った状況への対応には「まず内面を」というのは適切ではないように思います。日本の現状ではまさにホープレスです。私は日本にもう少し希望を持ってきました。外面上の理解がしっかりできれば、内面も変化してくると・・・・・・

 目の前に起こっている問題や発言に無関心なのも問題ですが、直ぐ感動するというのも素直には喜べません。

 そこで、「私の環境論」の1つの柱である次のブログを紹介します。

再び、「今日の決断が将来を原則的に決める」という経験則の有効性 
http://blog.goo.ne.jp/backcast2007/e/bb827a3f830a028bb72e3807124a61e8






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Unknown (三谷)
2010-09-18 01:04:18
お世話になっております。コメントご返信いただきありがとうございました。

歴史に関する認識について、誤解をしてしまったようで大変失礼いたしました。
江戸期の日本人が、地域的にはともかく、世界全体としての環境の有限性を意識することがまったくなかっただろうことは、おっしゃる通り議論の余地のないことだと思います。

さて、意見交換には共通の基盤が必要とのこと、まったくその通りだと思います。自分勝手に発言しないよう気をつけたいと思います。
ところで、「内面/外面」ということがキーワードになっているように感じますので、以下、その共通基盤について検討できればと思います。

「内面」ということに関しては、「唯脳論」的な還元主義的言説がきわめて常識化・空気化してほぼ疑われることのない状態にある日本において、ほとんど等閑に付されている分野ないし次元であるのは間違いないと思います。
それがために、よくて「覚り」や先生のおっしゃる「無限に通じる世界」、悪くすれば妙なオカルトや怪しげなスピリチュアリティと誤解されがちだと思われます。いずれにせよ人間の生きている「現実」、人間が営む経済社会のリアリティからはほど遠い「いいお話」ないしは「単なる幻想」だという色濃いニュアンスが感じられます。

この場合、ある種の譬えが有効だと思われますが、いかがでしょうか。

いわば内面と外面の関係は(よくつかわれる譬えで安易なようですが)、PCにおける「ソフトウェア」と「ハードウェア」、またはネット世界における「情報空間」と「情報インフラ」ととらえるとイメージしやすい状況になっているのではないかと考えられます。

ソフトにも情報にも、単純に外面的・経験的世界に占める位置がある「実体」では全くありませんが、それにははっきりとしたリアリティがあるといわざるをえません。
それはこうしてネットやブログが成立していることを見ても明らかです。

「情報(=内面)などは単なる幻想でリアリティはない」ということは、PCを使って生活している限り言えないというわけです。
同じように人間として生きている以上、とくにこうして言語でコミュニケートしている以上、内面のリアリティは否定できないことになります。
つまり、外面も内面も、どちらも人間にとっては不可欠のリアリティであり、どちらか一方に還元できないと。

日本人の「病=だらしがなさ」の克服には、病が内面・心の問題である以上、まず・もっぱら内面からのアプローチが必要だと、世代的な実感として感じられます。
これもたとえば、パソコンがウィルスに感染して機能不全に陥っている場合には、ハードの外面的環境をいくら調整してもその機能不全には触れることができない、というのと類比的だと思います。
必要なのは、たとえば有害サイトに近づかないことetc…。
環境危機に対して理解できない→行動できないという日本人の行動の背後には、そうした病=機能不全があるのだと考えられます。
まさにもっぱら内面的に「ホープレス」というわけです。

しかしこれはあくまで譬えであって、人間の場合の内面がコンピューターなど比較にならないほど複雑で高度なものである(人間の知れる限り宇宙一複雑なシステム)が重要だと思います。

日本におけるこうした議論のベースとして、たぶん最も必要なのがいわば「内面の存在証明」ではないかと私は思います。
その点については持続可能な国づくりの会の理論的ベースである、先に書きましたウィルバーの所論が決定的ではないかと思いましたので、よろしければぜひご参考になさってください。
ハードサイエンスの基礎であり、ある種最も科学的にリアルだと一般にとらえられている数学が、じつは内面の構造を前提にしない限り成立しないというのが印象的でした。

(「負の平方根が外面世界を走り回っているのを見たものは誰もいない。しかしそれが数学的にリアルであることは誰も否定できない」というような例えだったと思います。)
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ブログのテーマから外れてきた (小澤)
2010-09-20 10:07:53
三谷さん、

 コメントをいただけるのはうれしいのですが、しだいにいただくコメントの内容がこの日の「ブログのテーマ」から外れてきたように思います。

 また、三谷さんのコメント中に、私にとって難しすぎる概念というか表現、たとえば、「唯脳論」的な還元主義的言説、ほとんど等閑に付されている分野、「内面の存在証明」、ハードサイエンスの基礎であり、ある種最も科学的にリアルだと一般にとらえられている数学、「負の平方根が外面世界を走り回っているのを見たものは誰もいない。しかしそれが数学的にリアルであることは誰も否定できない」など、が増えてきました。

 三谷さんのコメントの量が増えるにつれて、私のコメント量は減っていきそうです。

 もうかなり、ブログのテーマから遠のいてきたように感じますので、一端、この意見交換をストップして、必要なら別の場所で続けることにしましょう。
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