外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

秋の栄光を目指して

2010-06-11 17:46:00 | 大学野球
野球部の練習が本格的に再開されました。

いわゆるレギュラー選手の座もいったん白紙に戻り、秋のメンバー入りを目指して横一線の激しい部内競争が始まったわけです。

昼間については、学業との両立を図るために、講義の合間に参加する時間別練習の形態です。
そして、今季の学生コーチたちは夜の練習を重視する方針のようで、日々の講義が終わった夕方から、濃密な練習スケジュールを組んでいるようです。

ある下級生部員は、一昨日は午後5時から、昨日は午後8時にキャンパスから東伏見に駆け付けて、夜10時過ぎまでみっちり守備と打撃を練習したそうです。

みんなの目標は、ただ一つ。
秋のリーグ優勝しかありません。

冒頭の写真は、1960年の秋の優勝直後に、当時の応援部主将と歓喜の握手を交わす、野球部の徳武主将です。
早慶六連戦を各々の立場で戦い抜いた二人を祝福する学生席にも、笑顔、笑顔、また笑顔。
まさに最高の瞬間です。


野球部と応援部の四年生部員たちが、肩を組んで歌う都の西北。
これまた最高の瞬間です。


秋の早慶戦終了後、野球部の四年生部員たちが学生席に整列しての挨拶と合唱は、長年の伝統です。

しかし、応武監督の時代になってから、この伝統の行事が省かれてしまうことが増えてしまい、私は残念でなりません。

昨年の秋の早慶戦でも、山川主将以下四年生たちの登場を私たちは学生席で待っていたのですが、彼らは淋しそうな表情でグラウンドから学生席に向かって一礼しただけで、神宮を去っていきました。

「あぁ、これで彼らのユニフォーム姿も見納めか…」と、がっかりして三塁側に視線を移すと、夕暮れの学生席で肩を組む、慶応野球部の四年生部員たちの後ろ姿が見えました。

様々な制約があるのかも知れませんが、オールドファンとしては、監督さんに、こういう点にも十分に配慮していただくことを期待したいです。



さて、秋の栄光を目指しての鍛練という点では、応援部員たちも同じです。
厳しい夏合宿が控えています。

まずは前期試験を乗り切ってから、夏合宿で良い汗を目一杯流してもらいたいと思います。
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キャッシュレスの時代

2010-06-10 19:20:53 | 好きなお店
一昨日、富山に日帰り出張した話題を書きました。

あの日は、早朝に丸の内のオフィスに出勤して、メールなどをチェックした後に羽田に移動して富山に飛び、夜に羽田に舞い戻って空港リムジンで帰宅の途につきました。

そのリムジンバスの車中で気が付いたのは、「朝、自宅を出てから、帰りのリムジンバスに乗り込むまで、一度も現金を使わなかったな」ということです。

JR東日本のスイカ、おサイフケータイのEDY、そしてANAカードを使うことで、交通機関も飲食も土産物も、全て用が足りました。

このようにキャッシュレスが当たり前になると、これまで当たり前だと思っていたことにストレスを感じるようになってきます。

例えば、通勤ラッシュの時間帯の駅の売店で、小銭を何枚も積み上げて買い物代金を支払おうとしている人の後ろに並んでしまうと、心の中で「混雑しているんだから、スイカでピッと済ませてくれないかなあ」などという感情が湧いてきます。

メジャーなお店の中では、スターバックスコーヒーのキャッシュレス化が進んでいません。

映画「ユーブ・ガッタ・メール」で、メグ・ライアンがスタバのコーヒーを買って、ニューヨークの舗道を颯爽と歩く姿が、抜群に素敵でした。

この映画のウルウルくるエンディングです↓
携帯用リンク
パソコン用リンク

メグ・ライアンの頬の涙をハンカチで拭きながら、゛Don't cry, Shop-girl.゛と語りかけるトム・ハンクスのセリフの意味は、この映画をご覧になった方ならば、説明するまでもありませんよね

でも、現実の東京のオフィス街のスタバは、いつも賑わっていますが、いちいち財布から小銭を出すのが面倒でたまりません。

私もニューヨーカー気分で丸の内界隈を歩きたいので、スタバのレジも、ササッとキャッシュレスでスマートに済ますことができるようになればと、期待しているところです。


写真は週べ今週号で見つけた、慶応の江藤省三監督(中京商業-慶応-巨人)の学生時代の写真。
同期の広野功外野手(徳島商業-慶応-中日)と一緒です。
それにしても、二人とも若いですね~。

今日の大学選手権では、慶応が快勝したようです。
東京六大学の代表として、ぜひ頂点を極めてもらいたいと思います。
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金森栄治さん

2010-06-09 18:01:25 | 大学野球
このブログで、1975-77年の正捕手の山倉和博さん、1979年の正捕手・有賀佳弘さんという、二人のプロ入りした捕手を取り上げたことがあります。

山倉和博捕手の記事

有賀佳弘捕手の記事

今日は、その二人に挟まれた1978年の正捕手・金森栄治さんの話題です。

金森さんは、PL学園高校から1975年に早稲田大学に入学した、私の同期生です。

元々は内野手であったのですが、当時の石山建一監督の考えもあって捕手に転向。
しかし、一学年上に天才捕手・山倉選手がいましたので、レギュラーとなったのは山倉さんが卒業した後の1978年の春。彼が四年生になってからです。

巨人にドラフト一位で指名された山倉さんが卒業したので、早稲田の捕手陣はどうなることかと心配したら、ところがどっこい。
山倉さんから背番号6を引き継いだ金森選手が、その春のリーグ戦でいきなり48打数24安打、打率.500で首位打者を獲得したのです。
(写真)

中屋-岡田-金森のクリーンアップは、春も秋も猛打を振るい、早稲田はその年秋に9季ぶりのリーグ優勝を果たしたのでした。

彼のリーグ通算記録は、32試合出場、97打数39安打、打率.402、2本塁打、25打点。

金森さんは、早稲田の石山監督、同期の中屋主将、須長一塁手、永関外野手とともに、結成間もないプリンスホテル硬式野球部に進みました。

1981年の都市対抗野球大会で首位打者に輝き、社会人ベストナインに選ばれ、同年オフに広岡達朗監督率いる西武ライオンズに、ドラフト2位で外野手として入団し、その後は選手として活躍してばかりでなく、指導者としても高い評価を受けて現在に至っています。

安部球場の頃から、練習熱心で好感の持てる男でしたが、約30年間にわたってプロ野球の世界で生き抜く逞しさと野球理論の裏づけがある人物だとは、当時の私たちには分かりませんでした。

プロ球団、BCリーグを経て、現在は千葉ロッテで打撃コーチを務めています。

様々な力量の選手達を指導して、きっちり結果を出してきた実績がありますから、将来は、早稲田の指導にも是非あたってもらいたい人材の1人ですね。
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日帰り出張

2010-06-08 19:03:07 | ビジネス
今日は、日帰りで富山に出張しました。

私のような信用リスクを管理する役目の本部スタッフが出張する時は、良いにせよ悪いにせよ、全体の業績を左右するような重要な用件がある時に限られるのですが、今回は前向きの良い話。
つまり、今回は安心してブログで話題にできるのですが、時には、ここに書くことのできない深刻な出張もあるわけです。

さて富山は、私にとって実質的なふるさとといえる思い出の地です。
過去記事へのリンク

本音をいえば、出張のついでに何日間か滞在して、美味しい魚を食べて、当地に住む友人とも旧交を温めたいところ。
しかし、今は飛行機を使えば、羽田への移動時間を含めても2時間程度で富山に着いてしまいますから、日帰りが当たり前です。

空港内の土産物店で鱒寿司、ホタルイカの黒づくり、そして昆布巻きの蒲鉾を買って、後ろ髪を引かれる思いで、羽田へトンボ返りしました。
(T_T)

ところで、富山県は、あまり野球の強いところではありません。
それでも、かつては谷井投手(八尾高校)が早稲田の主力投手として活躍されましたし、現在は高橋哉至投手(3年、富山東高校)が頑張っています。

高橋哉至くんは、昨年春の沖縄キャンプにも帯同した有望株で、現時点でも、いつベンチ入りしてもおかしくない位置につけています。
右のサイドハンドからの躍動感溢れるピッチングは、松下健太くんを彷彿とさせますよ。

来年の投手陣の構成を考えた時、サイドスローという高橋くんの個性が貴重な存在になるような気がしています。
私も、富山に縁のある者の一人として、彼が神宮で投げる姿を心待ちにしています。
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投球回数

2010-06-07 18:22:45 | 大学野球
電卓を叩いてみたところ、この春のリーグ戦を終えた時点で、斎藤佑樹投手の六大学における通算投球回数は、327回1/3となりました。
残すは秋のリーグ戦のみとなったわけですが、これまでと同じようなペースで投げると仮定すると、最終的には380回前後となります。
この投球回数は、過去のエース投手たちと比べても、かなり多い部類に入ります。

以前の週べの記事によると、平成以降の20勝投手の投球回数は、次の通りです。(端数回切り捨て)

第1位:織田淳哉(早)527回(33勝26敗)
第2位:三澤興一(早)433回(31勝16敗)
第3位:加藤幹典(慶)383回(30勝17敗)
第4位:川上憲伸(明)361回(28勝15敗)
第5位:多田野数人(立)356回(20勝14敗)
第6位:一場靖弘(明)356回(26勝15敗)

※昭和の江川(法、47勝12敗)は560回、志村(慶、31勝17敗)は434回。

数字を見る限り、第3位の慶応の加藤投手に、最も近い着地になると思われます。

斎藤投手の場合、これまで須田、松下、大石、福井らの力のある投手陣がいて、大学野球としては珍らしく役割分担が可能でした。
したがって、先輩の織田投手のように、「織田・織田・雨・織田。3日空けたらまた織田」と、連投当たり前という無茶な環境にならぬよう、応武さんも随分と気を使ってきました。

それでも、ここまで投球回数が達してしまうというのは、一年生から主戦投手であった宿命でしょう。
しかし、率直に言って、投球回数が危ない水準に近づいていると言わざるをえません。

二年生秋に65回を投げて7勝1敗、防御率0.83という最高の数字を記録して以降、なかなか本来の調子が取り戻せない状態が続いています。
これが、投球回数からくる消耗でなければ良いのですが。

振り返れば、二年生秋の終了時点で、「20勝で一流、30勝では超一流、40勝となれば神の領域と言える。斎藤投手が順調に勝ち星を稼いでいけば、江川以来の40勝の大台突破も可能だ」と、週べが煽っていました。

しかし、40勝ともなれば、どう工夫しても500回を超える投球回数とならざるを得ません。
500回を超えることが、どれほど投手にとって過酷な状況となるのか、週べのTO記者は知らなかったはずがありません。
私の周囲にいた若いファンの皆さんの多くは、TO記者が斎藤投手に理解があると受けとめて、その記事を歓迎していたようです。

でも私は、「商売とはいえ、なんという無責任な記事を書くのだろう」と、呆れていました。
江川のように平均70回を8シーズンも投げていたら、殆どの投手は肩を壊してしまうに決まっています。

江川は、ピンチの場面以外は、5割程度の手抜きで、汗もかかずに相手校の打者を牛耳っていました。
そんな憎たらしい怪物・江川だからこそ、投げることのできた投球イニング560回です。
※斎藤投手の過去7シーズンは、平均46回。


今年の夏も、斎藤投手は、練習や自校のオープン戦以外に、大学ジャパンなどに招集されるようです。
しかし、同じように体を動かしているようでも、トレーニングと試合前の調整は違います。

秋のリーグ戦まで、あと3ヶ月。
幸い、斎藤投手に大きな故障はありません。
大学最後のシーズンを万全のコンディションで迎えるために、ファンのご期待もあるでしょうが、「花試合」への出場は出来る限り回避してもらいたいと願うばかりです。
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安部寮の今昔

2010-06-06 18:24:00 | 大学野球
今日は、NHKテレビ陸上日本選手権を観戦しました。
早稲田の選手たちが、トラック競技、フィールド競技に次々に登場するので、とても楽しむことができました。

中でも、男子100メートルで塚原選手を破って優勝した、江里口選手のキレのある走りは実に見事でした。

ところで、現在の野球部の学生コーチ、主務、主力選手たちは、東伏見の安部寮に入っています。
川を挟んで東伏見グラウンドを見下ろす、近代的な建物です。

練習グラウンドは、既に1987年(昭和62年)に西早稲田から東伏見に移転していましたが、寮が東伏見に移転したのは1992年(平成4年)のことでした。

※冒頭の写真は、1992年7月に行われた、新しい安部寮の竣工披露会。
当時の主将は鈴木浩文内野手(関東一高)。
二年生の織田淳哉投手が既にエースでした。

さて、新しい安部寮が完成するまでの数年間、部員たちは西早稲田の旧・安部寮から東伏見に通って練習していたのです。

旧・安部寮は、1925年(大正14年)に第一期竣工以来、60年以上も使用され、久慈次郎、三原修、石井藤吉郎、広岡達朗、谷沢健一…数多くの名選手たちを送り出してきました。
※写真は、1978年当時の安部寮の玄関を出て、グラウンドに向かう岡田彰布選手。


旧・安部寮は、西早稲田の住宅地の中にありました。
昔の写真を見ると、天皇賜杯を抱えた選手たちが、狭い路地を歩くシーンが写っていたりします。

それでは、旧・安部寮が現在はどうなっているかというと、実は現在も留学生寮として現役で頑張っているのです。


とても静かな住宅地の中に、ひっそりと建つ留学生寮をよく見ると、少し改修されていますが、玄関入口に突き出した「ひさし」が、間違いなく旧・安部寮の建物であることを物語っています。
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妖星ゴラス&上を向いて歩こう

2010-06-05 21:10:48 | 映画、テレビ、漫画
日本の無人小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰還すると報道されています。

この探査機の名前を見て、「おっ、これは」と思った特撮映画ファンが必ずいらっしゃったと思います。

1967年(昭和37年)の東宝作品「妖星ゴラス」は、地球の六千倍の質量を持つ流星のゴラスが地球に接近して、あわや地球が重力で飲み込まれて消滅の危機に陥るというSF作品でした。

妖星ゴラスが発見された時、たまたま土星探査の任務で近くの宇宙空間を航行していたのが日本の有人ロケットで、その名もJX-1隼号。
すぐさまゴラスの探査を試みるも、ゴラスの強力な重力に吸い寄せられて、ロケットエンジンを最大出力にしても、隼号は重力圏から逃れることが出来なくなってしまったのです。

ちなみに、艇長役は田崎潤さん。
最後までゴラスの観測し続けた艇員たちは、その観測データを地球に向けて発信し終えた後、万歳三唱をしながら、ロケットもろともゴラスに吸い込まれて、全員殉職してしまう悲劇となってしまいました。

隼号が激突直前に地球に発信した計測データに基づき科学者たちが計算してみたところ、このままの軌道でゴラスが進むと、地球はゴラスに飲み込まれて人類が消滅することが判明し、世界中はパニックに。

そこで、南極に強力なジェットエンジンを多数設置して地球の軌道をずらし、ゴラスを回避する壮大なプロジェクトが始まりました。
そのプロジェクトを指揮する科学者の役が池部良さん。
最後は、見事にゴラスを回避して、地球は救われました。

映画のストーリーは現代にも通用する画期的なものでした。
一方、土星探査機を飛ばす時代が舞台なのに、電話の受話器やテレビがずいぶん旧式なものであったりするのはご愛嬌。
なにせ今から48年前に作られた映画ですから、あらゆる家電がデジタル化されることになるとは、さすがの東宝特撮陣も想像できなくても仕方ありません。

ところで、今夜のBS日テレで放送されていた映画「上を向いて歩こう」も、たまたま同じ1962年の日活作品。

ご存知、坂本九さんのヒット曲が主題歌です。


高橋英樹さんや吉永小百合さんが登場するオープニングが、早稲田の大隈講堂前で撮影されています。
当時の正門付近の風景や早大生たちの服装を見ることができます。
上下とも学生服という学生、黒の学生服に灰色のズボンという学生が半々という感じでした。

また、映画のエンディングでは、築地の魚市場で働く若者の役の高橋英樹さんが早稲田の第二政経学部の合格通知をもらい職場の仲間から祝福される場面、あるいは当時の早稲田の野球部の練習風景や早慶戦の場面が一瞬ですがカラーで紹介されて、なかなか面白かったですよ。

ちなみに昭和37年は、早稲田の野球部が春4位、秋は5位と苦しんだ年でした。


写真は、昭和37年の神宮でのひとこま。
ピンチになってマウンドに駆け寄った石井連蔵監督から指示を受ける、宮本洋二郎投手(米子東)と捕手の鈴木主将(清水東)
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末吉俊信さん

2010-06-04 17:48:12 | 大学野球
Amazonで、本を一冊買いました。

「世界をちょっとでもよくしたい-早大生たちのボランティア物語」
早稲田大学出版部 発行 1,000円(税込)
早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)の担当教員三名の共著による本です。

学生ボランティアの意義、あるいは早大生たちによる実際の活動が紹介されています。
この本を買うことで、間接的にボランティア活動を支援することにもなると思いますので、ぜひ買って読んでみてください。

さて、六大学の歴代投手の通算勝利数となると、48勝の山中、47勝の江川と、法政の両投手の名前がすぐにがります。

それでは早稲田で最多勝利を記録している投手は誰かといえば、44勝をあげた末吉俊信さんです。


末吉さんは、福岡県立小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を卒業後、八幡製鉄(現新日本製鉄)に一旦就職した後に早稲田大学に進学。
早稲田では、石井藤吉郎(一塁、水戸商業)、宮原実(捕手、岡山二中)、宮崎康之(二塁、小倉中)、蔭山和夫(遊撃、市岡中)、荒川博(外野、早実)といった伝説の名選手たちと共にプレーし、不動のエース投手として活躍されました。
なお、旧学制の時代なので、1947年度から1951年度までの五年間在学されました。

あるシーズンでは、早稲田の全15試合のうち、末吉さんは13試合に登板して優勝に貢献されたそうですから、正真正銘の大黒柱だったわけです。

とにかく、この時代のエース投手は、連投に次ぐ連投で、本当に大変だったと思います。
例えば、末吉さんの早稲田での先輩・岡本忠之投手(扇町商業。いわゆる最後の早慶戦に出場)は、終戦翌年の1946年秋に10勝1敗を記録されています。
つまり、勝ち点5の完全優勝を、1人で支えた計算です。

当時の神宮球場といえば、終戦直後の1945年9月に連合軍の娯楽施設として接収され、Stateside Parkと呼ばれていました。
ちなみに、現在の国立競技場あたりは、連合軍のカマボコ型兵舎がズラリと並んでいたとのこと。
このために六大学リーグ戦は、後楽園球場や上井草球場(現在は杉並区立上井草スポーツセンター)を借りて行われたそうです。
神宮球場の接収が解除されたのが、末吉さんが早稲田を卒業する1952年3月のことでした。

学制が変わっていますので、当時と現在の記録を単純に比較することはできません。

でも、食糧難で試合環境も整わない苦しい時代に、先輩方は良く頑張られたものだと、脱帽するほかありません。

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谷澤健一さん

2010-06-03 17:45:48 | 大学野球
今日は、システム・トラブルが発生し、オフィス内は早朝からお昼ごろまでドタバタでした。

私の勤務する銀行におけるアジア地区のホスト・コンピュータは、シンガポールと香港にあるのですが、そのメンテナンス部隊の大半はインドにいます。

インドは日本と3時間の時差があります。具体的には、インドは日本の標準時よりも3時間遅れということです。

したがって、日本が営業時間を終了した後にデータを送ると、そのデータ処理を時差の3時間の所定勤務時間中で行なってくれるので、バックオフィスとしてのインドは、とても使い勝手の良い存在です。

しかし、システム・トラブルの対応となると話は別。
日本時間でお昼近くにならないとインドのスタッフが出勤してこないので、なかなかシステムを復旧することができません。

今日も、日本のスタッフが対応に追われて疲れてきた頃に、やっとインドは全員が揃い、ようやくシステムが復旧しました。

さて、一部の新聞で、次期監督の候補の1人として、谷澤健一さんの名前が挙がっていると報じられています。
まだ、応武監督が今年度で勇退すると発表されたわけでもないのに、ずいぶんと気の早い報道ではあります。

でも、応武さんが監督に就任される際には、その直前の秋のシーズンに助監督としてベンチに入っていましたから、この時期から水面下で動きがあるのかもしれません。

谷澤健一さんは、昭和40年代半ばの東京六大学を代表する打者の1人で、二年生の春にいきなり首位打者を獲得するや、以降、卒業するまで6シーズン連続で打率3割以上を記録。四年生では主将を務めました。

最終的には四年間通算で82試合に出場し308打数111安打、18本塁打、63打点、打率.360という、確実性と長打力の両方を兼ね備えた、素晴らしい打者でした。
(写真は、早稲田のON砲と呼ばれた頃の、谷澤健一さん(左)と荒川尭さんの雄姿)

谷澤さんは、早稲田の大学院(2年制)の修士課程を卒業されましたし、最近も、時々グラウンドに現れて現役部員にアドバイスする姿をみかけましたし、早稲田に対しての思い入れは、かなり強くお持ちであるとお見受けしました。

そして、今もシェイプアップされた体形で、実に格好良い方です。

ちなみに、谷澤さんのサイトはエンジ色が基調です。
リンク


もし報道されているように、応武さんが今季一杯で勇退されることになれば、きっと自薦・他薦を含めて、多くの方々のお名前が取り沙汰されてくる状況になることでしょう。
その中に、谷澤さんの名前も含まれることになるのでしょうか。
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三澤興一投手

2010-06-02 18:10:14 | 大学野球
先日の早慶戦で、とても懐かしい顔を神宮のネット裏で見かけました。
三澤興一投手(帝京高-早大-巨人ほか)です。

奥様とお子さんたちを連れて観戦にいらっしゃったのですが、息子さんが本当に三澤くんと似ているのです。
特に、人懐っこい目のあたりは、そっくりでした。

三澤投手は、帝京高校では1991年春夏、1992年春夏の4期連続甲子園出場を果たし、高校通算29本塁打を記録するなど3年時はエースで4番でした。

1992年春の甲子園では4連投の末、決勝戦で東海大相模高校を3-2で破り全国制覇を達成しました。

1993年、早稲田大学に鳴り物入りで入学すると1年生の春から登板し、四年間でリーグ通算65試合登板31勝16敗、防御率2.10、402奪三振。
1995年春季と1996年春季の2回ベストナインに選ばれました。

東京六大学での奪三振数は、和田毅、江川卓に次いで第3位を誇る三澤投手。
私が驚いたのは、1996年のアトランタ五輪で日本代表に選ばれ、大学生にもかかわらず、初戦のオランダ戦に先発し勝利を挙げるなど3試合に先発、1試合リリーフの合計4試合登板し、銀メダル獲得に大きく貢献したことです。

ちなみに、大学生からは井口(青学)、今岡(東洋)、社会人からは松中(新日鉄君津)、福留(日本生命)、谷佳知(三菱自動車岡崎)という、錚々たる選手たちが参加していました。

三澤くんがプロ入りする時、プロ野球解説者の関本四十四さんが次のように賞賛されました。
「三澤は、早稲田の投手陣を1人で支えてきたために、常に完投、連投の可能性を念頭において、球速表示に拘らずに投げていたのが印象的。そのスタミナと投球術は本当に素晴らしい。」

また、江川卓さんは「彼のコントロールは、プロ野球の世界でも一級品だ」と、彼の制球力を高く評価しました。

以前にも書いたことがありますが、精密機械・三澤投手の投球こそ、斎藤くんの最高のお手本ではないかと思っています。

秋には、チームの優勝、そして早稲田では三澤投手以来となる30勝投手の誕生を期待します。

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