外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

末吉俊信さん

2010-06-04 17:48:12 | 大学野球
Amazonで、本を一冊買いました。

「世界をちょっとでもよくしたい-早大生たちのボランティア物語」
早稲田大学出版部 発行 1,000円(税込)
早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(WAVOC)の担当教員三名の共著による本です。

学生ボランティアの意義、あるいは早大生たちによる実際の活動が紹介されています。
この本を買うことで、間接的にボランティア活動を支援することにもなると思いますので、ぜひ買って読んでみてください。

さて、六大学の歴代投手の通算勝利数となると、48勝の山中、47勝の江川と、法政の両投手の名前がすぐにがります。

それでは早稲田で最多勝利を記録している投手は誰かといえば、44勝をあげた末吉俊信さんです。


末吉さんは、福岡県立小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を卒業後、八幡製鉄(現新日本製鉄)に一旦就職した後に早稲田大学に進学。
早稲田では、石井藤吉郎(一塁、水戸商業)、宮原実(捕手、岡山二中)、宮崎康之(二塁、小倉中)、蔭山和夫(遊撃、市岡中)、荒川博(外野、早実)といった伝説の名選手たちと共にプレーし、不動のエース投手として活躍されました。
なお、旧学制の時代なので、1947年度から1951年度までの五年間在学されました。

あるシーズンでは、早稲田の全15試合のうち、末吉さんは13試合に登板して優勝に貢献されたそうですから、正真正銘の大黒柱だったわけです。

とにかく、この時代のエース投手は、連投に次ぐ連投で、本当に大変だったと思います。
例えば、末吉さんの早稲田での先輩・岡本忠之投手(扇町商業。いわゆる最後の早慶戦に出場)は、終戦翌年の1946年秋に10勝1敗を記録されています。
つまり、勝ち点5の完全優勝を、1人で支えた計算です。

当時の神宮球場といえば、終戦直後の1945年9月に連合軍の娯楽施設として接収され、Stateside Parkと呼ばれていました。
ちなみに、現在の国立競技場あたりは、連合軍のカマボコ型兵舎がズラリと並んでいたとのこと。
このために六大学リーグ戦は、後楽園球場や上井草球場(現在は杉並区立上井草スポーツセンター)を借りて行われたそうです。
神宮球場の接収が解除されたのが、末吉さんが早稲田を卒業する1952年3月のことでした。

学制が変わっていますので、当時と現在の記録を単純に比較することはできません。

でも、食糧難で試合環境も整わない苦しい時代に、先輩方は良く頑張られたものだと、脱帽するほかありません。

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