外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

所沢キャンパスに

2010-06-20 18:14:57 | 早稲田大学
森林保全活動のボランティアのために、所沢キャンパスを訪れました。

たまにはマイカーで来てみようと朝5時前に自宅を出たら、道路が空いていて6時過ぎには到着してしまいました。片道約70キロ。
ボランティアの開始は、10時からなのに。

所沢キャンパスでは、競走部が6時過ぎから7時半ぐらいまで、朝練をやっていました。
冒頭の写真は、陸上グラウンドにある、「精進錬磨」と記された、織田幹雄さんの生誕百年の記念碑。

矢澤、八木、中山、大迫、志方…
みんな軽快に走っていましたよ。

10時頃からは、スキー部が練習を始めました。
キャンパス内の通路を、ローラーブレードで猛スピードで滑っていました。


さて、今日のボランティア活動は、キャンパス内の湿原に生える外来植物の除去。
足元が雨のために緩く、靴もズボンも泥んこに。
気温も湿度も高く、作業をしていたらフラフラになって、後半は何度も気を失いそうになりました。


作業を終わって校舎に戻り、自動販売機で買った、冷えたカルピスウォーターが、何と美味しかったことか。
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末吉俊信さん(続編)

2010-06-19 16:13:57 | 大学野球
リーグ通算43勝20敗という早大野球部史上で最多勝を記録された末吉俊信さんのことを書きました。
末吉さんの過去記事

今日は東伏見か平塚に出掛ける予定でしたか、明け方の大雨ですっかり出鼻をくじかれてしまいました。
そこで、名投手・末吉さんについて、もう少し補足したいと思います。

末吉さんは、第二次大戦中の昭和19年に旧制小倉中学を卒業し、海軍の予科練に。
終戦後に八幡製鉄(現在の新日本製鐵)に入社しました。

当時の八幡製鉄の野球部は強豪で、西本幸雄(立教)など六大学の花形選手が卒業後に就職してプレーしていまして、そこで末吉さんはすぐに主戦投手となりました。
末吉さんは、九州に遠征してきた早稲田や慶応をなで切りにし、「八幡に末吉という凄い投手がいる」と東京でも有名になり、それが早大進学のきっかけになったのだそうです。

昭和22年、末吉さんは早稲田に入学するのですが、その直前にヒジを傷めました。
そこで、鉄アレイで手首を強化し、相撲のテッポウで下半身を鍛練。
そしてヒジの負担を軽くしようと投法を工夫しているうちに、スライダーを発見しました。
そして投球に幅を持たせようとシュートも習得しようとするうちに投球を上手投げから下手投げに切り替えし、そして下手からのシンカーも会得。
ついに「ミラクル投手」と呼ばれる域に達しました。

末吉さんの入学した昭和22年には、名捕手となる宮原実さん(岡山二中。現在の岡山操山高校。写真の左)も同期で入学。
また、シベリアに抑留されていた天才打者・石井藤吉郎さん(昭和18年入学。水戸商業)が復員されました。

そして昭和23年に、小倉中学の後輩・宮崎康之(後に早大監督)、24年に荒川博(早実)、岩本尭(田辺)、沼沢康一郎(函館中部)らが続々と入学。
昭和25年には名手・蔭山和夫(昭和19年入学、市岡中学。)が卒業するも、入れ替わりで広岡達朗(呉三津田)、小森光生(松本市立)、福嶋一雄(小倉高校)といった俊英たちが入学してきて、早稲田の黄金時代が形成されました。

写真は当時の安部寮で憩う、左から広岡、小森、福嶋、宮崎の主力選手たち。
当たり前のことですが、皆さん、若い!


当時の早稲田は、強かった。
昭和23年春:優勝
同年秋:3位
昭和24年春:優勝
同年秋:3位
昭和25年春:優勝
同年秋:優勝
昭和26年春:優勝

昭和24年秋は、優勝の懸かった早慶三回戦で、四回まで5対2でリードするも雨天ノーゲーム。
翌日の再試合では負けてしまって3位でした。
もし早慶三回戦でそのまま勝っていたら、前人未到の5連覇になっていたはずでした。

末吉さんは、早大卒業後に毎日新聞社に就職。
出向の形でプロ野球の毎日オリオンズでプレーした後に、新聞記者として永らく勤務されました。

こういう方法で神宮のスター選手がプロでプレーするという選択肢が、もし現在も残っていたら楽しいだろうなと、個人的には思っています。
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高橋由伸選手

2010-06-18 17:45:28 | 大学野球
先日、慶応を代表する強打者の1人として、堀場秀孝さんを取り上げました。
過去記事へのリンク

慶応で、右の強打者である堀場選手を取り上げたからには、左の強打者として高橋由伸選手の名前も挙げなければなりません。

中学生時代に全国制覇を経験した高橋由伸選手は、神奈川の桐蔭学園から1994年に慶応義塾大学に進学。

1年生からレギュラー選手となりましたが、少し中弛み。
二年生の秋が終わった時、当時の後藤監督から喝を入れられたら、いきなり効果が出て、3年生の春に打率5割1分2厘を記録して三冠王を獲得しました。

四年生では主将を務め、春にリーグ優勝。
そして、学生最後となる秋のリーグで、それまで法政の田淵幸一選手が持っていたリーグ最多本塁打記録を更新する、通算23本塁打を放ちました。

リーグ通算102試合出場し366打数119安打、62打点、打率.325。
歴代1位となる通算219塁打が、高橋選手の素晴らしさを示しています。

※200塁打以上は、過去3人しかいません。
二位:岡田彰布(早)214
三位:谷沢健一(早)203

高橋選手が放った23本の本塁打のうち、半分ぐらいを私は神宮で目撃しているのですが、彼の本塁打は、他の強打者たちのものとは少し異なる質の打球であったと記憶しています。

例えば、当時の早稲田の強打者であった中村壽や矢口選手の場合には、パワーで球を叩き込むようなイメージ。
漫画チックにいえば、ボールが『痛いっ!』という表情をしながら外野スタンドに叩きつけられるという感じでしょうか。

一方、高橋選手の打球は、すうーっと柔らかく外野席に運ばれていくイメージ。
ボールがニコニコしながら空中を飛んでいくような、異次元のしなやかさを感じました。

技術的には、ボールを芯で捉える技術が天才的であり、なおかつバットの振りがとてもスムーズだったということなのだと思います。



熱烈な大学野球ファンであった、故・鈴木ヒロミツさん(芝高校出身で、若い頃から六大学野球に親しむ。かつてのモップスのリードボーカル)が、この当時の高橋選手の打撃を絶賛していました。

『長嶋茂雄選手や田淵幸一選手の時代と投手力が違うと、高橋選手の打撃の実力を評価しない声がある。しかし、長年にわたって六大学を見てきた私が保証する。高橋由伸選手は、プロ入りしても、常に30本塁打以上を放つような、そして打撃タイトルを獲得するような強打者に、必ずなる。』
私も全く同感でした。

新記録となる23本目の本塁打は、リーグ戦後半の慶法戦で飛び出しました。

おりしも、ヤクルトスワローズのリーグ優勝の懸かったナイト・ゲームとの併用日。
神宮球場周辺に溢れたヤクルト・ファンの外野席への入場が、慶法戦の途中から始まりました。

試合の途中から、外野席にヤクルト・ファンが続々と入ってきて、ちょっと球場内がざわついて落ち着かない雰囲気に。

しかし、入場が一段落すると、さすがは熱心な野球ファンの皆さんです。
慶応と法政の熱戦を、ヤクルト・ファンも外野からじっと見守る状況となりました。

当時の法政には、後にプロ入りする伊達、真木、矢野、安藤という実力派の投手が揃い、球場のスピードガンでも140キロ後半が次々と表示されました。

『おおっ。大学の投手の球って、けっこう速いね』というような声がヤクルト・ファンの間からも聞こえてきて、私は、ちょっと誇らしげな気持ちにもなったり。

そんな場面で、安藤優也投手(後に阪神)が投じたボールを高橋選手が打つと、打球は美しい放物線を描いて右翼席上段に飛んでいきました。
リーグ新記録の23本目の本塁打です。

内野席の大学野球ファンが、総立ちで拍手を送りました。
続いて、場内アナウンスで新記録を知ったヤクルト・ファンからも、温かい拍手が巻き起こりました。

そして、慶応の攻撃が終わって右翼守備につく際にも、外野席のファンの方々から大きな拍手が起こり、高橋選手は帽子をとって外野席に向かって挨拶を。

大学四年生にして、すでに千両役者という雰囲気を漂わせる、天才打者・高橋選手でした。

プロ入りしてからも、高橋選手は期待通り打ちまくりました。

外野フェンスに激突して鎖骨骨折してしまったシーズンは、その負傷をするまで、40本以上の本塁打を打つ勢いでした。
その故障さえなければ、高橋選手は、これまでに何度も打撃タイトルを獲得するような大打者になっていたことでしょう。

今でも、体調さえ良ければ、東京ドームの最上段まで楽々届くような大ホームランを打つ高橋選手。

かえすがえすも、あのフェンス激突が悔やまれてなりません。
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川越学さん

2010-06-18 05:21:02 | 大学駅伝
今日(6/18)の日経朝刊の最終面、「交友抄」に、競走部の箱根駅伝で活躍した、早稲田の競走部OB・川越学さん(鹿児島南高校出身)の手記が掲載されています。
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消費税引き上げ議論

2010-06-17 18:32:58 | 社会全般
菅総理が誕生して、これまで禁句になっていた消費税引上げが、いきなり活発に議論されるようになってきました。

日本の財政状況が急速に悪化しているにも関わらず、日本の国債の信頼性が市場では低下しませんでした。
その要因の一つに、消費税の引き上げによる財政建て直し余地が大きいことが挙げられていました。

財政が逼迫し、他国から支援を受けざるを得なくなったギリシャが、実質的に主権の一部を喪失してしまいました。
そんな姿を目の当たりにして、ようやく民主党政権も本腰を入れてきました。

そういう意味では、財政建て直しのために、消費税引上げが具体的に議論されるようになってきたことは、至極もっともな話です。

ただ、別の見方をすると、日本政府が消費税引上げという伝家の宝刀を抜いた結果、それでも日本の財政の建て直しが進まないようだと、日本の国債を本当に信頼して購入することができるのか、市場が迷い始める可能性があります。

伝家の宝刀を抜くからには、決して政策の間違いは許されなくなるということです。

私個人は、所得税偏重の現行税制に疑問をもっていまして、もっと消費税を活用すべきだと考えています。
頑迷な社民党が、実に良いタイミングで連立政権を離脱してくれました。

ただし、今回は、消費税引上げと、所得税の見直しのバランスを上手くとって、消費税引上げのネガティブなインパクトが日本経済に及ばないよう、十分配慮する必要がありますね。

さて、明日は週べ増刊『大学野球』春季リーグ戦決算号の発売日です。

そして、北九州で行なわれるオール早慶戦の入場券も忘れずに買わなくては!
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ゲゲゲの女房

2010-06-16 19:53:55 | 大学野球
私の職場の仲間の間で、NHKの連続ドラマ「ゲゲゲの女房」の評判が、なかなか良いです。

主人公である水木しげるさんご夫妻の、懸命で明るい生き方が、多くの方々の共感を呼んでいるのだと思います。

もっとも、水木ワールドの大ファンである私は、オープニングで鬼太郎やネズミ男のアニメーションがちらりと登場するだけで、心が踊ってしまいます。

水木しげるさんのお父上(今回のテレビ番組で演じるのは、風間杜夫さん)が早稲田出身で、鳥取県は早稲田の野球部にも縁が深いことを、かつてブログに書きました。
過去記事へのリンク

ただ、私の若い頃に限れば、何といっても鳥取県=野口裕美投手(立教)です。
野口投手に関連する過去記事

左の本格派であった野口投手は、鳥取県の西伯町出身で、法勝寺中学(後原勉監督)-米子東高校(鍵原純三監督)から立教に進みました。

1980年(昭和55年)の春、野口投手は、シーズンに94イニング(!!!)を投げて、6勝4敗、96奪三振。

この奪三振数は、、あの秋山登投手(明治)の持っていた86奪三振という記録を26年ぶりに破るもので、立教を13年ぶりのAクラスに押し上げる原動力になりました。

高校時代の野口投手は、東大のセレクションにも誘われたという秀才でした。

高校一年の秋、中国大会でベスト4に残り、翌春のセンバツにエース投手兼四番打者で出場するも、古豪の県立岐阜商業に0対5で完敗。
でも、身長183センチという本格派左腕は、一躍、全国から注目を集めるようになりました。

立教に進学して、下級生時代は胸のすくような快投を毎試合見せてくれた野口投手でしたが、酷使がたたり、肩を故障。

それでも、西武にドラフト一位指名されてプロ入りしましたが、立教の下級生時代に見せた快速球と、各校の打者から「ボールが消える」と言われた、キレキレの変化球は、最後まで甦りませんでした。

あの時代の立教ではやむを得ないことでしたが、あの酷使さえなかったら、野口投手はプロでも大暴れしたに違いないと、私は今でも確信しています。

斎藤佑樹投手も、できることならば大学ジャパンも辞退して、少しでも肩を休めて、最後の秋に備えてもらいたいと私は思います。
現在の彼が絶好調だとは、とても思えませんから。

でも、ファンやメディアから熱い期待の声が現実に寄せられている以上、主催者も首脳陣も、商業的に無視はできません。
その結果、いくら肩を休めようと思っても、現実には極めて難しいことなのでしょうね。

でも、メディアは、野球でも、ゴルフでも、卓球でも、フィギュアスケートでも、何でもいいのです。
つまるところ、営利企業として、メディアは目先の注目を短期的に追い求めるだけなんじゃないかと、冷めた見方を私はしています。

ひるがえって、斎藤投手が一年生の時、北京五輪を前にして、ジャパンの星野仙一監督から無茶な要求があった際に、体を張って斎藤くんを守ろうとした応武監督。
その応武さんの姿勢を、私も心から応援していました。

あの時の応武さんが、一徹な姿勢で何を守ろうとしたのか、いま再び問われようとしています。


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1978年の神宮の主役たち

2010-06-15 17:24:30 | 大学野球
本日発売の「ホームラン」に、今春卒業した藤原くん(観音寺一高)の手記が載っています。
ぜひ読んでみてください。

さて、私が最も濃密に六大学を観戦した年度といえば、私が大学四年生となった1978年(昭和53年)です。

難攻不落の江川投手が卒業し、最後の学年に3年間のうっぷんを全てぶつけるつもりで臨んだ年でした。

その証拠に、卒業して30年以上経過するにもかかわらず、当時の他校の監督さんや主力選手たちの姿が、今でも鮮明に思い出されます。

冒頭の写真は、その年の主将たち。
右から
法政・居郷肇二塁手(倉敷工業)、
早稲田・中屋恵久男遊撃手(早実)、
慶応・堀場英孝捕手(丸子実業)、
明治・高橋三千丈投手(静岡商業)、
東大・野村英嗣内野手(湘南)、
立教・橘靖雄内野手(立教高)

私にとって、彼らは永遠のスター選手です。
とにかく盛り上がりました。

先日の早慶戦の試合前、私の同期の佐々木雅次左翼手(大谷高校-早大-トヨタ自動車。現在は同社の野球部長)から、思い出話を聞く機会がありました。

佐々木さんが語った、忘れられない思い出は・・・
『1978年秋の早慶戦の一週間前、法明戦を少し見ようと神宮球場に立ち寄りました』
『そうすると、神宮球場の周囲に、人の列ができていた。何だろうと思ったら、一週間後の早慶戦に向けて、早大生たちが既に泊り込みを始めていたんですよ。あれには本当にビックリしました。』

外苑前の立ち食いそば屋に行って腹ごしらえしたり、自宅から食料や麻雀卓を持ち込んだりして、決戦に備えました。
本当に良き時代でした。


次の写真は、当時の監督さんたちです。


明治の島岡御大が、さすがの貫禄。

いやぁ、早稲田の石山建一監督が若いですねえ。

そして、五明さんから代わったばかりの法政の鴨田監督からは、まだ遠慮気味の雰囲気が伝わってきます。
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六大学の投手黄金時代

2010-06-14 17:47:15 | 大学野球
私以上に東京六大学野球好きの私の父(1924年・大正13年生まれで、今年の誕生日が来ると86歳!)によれば、昭和30年前後に活躍した各校のエース投手たちが、最も魅力的だったと。

確かに、昭和30年ごろを振り返ると、凄い投手たちが揃っていました。

写真右から
明治・秋山登(岡山東商業。リーグ戦通算33勝18敗。大洋の一年目に25勝をあげて新人王)
早稲田・木村保(大阪の八尾高校で甲子園準優勝。29勝16敗。南海一年目に21勝で新人王)
慶応・藤田元司(西条高校。31勝19敗。日本石油経由で巨人に入り、一年目に17勝で新人王)
立教・杉浦忠(挙母高校(現在の豊田西)。36勝12敗。南海の一年目に27勝で新人王)

六大学のエースがプロ入りしたら、新人王を獲得するのが当たり前という感じなのですから、さぞかし当時のリーグ戦は面白かったことでしょう。

この四投手のプロ入り一年目の勝ち星を合計すると90勝に達しますから、もし全員が同じチームに入団したら、ぶっちぎりの優勝ということになります。

なお、この当時のエースたちは、上記の勝ち星の大半を上級生になってからあげているという点が、現代とは違うところだそうです。

ただ、素晴らしい活躍を見せた4人のエース投手たちも今や全員が鬼籍に入られてしまい、私の父も、たいそう寂しがっています。

ところで、早稲田の木村投手は、ご子息が天理高校から早稲田に入り、一塁手として活躍し、卒業後は富士重工に進まれました。
亡くなった山内政治さんが学生コーチの時に鍛えていらっしゃった下級生の1人です。
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東洋大学強し

2010-06-13 16:44:22 | 大学野球
大学選手権の決勝戦、東洋大学が東海大を下して、見事に大学日本一を達成しました。
私はNHKテレビでの観戦でした。

さすがに決勝まで勝ち上がってきた両チームは、攻守に良く鍛えられていました。
それにしても、東洋大学の勝ちっぷりはお見事。
先制-中押し-ダメ押し
理想的な点の取り方で、東海大をねじ伏せました。

我らが東京六大学の慶応義塾は、竹内くんを欠いた戦いとなったのが本当に残念でした。
慶応としては、リーグ戦と同じオーダーで勝負したかったところですから、悔いの残る準決勝敗退だったでしょう。

早稲田からみると、東洋大学との攻守の力量は如何ともし難い差を感じました。
特に、内野の堅い守りと、どの打順からも長打の飛び出す打撃力は、現在の早稲田には真似のできないレベルだと言わざるを得ません。

でも、練習を重ねて、一歩ずつ距離を詰めていく以外に道はありません。

無茶をして故障しては元も子もありませんから、きっちり体をケアしながら、目一杯練習して、秋の明治神宮大会を目指しましょう。

早稲田がんばれ
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夜の西早稲田

2010-06-12 17:52:51 | 大学野球
今週は何かと忙しい日が続き、かなり疲れが溜まりました。

早く帰宅して休もうと思って、デスクの上を片付け始めたところに、野球部のTくんから胸を打たれるメールが届き、心は一気に早稲田モードに。

そんなわけで、丸ビルの前からタクシーに飛び乗って、西早稲田の八幡鮨に出かけました。

カウンターに座り、鯛のヅケを肴に飲み始めると、隣席で80歳を超えたご老人が1人で煮魚を食べていらっしゃるのが目に入りました。
「それ、美味しそうですね」と声をかけたのをきっかけに、そのご老人と、よもやま話が始まりました。

その方はYさんとおっしゃって、昭和3年生まれ。
東京帝大出身で、かつては都立両国高校や大学で教鞭をとっていらしたと。
そして、何と野球部の旧・安部寮の隣家で生まれ育ったというではありませんか。

早稲田の野球部員たちが常に行き来する環境で育ち、安部球場で練習風景を眺め、仲良くなった野球部員から時々入場券をもらって早慶戦を応援に行くという少年時代を過ごされたそうです。

Yさんから戦前の早稲田界隈の様子を、色々と伺いました。
現在の理工学部の辺りには陸軍の射撃場があり、耳を澄ますと小銃や機関銃の銃声が聞こえてきた、
今も明治通りに面している病院の前身は陸軍病院だった、
安部球場で試合がある時の賑わいは凄かった等々

そして、話の流れで私が神宮球場の前にある青山高校の卒業だと話したら、「へぇー、私は府立十五中(現・青山高校)の一期生ですよ。そして私の息子も、青山高校から東大に進んで、私と同じ大学教授になりました。そうですか、あなたも青高ですか」とYさん。
その後は、青山高校にまつわるYさんとご子息(私より五歳年下)の話題で大いに盛り上がりました。

高校の大先輩との予期せぬ出会いで、すっかり気分の良くなった私は、八幡鮨のお勘定を済ませると、西早稲田の交差点を渡って、源兵衛に顔を出しました。

すると、野球部OBの河上さん(山口鴻城)が飲んでいらっしゃいました。
かつて野球部の石井藤吉郎監督の下で助監督をされ、その後は帝京大学の監督もお務めなった方です。

河上さんに、現役部員のTくんのメールをお見せすると、「有難いなあ。こういう地道な苦労を担ってくれる部員が野球部を支えているんですよ。そして、このような部員が、将来OBになった時にも、野球部のために骨折りしてくれるんです。」

そんな話に興じていたときに、隣のテーブルには、1人で生姜焼き定食を食べる若くて可愛らしい女性。
源兵衛では珍しい光景です。

聞けば、彼女は山梨の吉田高校から早稲田の商学部に進んで今春卒業したばかり。
華奢な体つきなのに、在学中はウエイトリフティング部で活動し、アジア大会にも出場したのだと。
今は、スポーツ選手を対象にドーピング検査を実施する機関に勤務しているそうです。

彼女を同じテーブルに招き、私たちの早稲田スポーツ談議は夜遅くまで続いたのでした。

西早稲田まで足を伸ばした甲斐がありました。

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