![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/5d/981d601c12b5181ffc6068964aec29a1.jpg)
本日発売の「ホームラン」に、今春卒業した藤原くん(観音寺一高)の手記が載っています。
ぜひ読んでみてください。
さて、私が最も濃密に六大学を観戦した年度といえば、私が大学四年生となった1978年(昭和53年)です。
難攻不落の江川投手が卒業し、最後の学年に3年間のうっぷんを全てぶつけるつもりで臨んだ年でした。
その証拠に、卒業して30年以上経過するにもかかわらず、当時の他校の監督さんや主力選手たちの姿が、今でも鮮明に思い出されます。
冒頭の写真は、その年の主将たち。
右から
法政・居郷肇二塁手(倉敷工業)、
早稲田・中屋恵久男遊撃手(早実)、
慶応・堀場英孝捕手(丸子実業)、
明治・高橋三千丈投手(静岡商業)、
東大・野村英嗣内野手(湘南)、
立教・橘靖雄内野手(立教高)
私にとって、彼らは永遠のスター選手です。
とにかく盛り上がりました。
先日の早慶戦の試合前、私の同期の佐々木雅次左翼手(大谷高校-早大-トヨタ自動車。現在は同社の野球部長)から、思い出話を聞く機会がありました。
佐々木さんが語った、忘れられない思い出は・・・
『1978年秋の早慶戦の一週間前、法明戦を少し見ようと神宮球場に立ち寄りました』
『そうすると、神宮球場の周囲に、人の列ができていた。何だろうと思ったら、一週間後の早慶戦に向けて、早大生たちが既に泊り込みを始めていたんですよ。あれには本当にビックリしました。』
外苑前の立ち食いそば屋に行って腹ごしらえしたり、自宅から食料や麻雀卓を持ち込んだりして、決戦に備えました。
本当に良き時代でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/20/98018eeeb2fdf05b78d1e7f024e16fc7.jpg)
次の写真は、当時の監督さんたちです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/69/8a600072f51253463b5579578e4f94c3.jpg)
明治の島岡御大が、さすがの貫禄。
いやぁ、早稲田の石山建一監督が若いですねえ。
そして、五明さんから代わったばかりの法政の鴨田監督からは、まだ遠慮気味の雰囲気が伝わってきます。
ぜひ読んでみてください。
さて、私が最も濃密に六大学を観戦した年度といえば、私が大学四年生となった1978年(昭和53年)です。
難攻不落の江川投手が卒業し、最後の学年に3年間のうっぷんを全てぶつけるつもりで臨んだ年でした。
その証拠に、卒業して30年以上経過するにもかかわらず、当時の他校の監督さんや主力選手たちの姿が、今でも鮮明に思い出されます。
冒頭の写真は、その年の主将たち。
右から
法政・居郷肇二塁手(倉敷工業)、
早稲田・中屋恵久男遊撃手(早実)、
慶応・堀場英孝捕手(丸子実業)、
明治・高橋三千丈投手(静岡商業)、
東大・野村英嗣内野手(湘南)、
立教・橘靖雄内野手(立教高)
私にとって、彼らは永遠のスター選手です。
とにかく盛り上がりました。
先日の早慶戦の試合前、私の同期の佐々木雅次左翼手(大谷高校-早大-トヨタ自動車。現在は同社の野球部長)から、思い出話を聞く機会がありました。
佐々木さんが語った、忘れられない思い出は・・・
『1978年秋の早慶戦の一週間前、法明戦を少し見ようと神宮球場に立ち寄りました』
『そうすると、神宮球場の周囲に、人の列ができていた。何だろうと思ったら、一週間後の早慶戦に向けて、早大生たちが既に泊り込みを始めていたんですよ。あれには本当にビックリしました。』
外苑前の立ち食いそば屋に行って腹ごしらえしたり、自宅から食料や麻雀卓を持ち込んだりして、決戦に備えました。
本当に良き時代でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/20/98018eeeb2fdf05b78d1e7f024e16fc7.jpg)
次の写真は、当時の監督さんたちです。
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明治の島岡御大が、さすがの貫禄。
いやぁ、早稲田の石山建一監督が若いですねえ。
そして、五明さんから代わったばかりの法政の鴨田監督からは、まだ遠慮気味の雰囲気が伝わってきます。
五明監督の任期が終了近くになったので
次期監督候補数人をキャンプによび
それとなく観察させられたとき
浦先輩理事という方が「鴨田が一番しっかりしているのでいいと思う」と同意を求められうなずいた。
と書いてあります。
この浦先輩理事の判断が法政に松永監督時代以上の好成績と全盛時代の
再現を実現しました。
鴨田監督は練習を見たことがありますが大変立派な監督でした。
当時は、両校の内野・外野と順番に校旗入場、校歌斉唱が行われていたので、早慶賛歌と合せると、1時間にも及ぶエール交換。徹マン、二日酔いの身には堪えました。
今でも時々思い出すのは、
早稲田のダッグアウト上で旗を振り、得点が入ると”紙ふぶき”まで飛ばしていた臙脂のウィンドウブレーカ姿のおじさん。
敵を煙に巻くという”煙幕作戦”という応援。「吸って吸って吸って、もっと吸って、はい、吐いて!」、学生席での半強制的な喫煙は今では考えられません。
「ま・つ・も・と、俺のま・つ・も・と!」とだみ声を張り上げる”あの人”と呼ばれたOB。「松本、ええい面倒くさいから、一気に三塁まで走れ(一塁から三塁への盗塁)!」周囲がなごむ野次でした。
早慶戦に負けた時だけに歌うのは”仰げよ荘厳”でしたよね。
法政江川の牙城を崩せず
優勝パレードが出来ずに迎えた四年生にとっては最終シーズン
今年と同じく早慶戦で勝点を取った方が優勝の状況でした
早稲田は慶応を
5-0 4-0
の2試合完封勝ちし9シーズン振りの優勝をしました
北口―金森のバッテリーは石山監督がコンバートて育てたバッテリーでした
当時は千葉テレビなどのUHF局が放送していたし、早慶戦以外でもNHKが中継していたので、よく見ました。
明治の高橋三千丈、
慶應の堀場など印象的でしたね。
藤田といういつも「半笑い顔」のサイドスローの投手が慶應にいたのもこの頃でしたかな?