東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鮫河橋坂上~喰違見附

2010年10月08日 | 散策

鮫河橋坂上まで行くと、今回予定の坂巡りは終わりだが、まだ時間があったので、前回行けなかった紀尾井坂近くの清水坂に行くことにする。

坂上を進み、直進すれば四谷駅の方だが、右折し迎賓館の前を通る。ここは前面も公園になっているので、広々としているが、荷風がいう趣のある閑地ではない。

紀伊国坂から続く外堀通りの歩道(外濠側)を坂下側に歩く。少し歩くと、江戸時代の紀州徳川家の屋敷の黒い門が見えてくる。右の写真はその黒門を、通りを挟んで反対側から撮ったものである。

この門の向こうにある迎賓館と青山御所内の敷地はかなり広く、迎賓館のあたりは高台のようだが、前回の記事のようにむかしはこの中の池から水が弁慶濠の方に流れていたというから、低地がありそこに池があったのであろう。

中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、縄文海進期には、赤坂見附の交差点の方から外堀通りに沿って紀伊国坂下あたりから御所内へと海が延びている。御所の中は現在池のあるところ含めてかなり海になっていて、さらに鮫河橋門を突き抜けて坂下の交差点から円通寺坂に向けて延びる通りに沿って、円通寺坂の中腹あたりまで入り込んでいたようである。

左の写真は前回の元赤坂の弾正坂下と九郎九坂下との合流地点近くから下側(北側)を撮ったもので、写真奥側を曲がって進むと、紀伊国坂下である。

このあたりから海が写真左側の御所内に入り込んでいた。

太古の昔には、御所内のかなりの部分が、荷風が描いた隣の鮫河橋の貧民窟と同様に海であり、その後の歴史のある瞬間に一方が御所とよばれ、他方がスラム街とよばれたとしても、いずれはふたたび同じになると考えることは未来を見通す視点となりえるはずである。縄文海進期の地図をみていると、そんな妄想にとらわれてくるから不思議である。

門をすぎるとすぐ信号のある交差点で、ここを左折すると、喰違見附である。

荷風の「日和下駄(第八 閑地)」に、「明治六年筋違見附を取壊してその石材を以て造った彼の眼鏡橋」とあるように、明治始めに取り壊され、その石を使って眼鏡橋(皇居の二重橋)を造ったようである。荷風は「筋違見附」としているが、喰違見附のことであろう。

ここを通りすぎて紀尾井坂へ向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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