東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鳥居坂

2010年10月25日 | 坂道

芋洗坂を下り、平坦部を歩く。ここが日ヶ窪である。荷風がいうように、昔は、六本木交差点の坂上からみえたらしい。現在は、ビルが並んでいるためとてもみえない。

商店街が続いている。麻布十番ほどの賑やかさはないが、落ち着いた雰囲気で散歩道としてもよい。芋洗坂、饂飩坂ははじめてなので、この通りもはじめてである。なにか新鮮な感じがする。

しばらく歩き、途中、左にカーブして進むと、鳥居坂の坂下である。

右の写真は坂下手前から撮ったものである。おもしろいことに左側の坂道と歩道をつなぐための階段がついている。このように坂に続く階段というのははじめてである。この坂は二度目だが、以前は、反対方向からきたため、このような階段があることを知らなかった。この階段は、松本泰生「東京の階段」に紹介されている。

この坂は、右の写真でもわかるように、坂下がかなり道路側(写真右側)に突き出ており、坂下を横断する歩道も坂を横切る感じである。道路を拡幅したため道路の方が坂に近づいたというべきか。

左の写真は坂下から撮ったものである。かなりの勾配でまっすぐに上っている。

左端に写っている標柱には次の説明がある。

「とりいざか 江戸時代なかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(一六八八~一七〇三)ごろ開かれた道である。」

尾張屋板江戸切絵図をみると、芋洗坂の道を南から東へと曲がりながら進むさきに鳥居坂の坂下がある。この道筋はいまの道とほぼ一致しているようである。近江屋板にも坂名と坂マークがのっている。

「御府内備考」には次の説明がある。

「鳥居坂は、六本木より一本松の方へ下る坂をいへり、坂の上に鳥居家の屋敷あり、砂子云、慶長のころ、此地は鳥居彦左衛門に賜ひしところなり、よりてかく鳥居坂の名ありと、江戸志云、一説に麻布の氷川明神むかしは大社なりしかば、この所にこの鳥居ありしゆえの名なりと、三の鳥居は長坂にありしといふ、案に慶長年中鳥居氏にこの地を賜ひしといひ、又氷川の社の鳥居こゝにありしといふはともに無稽にして妄説ときこゆ、さらにとりかたし改選江戸志」

慶長年間(1596~1615)に鳥居氏がこの地を賜ったこと、氷川神社の鳥居がここにあったことは、坂名の由来としてともに妄説としている。一方で、標柱の元禄年間(1688~1703)に開かれたというのは何に基づくのか不明である。

右の写真は坂上から撮ったものである。かなりの急坂であるが、車はけっこう通り、路線バスも走っている。

坂上右側の歩道にも標柱が立っている。その右にはシンガポール大使館がある。

横関は、寛文図を見ると、この坂のできる前、このあたり一帯は、「トリイ兵部」の屋敷になっている、としているが、この寛文年間(1661~1673)は元禄の前であるので、元禄年間ごろ開かれた道という標柱の説明と矛盾しない。

ここで、中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、鳥居坂のあたりは坂下まで洪積台地で、そのさき、麻布十番の通りは、縄文海進期に海で、そのさきは芋洗坂の朝日稲荷の付近まで延びている。六本木通りの市三坂では、標柱の立っているあたりまで海が溜池の方から延びていたようである。
(続き)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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