東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

寄席坂~丹波谷坂

2010年10月19日 | 坂道

長垂坂上を右折し進み、突き当たりを右折すると、緩やかな下り坂が長く続き、下側で左折するが、この左折したあたりから下側が寄席坂のようである。

右の写真は、左折し少し進んだところから坂下を撮ったものである。勾配は中程度といったところである。

この坂は右の写真の坂下で左に曲がってさらに下り、六本木通りにでるが、そこに立っている標柱に次の説明がある。

「よせざか 坂の途中の北側に、明治から大正三年にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂とよびならわすようになった。」

この標柱は古く、字もかなり薄くなっている。いま、港区の坂の標柱は、ところどころ新しくなっており、前回の長垂坂もそうであったが、ここもそのうちに新しくなるのであろう。

江戸切絵図には、この坂に相当する道はないようであり、明治地図にもないが、戦前の昭和地図にはちゃんとあり、現在の坂と同じ道筋である。この間につくられた坂である。

左の写真は、坂下から坂上を撮ったものである。

標柱は写真左側の角に立っている。

坂下側で勾配がちょっときつい。坂下は、六本木通りの市三坂であり、まだ坂下側である。

坂下を左折し、市三坂を上り方向に進み、次を左折する。細い道が斜めに延びているが、右手の六本木通り側は高層ビルの工事中である。しばらく歩くと、道が人一人程度しか通れないほど一段と狭くなる手前で左折すると、丹波谷坂の坂下である。

この坂は、以前、丹波谷坂と荷風という記事で紹介した。

標柱の説明を再掲する。

「たんばだにざか 元和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初期この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。」

この坂は、尾張屋板江戸切絵図にはないが、明治地図にはちゃんとある。近江屋板には、「大御番組」「俗に丹波谷と云」とあり、坂道はないが、坂マークの三角印△がのっているので、屋敷内の坂であったのだろうか。

戦前の昭和地図には、丹波谷坂、と坂名がちゃんとのっている。

右の写真は坂上から撮ったものである。細い坂道がかなりの勾配でまっすぐに上下している。

標柱は坂上と坂下に立っている。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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