東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鮫河橋跡

2010年10月07日 | 散策

鮫河橋坂を下り、南元町の交差点を右折し公園のわきを進むと、高速・中央線のガード手前右側に小祠がある。

右の写真のように、右手前に「鮫ヶ橋せきとめ神」の石碑、右後ろに「四谷鮫河橋地名発祥之所」の石碑が立っている。地名の石碑(下左の写真)の左には、「昭和五拾年三月吉日建立 建碑主 長尾登女 詞と字 長尾保二郎」とある。

前回の記事のように、近江屋版江戸切絵図によれば、鮫河橋坂下に川が流れ、その川に鮫ヶ橋がかかっており、川は、竜谷寺の先の鮫ヶ橋表町の方から流れている。この川を櫻川(桜川)といったようで、橋の近くに、櫻川ノ源右北町辺ヨリ出赤阪江流、と註がある。北町は鮫ヶ橋表町の上流側すぐ隣である。ちょうど、この小祠のあたりを流れていたのかもしれない。

桜川沿いの地域を鮫河橋と呼ぶようになり、元禄九年(1696)には、橋周辺を元鮫河橋、北部を鮫河橋と称したという。

鮫河橋の由来は、①前回の「江戸名所図会」には、昔この地が海につづいており、鮫があがった、②「江戸砂子」には、牛込行元寺の僧がさめ(馬+魚)馬に乗って橋から落ちていたので、さめ馬橋となり、それが転訛した、③桜川は雨後にだけ水量が増すので、「雨が(降るときだけの)橋」といわれた、などの諸説があるが、いずれも俗説の域をでないとされている。

左の写真は上記の地名の石碑である。現在、鮫河橋跡をしのぶことができるものは、この石碑と、鮫河橋坂という坂名だけである。

永井荷風は「日和下駄(第八 閑地)」で、このあたりのことを次のように書いている。

「四谷鮫ヶ橋と赤坂離宮との間に甲武鉄道の線路を堺にして荒草萋々(せいせい)たる日避地(ひよけち)がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床へ行った帰途または買物にでも出た時、法蔵寺横町だとかあるいは西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋谷町へ下り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄(ゆうばえ)とを眺めるのである。」

荷風は、これを書いた大正3年(1914)ころ、まだ大久保余丁町に住んでおり、散歩の折、比較的近いこのあたりに、円通寺坂観音坂鉄砲坂を下ってきたようである。一本道は、観音坂下あたりの谷町から甲武鉄道(現在の中央線)の線路を越えて延びているが、そのあたりに日避地があった。

明治地図をみると、ちょうど鮫河橋坂の西から線路のあたりにかけて宮内省用地がある。ここを荷風は日避地としたのであろう。いまのみなみもと町公園のあたりと思われる。続いて荷風は次のように書いている。

「この散歩は道程の短い割に頗る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠(すくな)くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船と製造場とを背景にする水場の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃(ひらめか)している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌え出(い)で四辺(あたり)の木立に若葉の緑が滴る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与(あずか)れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺(そそ)ぐ夕暮なぞには破れた障子にうつる燈火の影、鴉(からす)鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。」

荷風はこのあたりの変化に富む地形ばかりでなく、貧家が立ちならぶ風景に愛着を感じたようである。そうでなければこのような風景描写はできないと思われる。荷風独特の偏狭なる美学である。続いて次のようにある。

「この暗鬱な一隅から僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その向にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の土塀が乾の御門というのを中央にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀(よじ)登っている。日頃人通りの少ない処とて古風な練塀とそれを蔽う樹木とは殊に気高く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五木乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ歩寄った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない蘆の茂りが夕風にそよいでいて、井戸のように深くなった凹味(くぼみ)の底へと、大方御所から落ちて来るらしい水の流が大きな堰にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと蛍が飛ぶにちがいない。私はこの夕ばかり夏の黄昏(たそがれ)の長くつづく上にも夕月の光ある事を憾(うら)みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと踵(きびす)を返した。」

その立ちならぶ貧家からちょっと鉄道線路の土手を越えると、風景は一転し、そのむこうにはひろびろした火避地が広がっていた。貧民窟から広い閑地そのむこうに御所といったような風景の突然の変化は東京という都市の独特な特徴なのかもしれない。

貧しげなる生活をおくる人々、その隣で優雅なる生活(たぶん)をおくる人々、まったく異なるようであるが、同時代を生きたということで等価である。あるいは、貧しいが自由で楽しい人生をおくる人々かもしれず、豊かだが不自由でつまらぬ人生をおくる人々かもしれず、一人一人の生活をみればまた違った内面をもっていたかもしれない。いずれにしても、人が生活する上で一方が重く他方が軽い存在ということはない。これはいまも同じである。荷風の描く風景からそんなことを連想してしまった。

遠く青山の方へ攀(よじ)登る長い坂道とは安鎮坂(権田坂)のことであろう。さらに続く。

「鮫ヶ橋の貧民窟は一時代々木の原に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなった暁四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下しでもすると国家の耻辱になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人の空景気で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ヶ橋も今日なお取払われず、西念寺の急な坂下に依然として剥(はげ)ちょろのブリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。当路の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民宿の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の取除を急ぐが至当であろう。」

荷風は当時の役人の風潮を痛烈に皮肉っているが、こういったことはいまもあるかもしれない。それにしても銅像というものを荷風は徹底的に嫌ったようである。これもまた荷風独自の感覚である。そんなものを後世に残すべきでないということであろうか。残すなら言葉や絵などでということか。

右の写真は上右の写真の小祠の裏にあったさらに小さな祠を撮ったものである。

なぜか隠れるようにひっそりとある。ちょうど荷風の好む淫祠のようである(以前の記事参照)。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
朝日新聞社会部「東京地名考 上」(朝日文庫)
野口冨士男編「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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