東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

出羽坂~新助坂

2010年10月02日 | 坂道

鮫河橋坂の中腹にある入り口から階段を通ってみなみもと町公園に入り、公園の中の野球場のわきを通って公園西側の道にでる。この道が今回通ってきた円通寺坂から続く通りである。この歩道わきに小さな祠があるが、これは後に取り上げる予定。

歩道を北側に進み、首都高と中央線のガード下を通り抜けて、左をみると、出羽坂の坂下である。標柱が右の歩道わきに立っている。

右の写真は、坂下から撮ったものである。まっすぐに中央線の石垣に沿って上っている。勾配はさほどきつくない。

写真右端に写っている標柱には次の説明がある。

「明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には、修徳園と呼ばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。」

この坂は、右の写真の坂上にも標柱が立っているが、そこで終わりでなく、右に緩やかに曲がって上っている。

下左の写真は、曲がった先の坂上から撮ったものである。中央上側が中央線で、その下で坂が左に曲がりながら下っている。

江戸切絵図をみると、鮫河橋坂下のあたりから西に入る道があり、前回の鉄砲坂下に至るが、途中、竜谷寺のわきに入る道があり、この道は、永井金三郎の屋敷にすぐに至りそこで終わっている。近江屋版も同様である。

以上のように、江戸時代にはこの坂はない。石川、岡崎の説明では、江戸の坂であるかのようになっているが、横関の説明によれば、これは間違いで、明治の終わりごろになって名のついた坂である。

すなわち、明治維新後、幕末の永井信濃守の屋敷跡が三井家の屋敷になり、それを買収して引っ越してきたのが、徳川時代の松平出羽守であった牛込神楽坂の松平氏であるという。これは標柱の説明とあっている。

その後、そこに新しくできた坂道を切り通しとよび、出羽坂とよぶようになったと推察している。石川が根拠にした森川出羽守邸は、ここからかなり離れており、坂名になるはずはないとしている。

明治地図をみると、線路を越えた所から西に延びる、現在とほぼ同じ道があり、ここが切り通しで、出羽坂である。坂下北側に二葉幼稚園がある。

戦前の昭和地図をみると、坂上で曲がったところに出羽坂と記してあり、坂下に二葉保育園がある。坂の北側一帯に松平邸があり、かなり広大である。この地図をみると、徳川時代の松平出羽守の末裔が住んだ屋敷があったことから出羽坂となったことがよくわかる。

横関は、出羽坂といういかにも江戸の坂のような古めかしい名だが、それは間違いで、新しい坂であると強調している。かつて箱崎川にあった土洲橋も同じで、江戸の橋ではなく、明治の終わりごろにできた橋であるという。

坂上を西に進むと、まもなく左手に南に下る坂がみえてくる。

右の写真はその坂上から撮ったものである。 細くかなり急な坂で、このため左手には手摺りができている。

少しうねりながら中央線の線路下まで下っている。遠くには緑が見えるが、明治記念館の樹々であろうか。

ここは無名坂であるが、岡崎は、これから行く新助坂よりも趣があって、こちらの方を好むとしている。うねって少し曲がりながら上下するところを好んだのであろうか。

坂下を右折し、線路下に沿って西側に歩く。この道の北側には民家が並んでおり、ひっそりとした感じで、坂上からこのような家々があることがわからず、隠れ家的な雰囲気があり、なにかこころなごむものがある。歩いていくと子どもたちがにぎやかに遊んでいて下町の感じである。

上記の無名坂下と、さらに途中には、線路下を通り抜けるトンネルがあり、中央線の反対の南側の道につながっているようである。

線路下に沿った道はやがて突き当たりになるが、そこを左折したところが新助坂の坂下である。

左の写真は坂下から撮ったものであるが、ほぼまっすぐにかなりの勾配で北側に上っている。先ほどの無名坂と同じように細い急坂であるが、うねりはない。

坂上に立っている標柱には次の説明がある。

「『新撰東京名所図会』には、「新助坂は四谷信濃町に上る坂なり、一名をスベリ坂ともいふ、坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治三十年代中頃には、新助坂の名で呼ばれていた。」

明治地図をみると、出羽坂のさきに、先ほどの無名坂と新助坂があり、甲武鉄道(いまの中央線)を越える踏切(または隧道)もあったようである。

新創社編「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)という、江戸切絵図と現代地図とを重ね合わせてみることのできる地図をみると、この坂も上記の無名坂もあり、江戸の坂のようである。尾張屋版に一行院の北側に永井鉄弥という屋敷があるが、その東側の道がこの坂で、その東にある平行な道が上記の無名坂である。近江屋版にはこの坂に坂マークの三角印△がある。

右の写真は坂上から撮ったものである。坂上からもかなりの勾配があることがわかる。

中央線の電車がちょうど通過しているのがみえ、その向こうにみえる緑も明治記念館の樹々であろう。

坂上を左折し信濃町駅方面に向かう。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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