東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三光坂

2010年10月13日 | 坂道

前回の無名坂上を右折すると、三光坂の坂上である。

右の写真は、右折して少し進んだあたりから撮ったものであるが、ここから坂下はまだみえない。

樹木が多く、通る車も少なく、さきほどまでの目黒通りの喧噪と違って静かな落ち着いた雰囲気である。

写真左にみえるように標柱が立っているが、次の説明がある。

「さんこうざか 本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ仏具)坂だったというが、日月星の三光などともいう。」

尾張屋板江戸切絵図には、三鈷サカ、とある。近江屋板には、三古坂とあり、さらに坂マークの三角印△がある。

「新撰東京名所図会」は、「三鈷坂は白金三光町西光寺の前より白金台町に登る坂路をいふ。武江図説には、三鈷坂、本名三葉坂と云ふとありて、松宮山三葉院専心寺の条に、境内三葉松あり三鈷松といふは非なりと見ゆ。案ずるに此説誤まれり。(中略)三鈷はもと三叉を成せしもの。松の三叉に似たれば名づく。此坂は松に起源せしものならんも本名三葉坂といふは却ってひがごとなるべし」と説いているという。

石川は、三葉をただちにサンコと発音するはずがないから、三葉の松を三鈷の松ともよんだのであろうとし、それが三光町の名となり、三光坂の名ともなったか、と推察している。

山野は、鷹狩りにきた三代将軍家光が、専心寺の葉が三つに分かれた老松を愛でて三鈷松と名づけ、三鈷坂が転じて三光坂となったとしている。

左の写真は、坂上から坂下を撮ったものである。まっすぐにかなりの勾配で下っている。

現在、坂下には、道を挟んでやや坂上側に専心寺、西側の角に西光寺がある。これは江戸切絵図の配置とほぼ一致している。

坂下で東西に延びる商店街の通りにつながっているが、江戸切絵図では、東から西へ延びてきた道が三鈷坂で行き止まりになっている。明治地図もそうであるから、ここから西側への道はその後できたものであろう(戦前の昭和地図にはある)。

下右の写真は坂下から撮ったものである。坂下にも標柱が立っている。

坂下を左折し、西側へ歩く。この坂下の商店街通りは、下町の雰囲気であるが、ここも他の地域と同じように閉じている店が多く、人通りも少なく、なにかさびれた感じである。

帰ってきてから気がついたのであるが、荷風が偏奇館に移る前に、このあたりに家を探しにきていることを思いだした。

大正8年(1919)9月23日の「断腸亭日乗」に次のようにある(以前の記事参照)。

「九月廿三日。芝白金三光町日限地蔵尊の境内に、頃合ひの売家ありと人の来りて告げければ、午後に赴き見たり。庭の後は生垣一重にて墓地につづきたるさま、静にて趣なきにあらねど、門前貧民窟に接せし故其儘になしたり。・・・」

日限地蔵尊とは、明治地図をみると、立行寺の前の本壽寺に日切地蔵というのがあるが、ここと思われる。坂下を右折した東側にこれらの寺はいまもあるようなので、訪れてみたかったが、またの機会としたい。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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日吉坂~無名坂

2010年10月12日 | 坂道

坂上の信号を横断し、右折して目黒通りを進むと、日吉坂の坂上である。

右の写真は坂上から撮ったものである。 目黒通りにある坂であるが、ほぼまっすぐに東側に下っている。

坂下のさきで緩やかに曲がってから桜田通りにつながる。長い坂で勾配は中程度といったところか。

坂下が見える手前の坂上に真新しい標柱が立っているが、次の説明がある。

「ひよしざか 能役者日吉嘉兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかに、ひよせ・ひとせ・ひとみなどと書く説もある。」

別名のひよせ坂は、もと日吉坂上にあったという前回の桑原坂上近くの古地老稲荷神社の火伏せ(ひぶせ)、火除け(ひよけ)から転訛したとも考えられそうだが。

下左の写真は坂下から撮ったものである。坂下の都ホテル側にも標柱が立っている。この下側に清正公・覚林寺がある。

尾張屋板江戸切絵図には、坂下の清正公わきから西に向かって道に、順に白金一丁目~十一丁目と書かれている。一丁目に高野寺があり、前回の桑原坂上は五丁目である。

一方、近江屋板には、三丁目に坂マークの三角印△があり、この坂と思われるが、さらに、二丁目を挟んで、高野寺の前にも反対向きに三角印△がある。これからすると、いまの日吉坂下のさきに上り坂があったことになる。

「芝区史」には、次のようにあるという。

「市電停留所日吉坂上から清正公前に下る坂を日吉坂と言ふ。むかし能役者日吉某なるものがこの附近に住んでゐたと伝へられ、坂の延長六十四間に達する。一丁目の中央から北方三光坂に出る横町を昔は早道場(はやみちば)と言ひ、江戸のはじめ、辻斬、追剥が出て人を脅かしたので、皆早足で通り過ぎた所である。前掲二丁目のむじな横町などと共に、このあたりは余程うす気味の悪い所であったに違いない」。

一丁目の中央から北方三光坂に出る横町とは、尾張屋板江戸切絵図の四丁目と思われる。この四丁目から入る道のわき、正源寺の前に、早道場、とある。近江屋板では、同じところに、俗ニ早道場ト云、白金百姓地、とある。

坂下から正源寺のわきの道に左折して入る。進むと、右手は大きな敷地で樹木で鬱蒼としている。細いなだらかな坂道が何度か緩やかに曲がって続くが、ここは無名坂である。

右の写真は途中、坂上側を撮ったものである。このあたりではかなり細い道となっている。苔むした塀が続き塀の向こうは樹木が繁って、なかなか風情のある坂道である。

この道は坂上で三光坂上につながるが、以前、三光坂にきたとき、この無名坂を下り、なかなかよい坂と思った記憶があったので、今回も迷わずにこの道にきたのである。

この無名坂は、江戸切絵図にもあり、近江屋板には坂マークの三角印△がある。上記の「芝区史」でいうように、早道場といわれた三光坂から延びる道がそれほど薄気味悪いのならば、この坂も相当であったのであろう。そう思って、近江屋板をみたら、正源寺の裏手(北側)に、明地 ムジナヨコ丁、とある。そうすると、上記の芝区史でいうむじな横町とは、この坂上側の左手をいったのであろう。ムジナといえば、紀伊国坂ののっぺらぼうの怪談を思いだすが、ここにもでたのであろうか。

日吉坂下のさきの桜田通りに名光坂があるが、以前、二本榎の通りの方から下って歩いた覚えがあるので、今回は、そのまま三光坂へ行く。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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桑原坂

2010年10月11日 | 坂道

今回は港区白金台、白金界隈の坂を巡る。

午後白金台駅下車。ここは今年の春、池田山方面にきたとき以来である。

2番出口からでて左折し、目黒通りを東に進むと、すぐに日吉坂上の信号がある。この横断歩道を南側に渡ると、桑原坂の坂上である。まっすぐに下っている。

右の写真は坂上から撮ったものである。左に写っている標柱には次の説明がある。

「くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、特別の説は残っていない。」

いやにあっさりとした説明であるが、要するに、坂名の由来は地名ということ以外なにもわからない。

例によって、尾張屋板江戸切絵図をみると、瑞聖寺のわきを南に延びる道があるが、ここが桑原坂と思われる。現在、坂上の西側に瑞聖寺の山門がある。寺の一軒おいた南側に、今里村 百姓地、とある。

近江屋板にも、同様の道があり、坂マークの三角印△があるが、マークの位置がおかしい。現在の坂上に向かって三角印△の頂点が向いていない。単なる書き間違いと思われるがどうなのであろうか。

坂を下るが、すぐのところに、八芳園の出入口があるので、人通りが多い。坂の勾配は中程度で、長さもかなりある。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下にも標柱が立っている。坂下の信号からもどる。

この坂は何回かきていて、坂を下り、道なりに進むと、明治学院大学の前、桜田通りを通りすぎ、二本榎の通りと交差し、さらに直進すると、桂坂の下りになり、第一京浜へと続く。このためか、この坂はひっきりなしに車が通る。

江戸切絵図をみると、同じように二本榎の通りにつながっているが、T字路で、そこからさきは延びていない。

永井荷風もこのあたりにきている。「断腸亭日乗」大正13年(1924)10月15日に「十月十五日。快晴。午後白金瑞聖寺を訪ふ。」と簡単に記述している。ちょうどこの季節である。

瑞聖寺とは、寛文10年、隠元の弟子の木庵によって開かれた黄檗宗の古刹とのことである。「江戸名所図会」に挿絵がのっているが、江戸切絵図によると表門はこの坂側であるようなので、挿絵に描かれている道は、この坂かもしれない。

坂を上り、八芳園の前をすぎると、坂上近くに古地老稲荷神社がある。右の写真は神社を撮ったものである。

その由来書きによると、江戸の昔から火伏せの稲荷の信仰が盛んで、この神社は文政年間に日吉坂上に鎮座されたものとのこと。江戸のころは、火事が発生すると、大規模になることが多かったことから、火除けの神様として信仰を集めたものらしい。関東大震災のときも第二次世界大戦の空襲のときも火災を免れることができたとある。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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紀尾井坂~清水坂

2010年10月09日 | 坂道

喰違見附から紀尾井坂を下る。坂下を左折すると、平坦な道路がビルの間をまっすぐに延びている。さらに進むと、右にやや曲がってから、ふたたびまっすぐに延びて、上り坂になっている。坂上は新宿通りにつながる。

右の写真は坂下から撮ったものであるが、勾配としては中程度で、長さもある程度ある。

尾張屋版江戸切絵図をみると、紀尾井坂下から尾張屋敷の北側に沿って延びる道があり、ここに、シミヅダニ、とあるが、近江屋版には、その記載はなく、坂マークの三角印△がある。この坂が右の写真の坂である。

右の写真の坂下で右折して(下左に右折マークがみえる)北東に延びる道があるが、途中で坂になって新宿通りにでる。近江屋版には、この道に、里俗ニシミヅ谷ト云、とあり、坂マークの三角印△があるが、無名である。この坂下を清水谷といった可能性もあるようだ。

横関は、念仏坂を調べ、新宿区住吉町に念仏坂がいまもあるが、麹町にもあったとし、天保元年(1830)ころの「江戸案内」の坂の部に次のようにあるという。
 かうじ丁 かい坂 紀尾井坂 念仏坂 清水坂

このうち、かい坂、紀尾井坂、清水坂はいまも実在し、清水坂はのちの紀尾井坂の古名とし同一の坂とする(「江戸名勝志」)が、清水坂は別な坂であるとするものもあり、「清水坂、九丁目尾州公表門より清水谷に下る坂を云ふ。江戸名所図会に、尾州と井伊家の間の坂とあるは誤れり」また「紀尾井坂、清水谷より十丁目続と喰違へ登る坂也」と「麹街略誌稿」にあるとのことである。

そして、清水坂は、「今日の紀尾井町と麹町五丁目の坂道、すなわち清水谷から、上智大学の東側の坂を、新宿通りへ出る道筋をいうことになる。」としている。

以上のことから、上右の写真の坂は、清水坂といえそうである。ただし、この坂について岡崎は横関の上記の説を紹介しているが、石川、山野は触れていない。

左の写真は清水坂上から撮ったものである。坂上を右に曲がるとすぐに新宿通りである。

横関は、さらに上記の念仏坂について、坂名の起因として、急なため往来の人々が念仏を唱えながら坂を上下した、という説を有力とし、急峻な坂でなければならないとし、清水坂の別名、紀尾井坂の別名、富士見坂の別名、さらに、「赤坂御門を通らずに、見附の枡形の北側を、いまの弁慶橋(そのころはなかった)のほうへ下る無名の急坂があったはずで、これが念仏坂ではなかったかと想像できないこともない。」とし、各可能性を考証しているが、決定版はないようである。

近江屋版をみると、その無名の急坂とは、赤坂御門の近くに坂マークの三角印△がある短い道があるが、ここであろうか。

清水坂を下り、上右の写真の坂下にもどりそこを左折して進むと、しだいに上りとなる。上記の無名坂である。その坂下側からとったのが右の写真である。

このあたりもほとんどビルだけであるが民家が一軒残っている。坂上側で左に曲がってから新宿通りにでる。

上記の無名坂も清水坂も江戸切絵図をみればわかるように立派な江戸の坂であり、この無名坂は上記の念仏坂である可能性もあるかもしれない。

新宿通りを通って四谷駅へ。

今回の坂巡りは、四谷三丁目駅近くから始まって新宿通り南側の坂であった。新宿通りが尾根であり分水嶺のようになっており、北側にもよい坂がたくさんある。

今回の携帯による総歩行距離は10.0km。

参考文献
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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鮫河橋坂上~喰違見附

2010年10月08日 | 散策

鮫河橋坂上まで行くと、今回予定の坂巡りは終わりだが、まだ時間があったので、前回行けなかった紀尾井坂近くの清水坂に行くことにする。

坂上を進み、直進すれば四谷駅の方だが、右折し迎賓館の前を通る。ここは前面も公園になっているので、広々としているが、荷風がいう趣のある閑地ではない。

紀伊国坂から続く外堀通りの歩道(外濠側)を坂下側に歩く。少し歩くと、江戸時代の紀州徳川家の屋敷の黒い門が見えてくる。右の写真はその黒門を、通りを挟んで反対側から撮ったものである。

この門の向こうにある迎賓館と青山御所内の敷地はかなり広く、迎賓館のあたりは高台のようだが、前回の記事のようにむかしはこの中の池から水が弁慶濠の方に流れていたというから、低地がありそこに池があったのであろう。

中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、縄文海進期には、赤坂見附の交差点の方から外堀通りに沿って紀伊国坂下あたりから御所内へと海が延びている。御所の中は現在池のあるところ含めてかなり海になっていて、さらに鮫河橋門を突き抜けて坂下の交差点から円通寺坂に向けて延びる通りに沿って、円通寺坂の中腹あたりまで入り込んでいたようである。

左の写真は前回の元赤坂の弾正坂下と九郎九坂下との合流地点近くから下側(北側)を撮ったもので、写真奥側を曲がって進むと、紀伊国坂下である。

このあたりから海が写真左側の御所内に入り込んでいた。

太古の昔には、御所内のかなりの部分が、荷風が描いた隣の鮫河橋の貧民窟と同様に海であり、その後の歴史のある瞬間に一方が御所とよばれ、他方がスラム街とよばれたとしても、いずれはふたたび同じになると考えることは未来を見通す視点となりえるはずである。縄文海進期の地図をみていると、そんな妄想にとらわれてくるから不思議である。

門をすぎるとすぐ信号のある交差点で、ここを左折すると、喰違見附である。

荷風の「日和下駄(第八 閑地)」に、「明治六年筋違見附を取壊してその石材を以て造った彼の眼鏡橋」とあるように、明治始めに取り壊され、その石を使って眼鏡橋(皇居の二重橋)を造ったようである。荷風は「筋違見附」としているが、喰違見附のことであろう。

ここを通りすぎて紀尾井坂へ向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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鮫河橋跡

2010年10月07日 | 散策

鮫河橋坂を下り、南元町の交差点を右折し公園のわきを進むと、高速・中央線のガード手前右側に小祠がある。

右の写真のように、右手前に「鮫ヶ橋せきとめ神」の石碑、右後ろに「四谷鮫河橋地名発祥之所」の石碑が立っている。地名の石碑(下左の写真)の左には、「昭和五拾年三月吉日建立 建碑主 長尾登女 詞と字 長尾保二郎」とある。

前回の記事のように、近江屋版江戸切絵図によれば、鮫河橋坂下に川が流れ、その川に鮫ヶ橋がかかっており、川は、竜谷寺の先の鮫ヶ橋表町の方から流れている。この川を櫻川(桜川)といったようで、橋の近くに、櫻川ノ源右北町辺ヨリ出赤阪江流、と註がある。北町は鮫ヶ橋表町の上流側すぐ隣である。ちょうど、この小祠のあたりを流れていたのかもしれない。

桜川沿いの地域を鮫河橋と呼ぶようになり、元禄九年(1696)には、橋周辺を元鮫河橋、北部を鮫河橋と称したという。

鮫河橋の由来は、①前回の「江戸名所図会」には、昔この地が海につづいており、鮫があがった、②「江戸砂子」には、牛込行元寺の僧がさめ(馬+魚)馬に乗って橋から落ちていたので、さめ馬橋となり、それが転訛した、③桜川は雨後にだけ水量が増すので、「雨が(降るときだけの)橋」といわれた、などの諸説があるが、いずれも俗説の域をでないとされている。

左の写真は上記の地名の石碑である。現在、鮫河橋跡をしのぶことができるものは、この石碑と、鮫河橋坂という坂名だけである。

永井荷風は「日和下駄(第八 閑地)」で、このあたりのことを次のように書いている。

「四谷鮫ヶ橋と赤坂離宮との間に甲武鉄道の線路を堺にして荒草萋々(せいせい)たる日避地(ひよけち)がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床へ行った帰途または買物にでも出た時、法蔵寺横町だとかあるいは西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋谷町へ下り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄(ゆうばえ)とを眺めるのである。」

荷風は、これを書いた大正3年(1914)ころ、まだ大久保余丁町に住んでおり、散歩の折、比較的近いこのあたりに、円通寺坂観音坂鉄砲坂を下ってきたようである。一本道は、観音坂下あたりの谷町から甲武鉄道(現在の中央線)の線路を越えて延びているが、そのあたりに日避地があった。

明治地図をみると、ちょうど鮫河橋坂の西から線路のあたりにかけて宮内省用地がある。ここを荷風は日避地としたのであろう。いまのみなみもと町公園のあたりと思われる。続いて荷風は次のように書いている。

「この散歩は道程の短い割に頗る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠(すくな)くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船と製造場とを背景にする水場の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃(ひらめか)している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌え出(い)で四辺(あたり)の木立に若葉の緑が滴る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与(あずか)れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺(そそ)ぐ夕暮なぞには破れた障子にうつる燈火の影、鴉(からす)鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。」

荷風はこのあたりの変化に富む地形ばかりでなく、貧家が立ちならぶ風景に愛着を感じたようである。そうでなければこのような風景描写はできないと思われる。荷風独特の偏狭なる美学である。続いて次のようにある。

「この暗鬱な一隅から僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その向にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の土塀が乾の御門というのを中央にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀(よじ)登っている。日頃人通りの少ない処とて古風な練塀とそれを蔽う樹木とは殊に気高く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五木乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ歩寄った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない蘆の茂りが夕風にそよいでいて、井戸のように深くなった凹味(くぼみ)の底へと、大方御所から落ちて来るらしい水の流が大きな堰にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと蛍が飛ぶにちがいない。私はこの夕ばかり夏の黄昏(たそがれ)の長くつづく上にも夕月の光ある事を憾(うら)みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと踵(きびす)を返した。」

その立ちならぶ貧家からちょっと鉄道線路の土手を越えると、風景は一転し、そのむこうにはひろびろした火避地が広がっていた。貧民窟から広い閑地そのむこうに御所といったような風景の突然の変化は東京という都市の独特な特徴なのかもしれない。

貧しげなる生活をおくる人々、その隣で優雅なる生活(たぶん)をおくる人々、まったく異なるようであるが、同時代を生きたということで等価である。あるいは、貧しいが自由で楽しい人生をおくる人々かもしれず、豊かだが不自由でつまらぬ人生をおくる人々かもしれず、一人一人の生活をみればまた違った内面をもっていたかもしれない。いずれにしても、人が生活する上で一方が重く他方が軽い存在ということはない。これはいまも同じである。荷風の描く風景からそんなことを連想してしまった。

遠く青山の方へ攀(よじ)登る長い坂道とは安鎮坂(権田坂)のことであろう。さらに続く。

「鮫ヶ橋の貧民窟は一時代々木の原に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなった暁四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下しでもすると国家の耻辱になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人の空景気で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ヶ橋も今日なお取払われず、西念寺の急な坂下に依然として剥(はげ)ちょろのブリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。当路の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民宿の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の取除を急ぐが至当であろう。」

荷風は当時の役人の風潮を痛烈に皮肉っているが、こういったことはいまもあるかもしれない。それにしても銅像というものを荷風は徹底的に嫌ったようである。これもまた荷風独自の感覚である。そんなものを後世に残すべきでないということであろうか。残すなら言葉や絵などでということか。

右の写真は上右の写真の小祠の裏にあったさらに小さな祠を撮ったものである。

なぜか隠れるようにひっそりとある。ちょうど荷風の好む淫祠のようである(以前の記事参照)。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
朝日新聞社会部「東京地名考 上」(朝日文庫)
野口冨士男編「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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安鎮坂~鮫河橋坂(2)

2010年10月06日 | 坂道

安鎮坂下を進むと、そのまま鮫河橋坂の上りとなる。

右の写真は坂下から撮ったものである。ほぼまっすぐに上る坂で、勾配は中程度といったところである。安鎮坂には標柱が立っているが、鮫河橋坂にはないようである。

尾張屋版江戸切絵図をみると、鮫ヶ橋坂とあり、安鎮坂とつながっている。近江屋版には、坂名はないが、坂マークの三角印△があり、この坂下あたりに川が流れ、その川に橋がかかっており、鮫ヶ橋ト云、とある。坂名はこの橋に因むものであろう。

横関によると、鮫ヶ橋坂、紀伊国坂、大坂ともいったらしい。

「江戸名所図会」に鮫河橋について次のようにある。

「紀州公御中館の後、西南の方、坂の下を流るゝ小溝に架すを云ふ。今この辺の惣名なれり。里諺に、昔この地海につづきたりしかば、鮫のあがりしゆゑに名とすといへども、証とするにたらず。(或人云く、天和二年公家の御記録に、上一木村鮫が橋とありと云々。然る時はこの辺も一木の内なりとおぼし。又佐目河に作る。千駄ヶ谷寂光寺鐘の銘に鮫が村ともあり。)」

註に、橋は、長さ二間、幅二間ほどの板橋とある。「江戸砂子」には、牛込行元寺の僧がさめ(馬+魚)馬に乗って橋から落ちていたので、さめ馬橋となり、その転訛とあるとのこと。

鮫河橋(鮫ヶ橋)の名の由来については上記のように諸説あるようである。

左の写真は坂の中腹あたりから坂下を撮ったものである。右がみなみもと町公園で、左が青山御所である。

尾張屋版江戸切絵図をみると、坂下から北西に延びる道に沿って、元鮫ヶ橋表丁、さらに鉄砲坂下から西念寺のあたりまで鮫ヶ橋谷丁、とあり、橋名から一帯の地名となったようである。

横関は、鮫河橋を中心とする権田坂(前回の安鎮坂)といまはなき誉田坂との関係について次のように記している。

むかし紀州家の下屋敷(いまの青山御所)の庭内には大きな池があり、この池から赤坂の風呂屋町の北を通って赤坂見附の弁慶橋の方に流れ込む一方、四谷の方からは戒行寺谷を通って鮫河橋下からこの池に流れ込む一筋の小川があった。そのころ、東西に細長い池と一本の道路を挟んで南北に紀伊屋敷があり(正保年間江戸絵図)、この道路は往古の一ツ木村の一部で赤坂三田方面にでる主要な街道であった。

二つの紀伊屋敷に挟まれた道路と池が交差するところに鮫河橋があり、この橋を渡って池の端を東の方に上っていく道路が誉田坂であった。明暦のころ、二つの紀伊屋敷が一つに合体し、誉田坂と池が屋敷の中に消えてしまった。鮫河橋だけが外に残り、この道路は北の紀伊屋敷の外囲いを回って喰違見附の方に出て堀端を赤坂の風呂屋町の方に下っていくが、これが後の紀伊国坂である。

誉田は「こんだ」または「ほんだ」とよむようである。誉田坂を下ると、鮫河橋があり、それを渡って西に行くと、権田坂を上ることになる。誉田坂を下って権田坂の頂上まで三町(400m)もなく、「こんだ坂」または「ほんだ坂」、「ごんだ坂」と二つの坂名がこんがらがってしまうし、二つの坂がこんなに近いとすると、坂名は一つで、権田坂は誉田坂が転訛したものかもしれない、としている。

以上のように、かつて鮫河橋の下流にあった池と誉田坂は紀伊屋敷の中に消えたが、権田坂という坂名は誉田坂からきているかもしれないと考えると、いまに伝わる坂名ということになる。

その小川は、近江屋版によれば、櫻川(桜川)というらしいが、現在の青山御所の鮫河橋門(前回の坂下の写真参照)のあたりから池へと流れていたのであろう。現在の地図をみると、御所内にはかなり大きな池があるようだが、ここと上記の池との関係はどうなのであろうか。池はともかくとして誉田坂がまだ残っているのかもしれないなどと想像すると楽しい。

紀伊国坂(以前の記事参照)は二つの紀伊屋敷が合体した結果、紀伊屋敷をぐるりと回るようにしてできた道で、鮫河橋坂はそのときにできた坂のようである。このため、鮫河橋坂の別名が紀伊国坂となっているのであろう。権田坂(安鎮坂)の方が鮫河橋坂よりも古い歴史があるともいえそうである。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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安鎮坂~鮫河橋坂(1)

2010年10月05日 | 坂道

外苑東通りの歩道を南に歩き、明治記念館の前を通りすぎると、まもなく権田原の交差点であるが、ここを左折する。銀杏並木の歩道がずっと延びている。右側は青山御所である。

まもなく、歩道に標柱が見えてくるが、このあたりが安鎮坂の坂上である。

右の写真は標柱の少しさきの坂上から撮ったものである。緩やかにまっすぐに下っているが、坂下側で少し曲がりうねっている。

このあたりは街路樹だけでなく青山御所があるため樹木が多く、落ち着いた雰囲気の散歩道となっている。晩秋は黄色に紅葉したした銀杏並木がまた別の趣を与える。

標柱には次の説明がある。 「あんちんざか 付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。」

左の写真は坂下(ちょっと上側)から撮ったものである。うねりながら下っており、この坂上側で少し勾配がついている。

横関は、この坂を安珍坂とし、安鎮坂、権田坂、権田原坂、権太坂、権太原坂、信濃坂とも書く、昔、安藤左兵エの屋敷内に安鎮大権現の社があって、この前の坂を安鎮坂と呼び、後には安珍坂と書くようになった、としている。

尾張屋版江戸切絵図をみると、紀伊屋敷(いまの青山御所)の北西にある道に、安チン坂、とあり、その道を南西に進むと、ゴンダ原、とある。

近江屋版には、坂マークの三角印△だけがあり、坂名はない。南西に進んだところには、稲荷前ト云、とある。しかし、いずれにも安藤左兵エの屋敷はないようである。これらよりもっと以前のことかもしれない。

明治地図をみると坂名はないが、戦前昭和の地図には、安珍坂とある。

岡崎は、この坂の説明に「江戸名所図会」の「品野坂(或いは信濃、又科野に作る。)俗に権太坂と呼べり。この地は武相の国境たり。・・・」を引用しているが、この品野坂(権太坂)は、武相の国境とあることからわかるように神奈川(横浜保土ヶ谷)の坂である。引用は誤りであろう。

右の写真は坂上側を背にして安鎮坂下を撮ったものである。ここにも標柱が立っている。

ここの信号は南元町の交差点で、左折すると、前回の出羽坂に向かった通りになり、直進すると、鮫河橋坂の上りとなる。

写真右は青山御所の鮫河橋門と思われる。

この坂下に昔、鮫ヶ橋があったが、この低地は、左折した通りが延びる鉄砲坂下、観音坂下あたりまで続くようである。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(二)」(角川文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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千日坂

2010年10月04日 | 坂道

信濃町駅の南口からでて左手の方に進むと下り坂になる。ここが千日坂である。二度ほど緩やかに曲がってうねりながら下っている。

右の写真は坂上からちょっと下ったところから坂下を撮ったものである。

勾配は中程度といったところであるが、坂上側がちょっときつく、長めの坂である。上に通っているのは首都高速道路の出口線である。

坂下に立っている標柱には次の説明がある。

「この坂下の低地は、一行院千日寺に由来し千日谷と呼ばれていた。坂名はそれに因むものである。なお、かつての千日坂は明治三十九年(一九〇六)の新道造成のため消滅し、現在の千日坂は、それと前後して作られた、いわば新千日坂である。」

上記の理由からむかしの千日坂はないので、標柱には、千日坂(新千日坂)とある。

左の写真は坂の中腹あたりから坂下を撮ったものである。

高速の下を通り、写真下側(赤いコーンが並んでいる所)を左折すると、一行院である。

その前に一行院の板碑についての説明板が立っている。鎌倉時代後期から室町時代後期までの七基の板碑が舎利塔内に保存されており、都内では数少ない暦応二年(1339)の題目板碑が一基あり、一行院附近にあったものと思われ、この地域における中世の信仰や民俗の貴重な資料である、とのこと。

横関は、久能坂ともいった旧坂について、「昔は一行院前から真っすぐに西へ今の外苑絵画館のほうへ崖を上った急坂であった。久野坂、千日坂とも」としている。

尾張屋版江戸切絵図をみると、一行院とその前の久野丹波守の屋敷との間を通って西に延びる道があるが、これがいまはない旧坂と思われる。これから久野坂の別名があるのであろう。

近江屋版には、一行院の前に、千日谷、とあり、西に上る坂マーク(三角印△)がみえるが、一行院の前の屋敷が久○丹波守で、第二字が異体字でよくわからない。岡崎は、「能」と読んでおり、久能坂はこれに由来するとしている。

左の写真は坂下から撮ったものである。下側はほぼまっすぐに下っている。

浄土宗一行院について石川は、この寺院の開基利覚和尚は、永井信濃守尚政の足軽であったが、剃髪して修行を重ね、千日谷に小庵を結び念仏坐行をしていたが、やがて旧主家に帰依されて寺院を創立し、寺領を与えられ、永井家の菩提寺になったと伝えられている、としている。

坂下を進むと、上り坂になって、外苑東通りの歩道にでて、そのまま南側に歩く。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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出羽坂~新助坂

2010年10月02日 | 坂道

鮫河橋坂の中腹にある入り口から階段を通ってみなみもと町公園に入り、公園の中の野球場のわきを通って公園西側の道にでる。この道が今回通ってきた円通寺坂から続く通りである。この歩道わきに小さな祠があるが、これは後に取り上げる予定。

歩道を北側に進み、首都高と中央線のガード下を通り抜けて、左をみると、出羽坂の坂下である。標柱が右の歩道わきに立っている。

右の写真は、坂下から撮ったものである。まっすぐに中央線の石垣に沿って上っている。勾配はさほどきつくない。

写真右端に写っている標柱には次の説明がある。

「明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には、修徳園と呼ばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。」

この坂は、右の写真の坂上にも標柱が立っているが、そこで終わりでなく、右に緩やかに曲がって上っている。

下左の写真は、曲がった先の坂上から撮ったものである。中央上側が中央線で、その下で坂が左に曲がりながら下っている。

江戸切絵図をみると、鮫河橋坂下のあたりから西に入る道があり、前回の鉄砲坂下に至るが、途中、竜谷寺のわきに入る道があり、この道は、永井金三郎の屋敷にすぐに至りそこで終わっている。近江屋版も同様である。

以上のように、江戸時代にはこの坂はない。石川、岡崎の説明では、江戸の坂であるかのようになっているが、横関の説明によれば、これは間違いで、明治の終わりごろになって名のついた坂である。

すなわち、明治維新後、幕末の永井信濃守の屋敷跡が三井家の屋敷になり、それを買収して引っ越してきたのが、徳川時代の松平出羽守であった牛込神楽坂の松平氏であるという。これは標柱の説明とあっている。

その後、そこに新しくできた坂道を切り通しとよび、出羽坂とよぶようになったと推察している。石川が根拠にした森川出羽守邸は、ここからかなり離れており、坂名になるはずはないとしている。

明治地図をみると、線路を越えた所から西に延びる、現在とほぼ同じ道があり、ここが切り通しで、出羽坂である。坂下北側に二葉幼稚園がある。

戦前の昭和地図をみると、坂上で曲がったところに出羽坂と記してあり、坂下に二葉保育園がある。坂の北側一帯に松平邸があり、かなり広大である。この地図をみると、徳川時代の松平出羽守の末裔が住んだ屋敷があったことから出羽坂となったことがよくわかる。

横関は、出羽坂といういかにも江戸の坂のような古めかしい名だが、それは間違いで、新しい坂であると強調している。かつて箱崎川にあった土洲橋も同じで、江戸の橋ではなく、明治の終わりごろにできた橋であるという。

坂上を西に進むと、まもなく左手に南に下る坂がみえてくる。

右の写真はその坂上から撮ったものである。 細くかなり急な坂で、このため左手には手摺りができている。

少しうねりながら中央線の線路下まで下っている。遠くには緑が見えるが、明治記念館の樹々であろうか。

ここは無名坂であるが、岡崎は、これから行く新助坂よりも趣があって、こちらの方を好むとしている。うねって少し曲がりながら上下するところを好んだのであろうか。

坂下を右折し、線路下に沿って西側に歩く。この道の北側には民家が並んでおり、ひっそりとした感じで、坂上からこのような家々があることがわからず、隠れ家的な雰囲気があり、なにかこころなごむものがある。歩いていくと子どもたちがにぎやかに遊んでいて下町の感じである。

上記の無名坂下と、さらに途中には、線路下を通り抜けるトンネルがあり、中央線の反対の南側の道につながっているようである。

線路下に沿った道はやがて突き当たりになるが、そこを左折したところが新助坂の坂下である。

左の写真は坂下から撮ったものであるが、ほぼまっすぐにかなりの勾配で北側に上っている。先ほどの無名坂と同じように細い急坂であるが、うねりはない。

坂上に立っている標柱には次の説明がある。

「『新撰東京名所図会』には、「新助坂は四谷信濃町に上る坂なり、一名をスベリ坂ともいふ、坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治三十年代中頃には、新助坂の名で呼ばれていた。」

明治地図をみると、出羽坂のさきに、先ほどの無名坂と新助坂があり、甲武鉄道(いまの中央線)を越える踏切(または隧道)もあったようである。

新創社編「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)という、江戸切絵図と現代地図とを重ね合わせてみることのできる地図をみると、この坂も上記の無名坂もあり、江戸の坂のようである。尾張屋版に一行院の北側に永井鉄弥という屋敷があるが、その東側の道がこの坂で、その東にある平行な道が上記の無名坂である。近江屋版にはこの坂に坂マークの三角印△がある。

右の写真は坂上から撮ったものである。坂上からもかなりの勾配があることがわかる。

中央線の電車がちょうど通過しているのがみえ、その向こうにみえる緑も明治記念館の樹々であろう。

坂上を左折し信濃町駅方面に向かう。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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鉄砲坂

2010年10月01日 | 坂道

闇坂上を右折し進み、前回の戒行寺坂を下る。商店街の通りを右折し、次のスーパーの角を左折すると、ほぼまっすぐな細い坂が緩やかに上っている。ここが鉄砲坂である。

右の写真は坂下から撮ったものである。坂の途中、左手に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「江戸時代、この辺りに御持筒組屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったため、鉄砲坂と呼ばれるようになった。また以前は、この地に赤坂の鈴降稲荷があったため、稲荷坂とも呼ばれていた(『御府内備考』)。」

尾張屋版江戸切絵図をみると、テツホウサカ、とあり、その周囲の何カ所かに、御持組、がある。近江屋版には、鉄炮坂、とあり、坂を示す三角印がある。坂下は、鮫ヶ橋谷町である。

左の写真は上右の写真の坂上から撮ったものである。

岡崎は、この坂を旧鮫河橋谷町から入って、東に上る急坂、としているが、疑問である。現在は、そんなに急な坂ではない。この間、工事でもあったのであろうか、不明である。

横関によれば、鉄砲の練習のために、坂の崖下を削って、射的場としたのは当時としてはなかなか頭のよい利用法であったとし、下町とか繁華街を避けて、山の手の人通りの少ない絶好の場所を選んでいるとしている。

鉄砲坂というのは、都内に五カ所あるとのことで、ここ以外に、音羽、麻布、赤坂(九郎九坂)、御殿山(いまはない坂)にあった。

尾張屋版江戸切絵図には、鉄砲坂の坂下側両脇に御持組がみえるが、ここが、坂の崖下を削って射的場としたところかもしれない。横関は、ここの御持組は、御持筒組のことで、戦時には将軍の鉄砲を預かり、与力同心を率いて、旗本を守るという職務を持っていたとしている。

鉄砲坂は上右の写真の突き当たりの坂上で終わりではなく、坂上を右折すると、さらに緩やかな上り坂になっている。

右の写真は、坂上を右折した所から坂上を撮ったものである。坂上にさきほどの坂途中と同じ標柱(写真右側)が立っている。

山野によれば、坂がL字形に屈曲し、標柱の立っている坂上までを鉄砲坂とされている。この坂上を左折すると、さらに上り坂が延びており、直進すると、学習院初等科の方に至るようである。

尾張屋版江戸切絵図をみると、そこを上った先の左右の道が、七マガリ、となっているが、このあたりにも御持組がある。横関は、江戸切絵図に御持組の組屋敷の中を七曲りの道がくねくねと取り巻いているのがみえると書いているが、このあたりを指しているのであろうか。

坂上の標柱を左折してから坂を直進せず、次を右折すると、ここも短いが無名の上り坂となっている。

いわゆる2・26事件の関係で、最近、青山通りの高橋是清記念公園渋谷の慰霊像を記事にしたが、この近くにも事件の重臣襲撃の現場があった。

左の写真は、上記の無名坂を坂下から撮ったものであるが、この坂上の右側に、昭和11年(1936)2月26日早朝、決起将校に襲われて亡くなった斉藤実内大臣の私邸があった。当時は四谷仲町三丁目である。

斉藤邸を襲撃したのは、第一師団歩兵第三連隊第一中隊の坂井直中尉が率いる210名であった。歩兵第三連隊は青山墓地の東隣りにあったが、坂井隊は、ここの営門を午前4時10分に出て、斉藤邸を5時5分頃に襲っている。歩兵第三連隊は、この事件に937名が参加しており、全体の半分以上を占め、事件の主力であった。

この後、坂井隊の高橋、安田両少尉に率いられた約30名はトラックに乗って杉並区上荻窪に向かい、渡辺錠太郎教育総監を襲撃した。

上左の写真の坂を上るが、そんな過去の事件を思い出させるものはなく、大きなマンションがあり、ひっそりとして静かな住宅街である。

ここを直進すると、急に視界が開けてきて、西側がよく見えてくる。

右の写真は突き当たりを左折し、JR中央線の上にかかっている朝日橋の上から西側を撮ったものである。線路の左側は首都高速道路である。

坂巡りをしても、もはや眺めがよい坂上などなく、眺望などを期待する方が間違いと思っているが、ここは、眺めがよく、開放感がありよいところである。なによりも眺望の期待など始めからないから意外感があってよかった。以前も、ここを訪れているが、そのときは反対方向からきたので、余り感じなかったのであろう。

朝日橋を渡ると、下り坂となって、鮫河橋坂の中腹にでる。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
平塚柾緒「2・26事件」(河出文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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