東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

千日坂

2010年10月04日 | 坂道

信濃町駅の南口からでて左手の方に進むと下り坂になる。ここが千日坂である。二度ほど緩やかに曲がってうねりながら下っている。

右の写真は坂上からちょっと下ったところから坂下を撮ったものである。

勾配は中程度といったところであるが、坂上側がちょっときつく、長めの坂である。上に通っているのは首都高速道路の出口線である。

坂下に立っている標柱には次の説明がある。

「この坂下の低地は、一行院千日寺に由来し千日谷と呼ばれていた。坂名はそれに因むものである。なお、かつての千日坂は明治三十九年(一九〇六)の新道造成のため消滅し、現在の千日坂は、それと前後して作られた、いわば新千日坂である。」

上記の理由からむかしの千日坂はないので、標柱には、千日坂(新千日坂)とある。

左の写真は坂の中腹あたりから坂下を撮ったものである。

高速の下を通り、写真下側(赤いコーンが並んでいる所)を左折すると、一行院である。

その前に一行院の板碑についての説明板が立っている。鎌倉時代後期から室町時代後期までの七基の板碑が舎利塔内に保存されており、都内では数少ない暦応二年(1339)の題目板碑が一基あり、一行院附近にあったものと思われ、この地域における中世の信仰や民俗の貴重な資料である、とのこと。

横関は、久能坂ともいった旧坂について、「昔は一行院前から真っすぐに西へ今の外苑絵画館のほうへ崖を上った急坂であった。久野坂、千日坂とも」としている。

尾張屋版江戸切絵図をみると、一行院とその前の久野丹波守の屋敷との間を通って西に延びる道があるが、これがいまはない旧坂と思われる。これから久野坂の別名があるのであろう。

近江屋版には、一行院の前に、千日谷、とあり、西に上る坂マーク(三角印△)がみえるが、一行院の前の屋敷が久○丹波守で、第二字が異体字でよくわからない。岡崎は、「能」と読んでおり、久能坂はこれに由来するとしている。

左の写真は坂下から撮ったものである。下側はほぼまっすぐに下っている。

浄土宗一行院について石川は、この寺院の開基利覚和尚は、永井信濃守尚政の足軽であったが、剃髪して修行を重ね、千日谷に小庵を結び念仏坐行をしていたが、やがて旧主家に帰依されて寺院を創立し、寺領を与えられ、永井家の菩提寺になったと伝えられている、としている。

坂下を進むと、上り坂になって、外苑東通りの歩道にでて、そのまま南側に歩く。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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