東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

市三坂

2010年10月21日 | 坂道

閻魔坂から階段を通って六本木通りの市三坂にでる。

右の写真は、さきほど、寄席坂下で坂上を撮ったものである。大きな通りとなっていて、まっすぐに上っている。写真の車線は上り方向(西向き)である。

坂の途中に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「いちみざか 明治二十年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとった。」

江戸切絵図にはないが、明治地図をみると、六本木通りができており、市兵衛町二丁目が南側からこの道路を越えたところまで延びている。道路の北側は三河台町である。この頭文字をとってついた坂名のようで、少々安易であるが、二つの町から不満がでないようにしたものであろうか。そうならば、日本的解決方法である。

「江戸名所図会」の氷川明神社の説明に、「赤坂今井にあり。(この所を世に三河台といふ。天和の頃松平参河守様御屋敷なりし故に名とす。)」とある。石川は、三河台町の名称は、越前宰相松平三河守忠直の下屋敷があったことによるとしている。六本木通りの反対側には、三河台公園があり、三河台の地名が残っている。

左の写真は標柱のところから坂下を撮ったものである。この標柱は坂の中腹あたり。他にあるのか不明である。

永井荷風の「断腸亭日乗」昭和3年(1928)に次の記述がある。

「十二月三十日 晴れて風静かなり、午後睡を貪りて薄暮にいたる。山形ホテル食堂に徃き夕餉をなし六本木辺を歩む、歳暮商舗の光景山の手とは思はれぬばかりなり、喫茶店カツフエーの如きもの軒を連ね怪し気なる女酔客の袖を引くさま宛然浅草千束町の夜に異らず、二十年前始めて此辺の電車の布設せられし頃には、六本木の阪上より南の方は芋洗坂より日ヶ窪の低地を見おろし、北の方は谷町の陋巷を隔てゝ麹町山王の森を望見みたりし前後の眺望、恰も峠の頂に立ちたるが如き心地したり、市中の繁栄日に日に甚しきを見るにつけ老来の嘆いよいよ禁ずべからず、そのあたりの店にて明日の食料品を購ひて家に帰る、机を炉辺に移し草稾をつくりて夜半に及ぶ、」

荷風は二十年も前のことを回想し、六本木の阪上からの眺望を語っているが、市三坂の向こうに山王日枝神社の森がみえたらしい。(芋洗坂は、これから向かう。)

峠の頂上に立っているようだとあるが、確かに六本木交差点のあたりは、この台地の頂上である。六本木通りを坂上の交差点からそのまま西側に直進すると、やがて霞坂の下りとなるが、ここもかなり長い坂である。市三坂の坂下から霞坂の坂下まで、かなりの距離があり、この台地の広さを物語っているようである。

右の写真は坂上近くから坂下を撮ったものである。上は首都高速3号渋谷線である。

荷風が六本木通りを通る電車を利用したとき、前回の記事で長垂坂を通ったかもしれないとしたが、昭和11年(1936)の冬に次のような記述があった。

「二月廿三日。朝八時目覚めて窓外を見るに雪紛々として降りしきる。昼過ぎてより北風吹き添ひていよいよ降り増されり。黒麺麭(パン)其他食料品尽きたれば五時近く家を出るに門前の小径積雪編上靴を没す。今井町なだれ阪を下るに電車既に二三台市三阪下に停留し自働車も行き悩む様子なり。姑く(しばらく)にして青バス来りたれば之に乗るに乗客一人在るのみ。今夜は何時まで運転するやと女車掌に問ふに今のところ何時に切上るとも命令なし。先日大吹雪の夜には十時に渋谷車庫を出でたるが最終なりしと云ふ。尾張町四辻にて下車するに風烈しく傘も帽子も吹き取られんばかりなり。三越にて栗きんとん豚佃煮を購ひ三丁目角の不二あいすに入りて夕餉を食す。再び乗合自動車にて今井町なだれ阪の道を取りて家に帰る。円タク路傍に停り行悩む処尠からず。霊南阪其他の阪地は車登らざる由。・・・」

昭和11年(1936)は、2・26事件があったが、雪が異常に多い冬で、1月末から2月にかけて何度か東京の交通が雪で途絶したらしく、その様子が書かれている。なだれ坂を下って電車通りにでたが、市三坂下に電車が二三台雪のため動けず停まっていた。帰りも乗合自動車でなだれ坂の道を通ったとある。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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