三光坂下の商店街通りを西へ歩き、朝日中学を通りすぎてから、次の信号で左折する。右側が北里大学の門である。
左折してちょっと進んだところに蜀江坂の標柱が立っている。右の写真はその標柱を入れて坂上側を撮ったものである。
このあたりはまだほぼ平坦な道である。休日であるが、なにか行事があったらしく、子ども連れの人がたくさん通る。
坂下の標柱は古くちょっと読みづらかったので、坂上の真新しい標柱の説明を以下に記す。
「しょっこうざか 坂上の丘を、紅葉が美しい中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼んだことからつけられた。むかしの字名は卒古台であった。」
石川も、この坂上の台地はもと蜀江台と称したので蜀江坂の名がついたが、むかしの中国の紅葉の名所蜀江(また蜀江錦とよばれる錦織の産地)になぞらえた名であろうとしている。
同名の坂が新宿の成子坂の近くにあるが、ここは蜀江山とよばれたということが坂名の由来であった(以前の記事参照)。
標柱を過ぎて少し進み、聖心女学院の門のあたりから上り坂となる。左の写真は門をすぎたところあたりから撮ったものである。
細い坂がまっすぐに上っている。左側の聖心女学院の赤い煉瓦壁があじわい深い彩りとなっている。
「御府内備考」に「蜀光の台は雷電の社のほとりをいへり・・・」とあるという(岡崎)。
尾張屋板江戸切絵図をみると、このあたりは屋敷と寺で、この坂らしきところはなさそうである。小さく、イナリ、とあるが、ここが、その雷電の社(「江戸名所図会」で、雷電の宮)であろうか。
三光坂下の方からずっと延びる商店街の通りは、明治地図にはなく、蜀江坂に相当するような道もなさそうである。戦前の昭和地図には、商店街の通り、聖心女学院、蜀江坂があり、しかも坂名までのっている。この間にこれらができたのであろう。
右の写真は坂上を撮ったものである。坂上まで行くと、真新しい標柱が立っている。このあたりが紅葉の美しい台地(山)であったのであろう。
坂上左に曲がって道が続くので、塀に沿って歩くが、静かで落ち着いたところである。途中で引き返し、坂を下る。
(続く)
参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)