東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

芋洗坂と饂飩坂の位置

2010年10月23日 | 坂道

前回、芋洗坂と饂飩坂(うどんざか)の位置が書物や絵図でかなり違うことがわかったが、横関の著書に詳しい説明がある。


横関は、麻布の芋洗坂と饂飩坂の道筋をめぐってはしばしば問題が起き、その原因は、地誌や絵図に正反二説が同数くらいに発表されているからとする。

上の図は、横関の「続 江戸の坂 東京の坂」にある地図で、道筋Aが六本木から朝日神社(朝日稲荷)を日ヶ窪のほうへ下る坂道で、道筋Bが材木町(昔の御書院番組屋敷/現在の麻布警察署裏あたり)のほうからAへ下る坂道である。

右の写真は、道筋Aの坂下を道筋Bの合流地点の少し下側から撮ったものである。

横関は、芋洗坂と饂飩坂の道筋を上の地図のA、Bのいずれにするかで地誌・絵図を次のようにわけている。

道筋Aを芋洗坂とするもの:
・「江戸砂子」享保17年(1732)
・「続江戸砂子」享保20年(1735)
・「新編江戸志」安永のころ(1773)
・「御府内備考」文政12年(1829)
・「北日下窪町書上」文政12年(1829)

道筋Bを芋洗坂とするもの:
・「万世江戸町鑑」宝暦3年(1753)
・「賤のをだ巻」享和2年(1802)
・「江戸大名町案内」文政6年(1823)
・「江戸図解集覧」
・「江戸切絵図」(近吾堂嘉永二年版)嘉永二年(1849)*近江屋板のこと

道筋Aを饂飩坂とするもの:
・「江戸町づくし」文政4年(1821)
・「江戸大名町案内」文政6年(1823)
・「東京地理沿革志」文政6年(1823)

道筋Bを饂飩坂とするもの:
・「御府内備考」文政12年(1829)
・「教善寺門前書上」文政12年(1829)

左の写真は道筋Aの坂下から坂上を撮ったものである。この坂途中の左側に朝日神社(朝日稲荷)がある。

上記のように、諸説入り乱れているが、横関は、幕府の編纂した「御府内備考」と、その引用書が正しいように思われるとし、芋洗坂は道筋A、饂飩坂は道筋Bが正しいとしている。

横関がそう決定したのは坂名の意味からであるという。すなわち、芋洗坂の由来はこの坂の近くに芋問屋があったからなどとされているが、それならば、芋坂でよいはずで、芋洗としたのは別の理由がある。芋洗地名が日本中にあり、芋洗という地名の「いも」の意味は、単なる「芋」のことではなく、痘痕、いもがさ、疱瘡(ほうそう)のことである。種痘のない時代の疱瘡予防には神仏に頼る以外なかったため、日本中いたるところに疱瘡神があったという。疱瘡神のお水を患者に飲ませるとか、その水に酒を加えて体を洗うとかした。これが芋洗である。

麻布の芋洗坂にも疱瘡に関係する神様がなければならないとし、「いもあらい」とは疱瘡を洗うことで、この坂のほとりに小川や池がなければならないが、朝日稲荷の前に昔から吉野川という小川が流れていたものの朝日稲荷が疱瘡神であったという記録はない。

寛永3年(1750)ころの江戸絵図に、この芋洗坂に沿って西側に「弁才天」とあり、朝日稲荷の近くの法典寺の弁才天と推測し、弁天様には池はつきものであり、この弁天様の池が疱瘡のお水となったと思いたいとしている。日本各地に弁才天またはその他の疱瘡神にその例が多く、このお水で体を洗って疱瘡を治そうとした。この弁天様が疱瘡の神でなければならず、でなければ、ここに芋洗坂があるはずがないとしている。

以上のように、横関は、弁才天の存在を確かめ、芋洗坂という疱瘡地名が残っていることから、この坂付近に疱瘡神があったと確信し、この坂名を生み出した根拠が道筋Aにあったことが上記の道筋の決定の理由であるとする。

(ただ、道筋Bに疱瘡神と思われる神社や弁才天はなかったのだろうか。これについて横関は触れていない。)

横関は、さらに、江戸の昔、駿河台の淡路坂上、神田川べりにあった大田姫稲荷は、もと一口稲荷といって、江戸時代の有名な疱瘡神であり、その前の坂を一口坂(いもあらいざか)といったという。種痘により疱瘡神が必要なくなると、疱瘡神が他の神様に転向してしまい、瘡守稲荷は、笠守、笠森に、芋洗稲荷が太田姫稲荷、さらに太田姫神社になった。九段上の一口坂(いもあらいざか)などは、ひとくち坂と呼ぶようになったという。

芋洗坂という坂名と疱瘡神との関係について、この横関の著書ではじめて知ったが、疱瘡という病気がなくなった現在、そこまで考えることは少なくなっている。他のことでも過去を想像するときの注意すべき点のように思えてくる。

横関の考察は、坂名がついた理由を探求し、そこで得た結論を具体的な坂にあてはめて考えることが多く、その展開方法がおもしろい。今回の芋洗坂もそうであるが、三年坂もそうであった。

ところで、芋洗坂、饂飩坂の位置に関し、一つ疑問に思うのは、前回の記事の現在標柱の立っている饂飩坂がどう位置づけられるのかである。標柱のある饂飩坂は上の地図で教善寺の右の短い道であるが、尾張屋板江戸切絵図では、この道が芋洗坂の坂上である。ちょうど前回の記事の台形状の区画が上の地図と江戸切絵図のいずれにもあることからわかる。

「御府内備考」を再掲すると、「芋洗坂は、日ヶ窪より六本木へのぼる坂なり、坂下に稲荷社あり、」とあり、江戸切絵図で坂上は六本木町となっているので、現在の饂飩坂は芋洗坂の坂上でその一部ということになる。

芋洗坂の標柱は、横関説とは反対で、前回の記事のように、もともと道筋Bを正しい芋洗坂としているから、饂飩坂を道筋Aと現在饂飩坂の標柱の立っている短い坂道とが続く道筋であるとしても、標柱には矛盾が生じない。饂飩坂の標柱が「昔の芋洗坂とまちがうことがある」としているのも同じ解釈からと思われる。

一方で、芋洗坂の標柱は、「六本木交差点への道が明治以後にできて、こちらをいう人が多くなった」とし、現在標柱のある芋洗坂の坂上(六本木交差点)から下る道筋(道筋Aを含む)を芋洗坂とした。

以上の理由から同じ道筋に二つの坂名が重複する(別名ではなく)ことになるが、これを避けるために、上記の饂飩坂の範囲から芋洗坂とした道筋Aを差し引くと、残るのは、現在饂飩坂の標柱の立っている短い坂となる。

明治以後にできた道を含めて道筋Aを芋洗坂としながら、饂飩坂を道筋Aのままとしたため現在標柱のある短い坂道が饂飩坂となったように思える。

標柱全体の立場は、以上のように、明治以後の道を考慮に入れた折衷説と理解したがどうなのであろうか。

今回、道筋Bについては、後で知ったので、行けなかった。いつか訪れてみたい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌体系 御府内備考 第四巻」(雄山閣)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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