東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

筑土八幡神社~相生坂~瓢箪坂

2010年07月10日 | 坂道

軽子坂の坂下から早稲田通りにでて神社前の信号を渡ると、筑土八幡神社である。

永井荷風の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

昭和6年「五月廿十九日、晴、午下中洲に徃き薬を求めて直に帰宅す、晩間牛込の田原屋に飲し築土八幡の境内を過ぎ、江戸川に出て車にて帰る、月明なり、燈下福本日南の元禄快挙録を読む、」

荷風は、この日、田原屋で飲んだ後、築土八幡の境内を通って江戸川(神田川)まで月明かりの下散歩したようである。神楽坂から築土八幡まで三年坂を通ったかもしれないなどと想像するのが楽しい。

境内左手の参道から出て左折すると、御殿坂の坂上である。

右に少し曲がりながら下っているが、そう長くはない。

左の写真は坂下から撮ったものである。

坂上と坂下に標柱が立っているが、それによると、江戸時代、筑土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ(『御府内備考』)、寛永の頃(1624~1644)、三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという(『江戸名所図会』)。坂名は御殿山にちなむ(『新撰東京名所図会』)。

御殿坂を引き返し坂上を進むと、芥坂の坂上である。

右の写真のように、北側にまっすぐに下っている。

江戸時代には芥坂とよばれた坂が各所にあった。芥坂とよばれる坂は、坂のわきが崖になっていて、ごみを捨てるにもってこいの場所であったのだという(横関英一「江戸の坂 東京の坂」)。

この筑土の芥坂の写真が横関の著書に載っているが、現在の雰囲気とはかなり違う。

この本の写真の大部分は著者が昭和35年(1960)9月から昭和41年(1966)7月にかけて撮影したとあるので、約50年ほど前の記録である。横関の本には坂の写真がたくさんあるが、いずれも約50年前のもので、この間の変貌がよくわかる。この本は歴史的な考察が詳しく参考になるが、それだけでなく写真も貴重な記録である。

前回の記事のように、今回、市谷鷹匠町の芥坂にも行ったが、あそこも崖下が芥捨場であったのであろう。

坂下を左折し、進み、二本目を左折し上る坂(東側)と、次の三本目を左折し上る坂(西側)が、相生坂(あいおいさか)である。

二つの坂が平行して並んでいる。鼓坂(つづみさか)ともいう。

三本目を左折し、西側の相生坂を上る。左の写真は坂上から撮ったものである。

坂の途中に標柱が立っている。坂名の由来について、二つの坂が並んでいるから(『続江戸砂子』)、小日向の新坂と向かいあっているから(『御府内備考』)、などの説がある、と説明されている。

小日向の新坂とは、水道通りから金富小学校の左わきを上る坂で、別名今井坂と思われるが、むかしは、ここから小日向の坂が見えたのであろう。

坂上を左折し、進むと、東側の相生坂の坂上である。

右の写真のように、まっすぐに下っている。坂上に標柱が立っている。

上記の横関の著書に二つの相生坂の写真がのっているが、特に、西側(右の方)の相生坂を見ると、いまでもその雰囲気がかすかに残っている感じがする。

横関は、相生坂について次の三つに分類している。
(a)坂路が途中でY字型に分かれているもの
(b)二つの坂が平行しているもの
(c)二つの坂が離れて向き合っているもの

今回の東五軒町の相生坂は続江戸砂子説によれば、(b)型である。一方、小日向の新坂と向かい合うからという説をとれば、(c)型である。横関は、後の説には疑問を呈し、『続江戸砂子』の方が正しいようであるとしている。二つの坂が離れすぎているからであろうか。

坂上を進み、右折していくと、白銀公園に至る。中のベンチで一休み。ずっと歩き続けたのでペットボトルの水がおいしい。きょう2本目。

公園をでて、公園の脇を行くと、瓢箪坂(ひょうたんざか)の坂上である。左の写真は坂上から撮ったものである。

坂上側がちょっと急であるが、しだいに緩やかになる短い坂である。

坂の途中に標柱が立っているが、坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう、と説明されている。

今回の坂巡りはここで終わることにする。神楽坂上を通りすぎて大久保通りを大江戸線牛込神楽坂駅へ。

携帯の歩数計による総歩行距離は11.1km。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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