東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

道玄坂

2013年02月12日 | 坂道

今回は、渋谷の道玄坂から出発し、その先の目黒区の大坂から中目黒の別所坂までその間にある坂を巡りながら歩いた。主に目黒川の東北側にある坂である。

道玄坂下 道玄坂下 道玄坂下 東都青山絵図(安政四年(1857)) 午後渋谷駅下車。

地下街の4番出口から出ると、道玄坂の坂下で、ここを横断し、北側の歩道を歩く(現代地図)。渋谷の繁華街で多くの人が行き交っている。

一枚目の写真は坂下から坂上側を撮ったもので、このあたりはまだかなり緩やかである。二枚目はふり返って坂下の交差点方面を撮ったもので、ここを直進すると、山手線のガードをくぐって宮益坂の坂下で、その坂上の先からむかしの大山街道がはじまっていた。

坂下のちょっと先に坂の標柱が立っていて(三枚目の写真)、次の説明がある。

「江戸時代の道玄坂は、大山街道の一部として多くの人が往来していました。当時の道玄坂は、現在の道玄坂から世田谷街道に入り松見坂までも広く呼んだものでした。江戸中期頃より道玄坂とは専ら今の坂を指すようになったのです。」

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 東都青山絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、左端に道玄坂があり、坂下に渋谷川が流れ、ここにかかっている橋が富士見橋である。坂と橋から右(東)へ続く道に宮益町とあるが、この道が富士見坂(宮益坂)で、大山街道である。近江屋板も同様であるが、坂名も坂マークもない。

道玄坂中腹 道玄坂中腹 道玄坂中腹 江戸名所図会 坂下から中腹にかけて、一枚目の写真のように、少しずつ勾配がついてきて、その先で、左に緩やかにカーブしている。二枚目はそのちょっと上のカーブの所で撮ったもので、三枚目は、カーブの上から坂下側を撮ったものである。

宮益坂はまっすぐに上下しているのに比べ、この坂は中腹の緩やかなカーブが特徴的で、同じように商店街が続くが、かなり印象が違い、こちらの方が坂上へとずっと続く感じがしてくる。

四枚目は、『江戸名所図会』の富士見坂一本松の挿絵で、その左半分の上側である。左側にふし三坂とあり、これが富士見坂(宮益坂)で、坂をたくさんの人が行き来し、両側に家々が連なり、その坂下に富士見橋がある。右側が道玄坂で、山の上で畑を耕している人が描かれているが、坂道が見えない。現在の賑やかな坂から想像できないほどのんびりした田園風景が広がっている。富士見橋は現在の駅北口前からガード下のあたりと思われる。このあたりはすり鉢の底とよくいわれるが、この挿絵を見ると、二つの坂の坂下で川の流れる低地であった。

この坂について本文に次のように記されている。

「道玄坂 富士見坂の下、耕地を隔てゝ向うの方、西へ上る坂をいふ。(この坂を登りて三丁程行けば岐路(わかれみち)あり。直路は大山道にして、三軒茶屋より登戸の渡、また二子の渡へ通ず。右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り、北沢淡島への道なり。)世田ヶ谷へ行く道なり。(道玄、或は道元に作る。)里諺に云ふ、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり。建暦三年[1213]五月和田の一族滅亡す。その残党この所の窟中に隠れ住みて山賊を業とす。故に道玄坂といふとなり。・・・或人云ふ、道玄は沙門にして、この地に昔一宇の寺院ありて道玄寺と称したり。故に坂の名に呼び来れるともいひて、一ならず。」

『御府内備考』の澁谷之一の総説に次の説明がある。

「道玄坂 道玄坂町続き広尾町飛地にあり。江戸砂子云、道玄は大和田氏なり、和田義盛の一族なりしが、建暦三年五月叛逆の事ありて、和田の一族ほろびたり、その残党この所の岩窟にこもり、山賊をなしぬ、たとへば熊坂長範が類ひなりしと、坂の上近き処に道玄物見松といふものあり。」

御府内備考にある道玄物見松について江戸名所図会に「道玄坂を登りて七町あまり西の方、同じ街道大坂と云ふより此方、右側にありしが、明和の頃枯れたりしかば伐りたりと云ふ。(・・・)俚諺に云ふ、道玄この松樹に登り、往来の人を見下し、小賊に命じて衣服・物の具を奪ひ採らしめたりとなり。」とある。

渋谷区HPの地名の由来には次の説明がある。

「道玄坂(どうげんざか)
 江戸時代に作られた地誌類によると、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、大永4年[1524]渋谷氏滅亡後にこの坂に出没して、山賊野党の振る舞いをしたと伝えられています。
 また、『天正日記』によると、道玄庵という寺の庵主が徳川家康に由緒書を出していることから、その寺の名をとってこの名がつけられたとのことです。」

この渋谷区HPの和田義盛の残党云々は、上記の江戸名所図会や御府内備考(江戸砂子)によるものであろう。坂名は、その大和田氏道玄に由来する、この坂にあったとする道玄寺に由来するの二つの説がある。

横関は、江戸名所図会にある大和田氏道玄などの和田一族の残党がここの岩窟に隠れて山賊をしていたという説を採らず、道玄は行者で岩窟で修行をしていた修験者で、行者、行人であり、その庵室を道玄庵と呼び、それから道玄坂となったと推測している。『江戸町づくし』にある、富士見坂(宮益坂)を行人坂という坂の前とする説明から、行人坂というのは道玄坂であるとしている。この別名から上記のように推測したと思われる。

道玄坂上 道玄坂上 道玄坂上 道玄坂上 この坂はかなり長く、カーブのかなり上の方でようやくなだらかになる。一~四枚目の写真は坂上で撮ったものであるが、坂上になると、しだいに通行人が少なくなって、坂下とは雰囲気がかなり違ってくる。

この坂には遅くとも江戸時代後半までに道玄坂町ができていた。御府内備考にこの町の書上はあるものの、ここが西端のようで、ここから西側の町屋の書上はない。上記の江戸名所図会の挿絵には道玄坂に家が描かれているが、これがこの町であろう。また、尾張屋板江戸切絵図もこのあたりが西端で、ここから西は描かれていない。

永井荷風はたまにであるが、このあたりにも出没していた。

「断腸亭日乗」大正12年(1923)9月26日に「九月廿六日。・・・此日快晴日色夏の如し。午後食料品を購はむとて澀谷道玄阪を歩み、其の辺の待合に憩ひて一酌す。既望の月昼の如し。地震昼夜にわたりて四五回あり。」とある(全文→この記事)。この坂がいつごろからいまのように賑やかになったのか、ちょっとわからないが、このときすでに商店や飲み屋や待合があった。

同年11月23日に次の記述があり、夜市が出るほど賑わっていた。

「十一月廿三日。夜お栄と澁谷道玄坂の夜市を見る。電車にて偶然大伍子に逢ふ。大伍子築地の居邸に蓄へたりし書巻尽く烏有となせし由。今は玉川双子の別業に在りといふ。」

大正13年(1924)11月6日に次の記述がある。

「十一月六日。微隂。近郊の黄葉を見むとて午後玉川電車にて世田ヶ谷に下車し、道の行くがまゝに阪を下り、細流を渡り、野径を歩みて陸軍獣医学校の裏手に出でたり。生田葵山君の居遠からざるを思起し、道を問ふて遂に尋到ることを得たり。路傍に風呂屋あり。その側より小径に入り行くこと二三十歩。檜の生垣を囲らしたる二階づくりなり。門前に花壇あり。薔薇コスモスの花咲乱れ、屋後には一叢の竹林あり。蒼翠愛すべく、幽禽頻に鳴く。日暮相携へて道玄阪に至り、鳥屋に上りて飲む。帰途百軒店と称する新開町を歩む。博覧会場内の売店を見るが如し。支那雑貨を鬻[ひさ]ぐ店あり。水筆四五管を購ふ。」

荷風は、この日、玉川電車で世田谷に出かけ、このあたりを散策し、坂を下り、小川を渡り、野道を巡って、陸軍獣医学校の裏手にでた。陸軍獣医学校は、東京府荏原郡世田ヶ谷村代田にあった。現在の世田谷区代沢一丁目の富士中のあたりとのこと(「Oka Laboratory 忘備録」)。

生田葵山の住居を訪ねたが、檜の生垣で囲んだ二階建てで、門前の花壇には薔薇コスモスの花が咲乱れ、家の後ろに竹林がある。樹木のあおあおしさが好ましく、幽鳥がしきりに鳴く、というように描いているが、当時、このあたりは郊外で、のどかな田園風景が広がっていた。その後、葵山と一緒に日暮れに道玄阪に行って鳥屋で飲んだ。 その帰り、百軒店(ひゃっけんだな)という新開町を歩いたとあるが、ここは、いまも道玄坂中腹北側に百軒店商店街として残っている(道玄坂二丁目)。

その商店街のHPによれば、大正12年(1923)の関東大震災直後、復興にともなう渋谷開発計画によって作られた街で、下町の復興とともに当初の有名店は去ったが、その跡地には飲食店や映画館、カフェーなどが次々と入り、百軒店は渋谷における娯楽の中心として新たな賑わいを見せたという。「渋谷の賑わいの原型ともいえる街」となかなか上手いことを云っている。

この坂が丸谷才一の小説『笹まくら』にでてくる。主人公は友人と二人で渋谷に映画を見にゆくことにし、「新しい紺の背広を着た二人の青年は、「米を大切にしませう」とか「家ごとに神様をまつりませう」とか大きく書いた立看板が立ててある道玄坂を歩」いた。戦争中のことであるが、その立看板の文句が当時の世相をよくあらわしている。この頃もこの坂は繁華街であった。

道玄坂上から下る道 神泉駅への道 神泉駅付近街角案内地図 坂上を直進すれば、やがて国道246号線と合流し、大坂の方に至るが、坂上を右折すれば、神泉駅の方と気がついたので、そちらに向かう。 昨年、いわゆる東電OL殺人事件で有罪が確定していたネパール国籍のゴビンダ・マイナリ氏の再審が開始され、11月に無罪判決が出て確定し、ようやく冤罪が晴らされたことを思い出したからである。以前もそのあたりを訪れたことがあった。

『うねうねと道玄坂を登っていくと、頂上近くに「荒木山」という小高い丘があらわれた。いまの円山町のあたりである。この荒木山の背後は急な坂道になっていて、深い谷の底に続いていく。そこに「神泉」という泉がわいていた。』(中沢新一「アースダイバー」)

一枚目の写真はその途中で撮ったもので、緩やかにカーブしながらずっと下り坂となっている。先月中旬の大雪の後であったので雪がちょっと残っている。二枚目は、北側から神泉駅方面を撮ったもので、中沢が云う荒木山(円山町)の背後の深い谷底にできた道である。三枚目は踏切を渡ったところに立っている街角案内地図で、これにあるように階段が谷から円山町に抜ける近道である。

道玄坂地蔵尊 神泉駅踏切近くの坂 246号線への階段 神泉谷から上の荒木山(円山町)には小路が入り込んでいるが、その一角に道玄坂地蔵尊が祀られている。このあたりに上記の事件の被害者は夜な夜な出没していたという。一枚目の写真は、以前訪れたとき(2010.9)に撮ったものである。

上記の案内地図のところから左へ曲がると、かなり勾配のある上り坂になっている。二枚目はこの坂下から撮ったものである。坂上で先ほどの道を横切ると、三枚目のような階段が上っている。ここを上り、何回か曲がって小路を通り抜けると、道玄坂上と国道246号線との合流地点の近くに出る。神泉谷からここまで急な坂と階段を上ることから、かなりの高低差があることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「御府内備考 第三巻」(雄山閣)
丸谷才一「笹まくら」(新潮文庫)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 善福寺川(尾崎橋~宮下橋)2... | トップ | 大坂 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事