宮益坂の坂上を右に進むと、そこからまっすぐに下る中央分離帯のある広い通りがあるが、ここが金王坂で、青山通り(国道246号線)である。
坂上が宮益坂上と共通で、渋谷川の谷へと中程度の勾配で下っている。渋谷区渋谷二丁目14番と16番の間を南へ下る(現代地図)。
赤坂・麻布台地を東から西へと延びてきた青山通りがこの坂を下り、坂下で六本木通りと合流し、その先(西側)から玉川通り(国道246号線)となる。
かつての本道は、宮益坂を下り、渋谷川を横断し、道玄坂を上っていたが、現在、宮益坂上で別れ金王坂を下る別ルートとなって、道玄坂上で合流している。
昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂とほぼ同じ位置に道があり、昭和34年版にも同じようにあるので、その後、改修されて、青山通りが宮益坂からこの坂に移されたのであろう。
坂上東側に、渋谷駅東口町会・渋谷二丁目町会・渋谷第一町会・渋谷宮益町会による標柱(昭和54年5月建立)が立っている。それに次の説明がある。
『明治、大正、昭和と波乱万丈の過程を経て市区改正、町名変更に伴ない先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒ある金王の地名を保存し、ここに金王坂と命名する。』
坂名は、坂下の東にある金王八幡神社にちなむ(岡崎)。いかにも、むかしからの坂名に感じられるが、上記の説明には昭和54年(1979)に金王坂と命名したとあるので、これ以降、この坂名となったようである。新しい坂名のせいか、横関、石川には紹介されていない。
一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))には、宮益丁の中の道(富士見坂)の下(南)に、渋谷川方面に下る道があるが、この道が現在の坂とどう関係するのかわからない。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同じ。
坂下の歩道橋東側の上から続く一角に、尾崎豊(1965~1992)のレリーフ像からなるモニュメントがあるのに気がついた(三、四枚目の写真)。別にファンではないが、その落書きの様子からファンにとっては大切な聖地のように感じられた。
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「東京の道事典」(東京堂出版)