前回の中坂上を右折しちょっと進み、一本目を右折すると冬青木坂(もちのきざか)の坂上である。この坂上の北側(左)はフィリピン大使館で、このわきを東へとまっすぐに下っている。坂上側と坂下側は緩やかであるが、途中は中程度の勾配がある。坂下は目白通りで、その北側にホテルグランドパレスがある。
この坂は、九段坂、中坂とほぼ平行で、いずれも麹町の北台地と東側の谷とを結ぶ坂である。
大使館のわきの古びた石垣が好ましい雰囲気をつくっている。こういった石垣があると、いかにも歴史を感じさせる。九段坂、中坂、冬青木坂の順に来たが、ここがもっとも道幅が狭く、裏道といった感があるものの、こういった坂の方が坂道散策にはずっと適している。静かで、車もめったに通らない。もっともとなりの中坂も車の通行量は少なかったが。
坂をちょっと下ったところに標柱が立っている。その説明は次のとおり。
「この坂を冬青木坂(もちのきざか)といいます。『新編江戸志』には「此所を冬青木坂ということを、いにしへ古び足るもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど左にあらず、此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて、其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。」
尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)を見ると、中坂のとなりに、モチノ木坂、とあり、下に坂マークの多数の横棒が続いている。坂の南側は中坂と同じく町屋であるが、北側は武家地で、坂上から順に、青山辰之助、磯野丹波守、松平因幡守の屋敷が並んでいる。近江屋板には、△モチノ木坂、とある。
岡田屋嘉七版御江戸大絵図には、モチノキサカ、とあり、坂の中程に、イソノ、とある。
以上の絵図から、標柱が引用した『新編江戸志』にでてくる磯野氏の屋敷とは、坂中腹にあったことがわかる。
前々回の記事の『江戸名所図会』の挿絵をみると、中坂の向こうに、もちのき坂、とあり、南側(手前)は町屋だが、北側は武家屋敷のようにみえる。現在と同じように狭く、中坂と違って、人通りはほとんどないように描かれている。
天和二年(1682)成立とされる『紫の一本』に次のような説明がある。
「もちの木坂 田安の御門より北へ行きて、元鷹匠町へおりる所の坂を云ふ。むかしこの坂に大きなるもちの木ありし故なり。」
『御府内備考』の説明は次のとおり。
「冬樹坂 又黐(ただし、「木」へん)木坂と書中坂の北なり、此所に古きもちの木のありしかばかく名付るといへり。又さにはあらで、此坂の傍に古木の□木あり。その木世にたぐひなきものにて、誰もさだに知るものなし。よそめには冬樹のやうにまかへり。此木先年の火災にかゝりて、再び枝葉をあらはさずとなん。今は礒野氏の屋敷の内にありといふ。【礒野家記】」
この礒野(磯野)家記は、上記の『新編江戸志』と説明がそっくりであるが、比べると、こちらの方が先のようである。
『南向茶話』には、「もちの木坂は坂上中程、青山七右衛門屋敷裏に大木あり、これをいふ・・・」と書いているという(石川)。
黐木(もちのき)は、暖かい地方に生える常緑高木で、幹は高さ5~10mになる。葉身は倒卵状楕円形で長さ4~8cm、厚い革質で光沢がある。果実は径1cmほどの球形で、10~11月に赤く熟す。樹皮で鳥もちをつくる。冬青(とうせい)ともいったので、黐木→冬青木となったのであろう。
永井荷風の実家は、小石川金富町にあったが、明治26年(1893)11月に麹町区飯田町三丁目黐ノ木(もちのき)坂に移転した(以前の記事参照)。坂の中途にあった借家であった。神田方面を見下ろす眺望のよい家であったという。ただし、翌年10月に一番町の方に移っているので、この坂には一年弱ほどしかいなかった。荷風中学三年のころである。
横関に昭和40年代と思われるこの坂の写真がのっているが、いまも特に北側でその面影を残しているように見える。坂のコンクリートに滑り止めの横溝がたくさん見えるのが印象的である。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂書店)
菱山忠三郎「ポケット版 身近な樹木」(主婦の友社)