東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

円通寺坂~薬研坂

2010年09月07日 | 坂道

赤坂見附駅から帰宅しようと思ったが、時間があったので、暑さで少々バテ気味であったが赤坂方面の坂に向かうことにする。

赤坂の繁華街を少しうろうろし、一ツ木通りを適当に西側に折れると、まっすぐに延びる細い通りにでる。よく見ると、その先が上り坂である。

以前、赤坂界隈にきたときの記憶から円通寺坂と見当をつけて歩いていくと、左の写真のように、標柱が立っていた。標柱には次の説明がある。

「えんつうじざか 元禄八年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。」

『新撰東京名所図会』には「赤坂一木町と丹後町の間を黒鍬谷(くろくわだに)へ下る坂あり円通寺坂とよぶ」とあるとのこと。

江戸切絵図を見ると、円通寺坂があるが、この坂とほぼ平行な通りに黒鍬谷とある。この通りから上る坂に、後に行く丹後坂がある。また、いまと同じ位置に円通寺が見える。

右の写真は坂上から撮ったものである。坂上近くに円通寺がある。坂上にも標柱が立っている。

その昔、溜池の方に向かって下っていた坂であったと思われるが、その途中が『新撰東京名所図会』のように黒鍬谷であったのかちょっと疑問である。

いきなり話が縄文期にとぶが、中沢新一「アースダイバー」の地図を見ると、縄文海進期には山王日枝神社のあたりからこの坂の中腹まで海が入り込んでいたようである。円通寺坂も黒鍬谷の通りもともに同じ海域を形成しているので、その昔、その跡は同じ谷をなしていたとはいえそうであるが。

上左の写真の左側に、円通寺坂公園という小さな公園がある。ちょうどTBSの裏手に当たるところであるが、 3~4年ほど前にきたときにはなかった記憶がある。その中にあった説明板によると、赤坂一ツ木町(あかさかひとつぎちょう)は、永禄10年(1567)に、武州豊島郡貝塚領人継原を開発して人継村(ひとつぎむら)となり、天正18年(1590)の家康入府に際し、服部半蔵などで知られる、江戸城の警護等に当たった伊賀者の給地に下されて百姓町屋になったとのことである。

『江戸名所図会』の「貝塚」に「すべて麹町の辺りの総名なり。」と説明があり、このあたりを貝塚領といったらしいが、人継原とはなにを意味しているのであろうか。

坂上を右折して進むと、まもなく、薬研坂の一方の坂上にでる。左の写真はその坂上から撮ったものである。

坂はいったん下り谷底からふたたび青山通りへと上っている。

坂上近くに標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「やげんざか 中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。」

何右衛門という者は、もとは赤坂の臥煙(火消し)であったが、喧嘩で頭をなぐられてから気が変になり、この坂の辺をうろついていたとの伝えがあるとのことである。

江戸切絵図にも見える。

右の写真は青山通り側のもう一方の坂上から撮ったものである。

両写真からもわかるように、短い距離で谷底に下り上る坂で、谷底を中心にほぼ対称的な形となっており、この意味で珍しい坂である。

ここで、ふたたび「アースダイバー」の地図を見ると、溜池の方から円通寺坂の中腹まで入り込んでいた海域は、その先端がちょうど、この坂の谷底を横切ってその先まで延びていたようで、その両脇に洪積台地(坂上)があった。このように、この坂は、縄文海進期における土地の形が残る場所といってよく、土地の記憶をいまに伝えるものである。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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