東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

八幡坂(渋谷)

2016年09月22日 | 坂道

八幡坂(渋谷)上 八幡坂(渋谷)上 八幡坂(渋谷)中腹 金王八幡神社 八幡坂(渋谷)中腹




金王坂下(東側)で六本木通りを横断し、左折し、緩やかな上りの歩道をしばらく歩くと、信号のある渋谷二丁目の交差点に至るが、ここを右折すると、八幡坂の坂上である(現代地図)。

坂上からしばらくかなり緩やかに下り、金王神社前の信号のところから本格的な下りになって、ほぼまっすぐ南へ明治通りの並木橋の交差点へと下っている(現代地図)。坂下は渋谷区渋谷三丁目14番と東一丁目26番の間。

宮益坂金王坂と同じく、赤坂・麻布台地から渋谷川の谷へと下る。

八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)下 八幡坂(渋谷)下




坂中腹の西側に金王八幡神社があるが、坂名はこれにちなむのであろう。都内には、同名の坂(千駄ヶ谷西小山早稲田戸越銀座小日向)が何箇所かにあるが、坂名のいわれはどこも同じである。

昭和地図(昭和16年、昭和34年)を見ると、この坂のある通りは、北側が青山学院の西で宮益坂上の先の青山通りに接続し、南側が代官山駅まで延びていて、この通りに沿って、北から南へ八幡通一丁目~三丁目(旧町名)と細長く区割りされていた。これから、この坂を含む道は八幡通りとよばれていたと思われる。

下二枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))を見ると、金王八幡宮前(東南)の道が渋谷川の谷から上り、坂上で北西へとカーブしながら方向を変え、仙石屋敷と松平屋敷の間を延びて、宮益坂(富士見坂)上から延びる道につながっている。この渋谷川の谷から北へ上る道筋は、現在の道とまったく同じであることから(現代地図)、この坂が遅くとも江戸時代から続くことがわかる。下三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))でもまったく同じである。近江屋板も同じ。

八幡坂付近街角案内地図 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会 金王八幡社 江戸名所図会 金王八幡社




一枚目の写真は、坂下付近に立っている街角案内地図の拡大である。ここに八幡坂と記されているが、坂の標識は立っていない。

この坂は、山野、「東京23区の坂」に紹介されているが、不思議なことに、横関、石川、岡崎にはない。江戸切絵図にもその道筋がはっきりと示されているにもかかわらず、どうしてないのか疑問であるが、要するに、坂名が記された文献がなかったのであろう。たとえば、「御府内備考」の東福寺門前(金王門前)の書上には坂の文字さえもない。

金王八幡神社について江戸名所図会の本文に『渋谷八幡宮 中渋谷にあり。この所の産土神とす。祭礼は八月十五日なり。・・・』と説明がある。四、五枚目は、その挿絵であるが、参道につながる道が横方向に描かれている。これがこの坂であろう。

金王八幡宮のHPには『当八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座いたしました。・・・』と説明がある。これからすると、この坂は江戸期よりも古くから存在していた可能性がある。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「大日本地誌大系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

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