松岡(旧姓)国男は、明治20年(1887)9月、13歳のとき、生まれ故郷の播州から下総に移住した。茨城県北相馬郡布川町布川[ふかわ](現在の利根町布川(現代地図))である。利根川に米運びの白帆の舟が行き来していたころで、布川は利根川の河岸として栄えた。
この移住やその後について柳田は『故郷七十年』の「昌文小学校のことなど」「利根川のほとり」で次のように述べている。
「私は子供のころから体が弱かったので、茨城県の北相馬郡布川町に行って医者をしていた長兄の鼎[かなえ]の許に預けられることになった。・・・。兄の許で二年あまり学校へも行かずにぶらぶらして過ごしたのだが、あとで考えると、よほど体が弱かったらしい。」
長兄の鼎は、万延元年(1860)10月3日生まれ、明治19年(1886)東京帝国大学医科大学別科医学科を卒業し、翌年2月布川町の小川虎之助の世話で、海老原医院を継ぎ、済衆医院を開業していた。
(左の写真は左から鼎、国男、弟輝夫、下弟静雄、布川で)
(右の写真は布川時代の13歳の国男)
「面白い二カ年であった。淋しいことは淋しかったが、誰も特別にかまってくれず、しかも新しいものは見放題。ザクロは酸っぱいものと思っていたのに、そこで食べてみると甘いザクロがあった。そういう種類の新発見、子供に利害の深い新発見というものが非常に多かった。私は学校へ入らず、身体が弱いからというので、兄貴は一言も怒らないことに決めてあったらしく、素っ裸で棒切れをもってそこら中をとびまわっている。それだけなら普通の悪太郎なのだが、帰って来るとやたらに本を読む、じつに両刀使いであった。」
その二年間、隣の小川家に出入りし、その家の蔵書を読みふけったが、その頃に体験したことが『故郷七十年』の「ある神秘な暗示」である。以下、その全文。
「ある神秘な暗示
布川にいた二カ年間の話は、馬鹿馬鹿しいということさえかまわなければいくらでもある。何かにちょっと書いたが、こんな出来事もあった。小川家のいちばん奥の方に少し綺麗な土蔵が建てられており、その前に二十坪ばかりの平地があって、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠[ほこら]の新しいのがあった。聞いてみると、小川という家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住して来た偉いお医者さんであった。その人のお母さんになる老媼を祀ったのがこの石の祠だという話で、つまりお祖母さんを屋敷の神様として祀ってあった。
この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠が一つおさまっていた。その珠をことんとはめ込むように石が彫ってあった。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういうわけか、中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしておったそうだ。それで後に、このおばあさんを記念するのには、この珠がいちばんいいといって、孫に当る人がその祠の中に収めたのだとか。そのころとしてはずいぶん新しい考え方であった。
その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻した。
今考えてみても、あれはたしかに、異常心理だったと思う。だれもいない所で、御幣か鏡が入っているんだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で鵯[ひよどり]がピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時に鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。
両親が郷里から布川へ来るまでは、子供の癖に一際違った境遇におかれていたが、あんな風で長くいてはいけなかったかも知れない。幸いにして私はその後実際生活の苦労をしたので救われた。
それから両親、長兄夫婦と、家が複雑になったので面倒になり、私だけ先に東京に出た。明治二十四年かと思うが、二番目の兄が大学の助手兼開業医になっていたので、それを頼って上京した。そしてまた違った境遇を経たので、布川で経験した異常心理を忘れることができた。
年をとってから振り返ってみると、郷里の親に手紙を書いていなければならなかったような二カ年間が危かったような気がする。」
この体験記にある、隣家の石の祠の中をのぞいたこと、青空に星が見えたことのいずれにも思わず引きこまれてしまう。
隣家の土蔵の前の平地に二、三本の木があって、その下に新しい小さな石の祠[ほこら]があった。祠にはお祖母さんを屋敷神として祀っていたが、いたずらざかりの14歳の国男少年は、この祠に強い興味を持ち、何が入っているか暴こうとした。こういった行為は罰あたりで禁忌(タブー)とされるのが常であるが、それを十分に承知しながら、その欲求を止めきれず、ある春の日、とうとう実行してしまった。「タブーのあるところに関心が集中する」といわれるが、そのように強い関心を持った挙げ句の果てのような行為である。
祠にあったのは、一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石[ろうせき]の珠であった。珠は、石に彫られたへこみにはめ込まれるようにしておさめられていた。「その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって」しまった。この興奮した妙な気持は、御幣か鏡が入っていると思っていたのにきれいな珠だったという意外性のためだけでなく、タブーを犯したという罪悪感があったので、いっそう高まった。このときの国男少年は、きれいな珠に非常に強く感動し、ぼんやりした気分になって、入眠幻覚に入りかけたような状態であったといえそうである(柳田国男の体験的神隠し論(2))。11歳の頃、故郷で近くの小山に茸狩に母などと一緒に行ったときの帰り、道を間違えて、先ほどまでいた池の岸に戻ってしまったときの茫っとしたような気になったときと似ている(『山の人生』「九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと。」)。
続いて国男少年は、しゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げると、星が見えた。「今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。」
青空に星を見たという珍しい体験をしたが、少し天文の知識があり、今ごろ見えるのは自分の知っている星でないから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻したとあって、ちょっと冷静である。
そんなとき、突然高い空でヒヨドリがピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時にヒヨドリが鳴かなかったら、あのまま気が変になっていたんじゃないかと思うほどに感動したのだが、それは、祠の中にきれいな珠を発見したためで、青空に星を見たこととは関係がないようである。
柳田は、このときの入眠幻覚の入りかけを異常心理とよんでいるが、それは、まさしく「夕ぐれに眠のさめし時」と同じ体験であった((柳田国男の体験的神隠し論(2)))。
神隠しのことを記述した『山の人生』の「一〇 小児の言によって幽界を知らんとせしこと」の冒頭に次の一文がある。
「運強くして神隠しから戻ってきた児童は、しばらくは気抜けの体[てい]で、たいていはまずぐっすりと寝てしまう。それから起きて食い物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ覚えないと答える者が多い。それをまた意味ありげに解釈して、たわいもない切れ切れの語から、神秘世界の消息をえようとするのが、久しい間のわが民族の慣習であった。しかも物々しい評判のみが永く伝わって、本人はと見ると平凡以下のつまらぬ男となって活[い]きているのが多く、天狗のカゲマなどといって人がこれを馬鹿にした。」
運良く神隠しから戻ってきた児童は、しばらく気抜けした状態で、多くはなにを訊いても返事が鈍く記憶がないと答え、それから平凡以下のつまらぬ男となってしまい、天狗の陰間などと蔑称されたとあるが、これが児童が神隠しに遭った後のありさま、すなわち、入眠幻覚を強く経験した後の状態である。
柳田は、布川時代を回想しその二年間が危なかったとしているが、学校にも行かず遊びほうけていたことばかりでなく、そのような異常心理(入眠幻覚)のときに起こることを恐れたゆえの記述であったと思われる。これは、『山の人生』「九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと。」の「私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまってそういう心配は完全になくなった。」における心配云々とちょうど符合する。
(続く)
参考文献
柳田国男「故郷七十年」青空文庫
柳田国男「山の人生」青空文庫
新潮日本文学アルバム「柳田国男」新潮社
「柳田國男全集 別巻1 年譜」2019年3月25日発行 筑摩書房
「柳田国男伝」三一書房
吉本隆明「改訂新版 共同幻想論」(角川ソフィア文庫)