東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

柳田国男の体験的神隠し論(1)

2024年10月10日 | 読書

松岡国男13歳民俗学者の柳田国男(1875~1962)は、子供が突如として行方不明になるいわゆる神隠しについて「山の人生」(大正14~15年(1925~1926))で次の題の各章に書いている。

(写真は13歳の国男)

  七 町にも不思議なる迷子ありしこと
       八 今も少年の往々にして神に隠さるること
       九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと
      一〇 小児の言によって幽界を知らんとせしこと
柳田国男生家

(写真は柳田国男生家)

柳田によれば、「七 町にも不思議なる迷子ありしこと」で書いているように、子供がいなくなると、東京では、町内の衆が提灯を携えて、夜どおし大声でよんで歩き、関東では一般に、まい子のまい子の何松やいと繰り返し、上方辺では「かやせ、もどせ」と、ややゆるりとした悲しい声で唱[となえ]て歩いた、という。こうなった理由は、神隠しをした天狗などからの子供の奪還であったからである。その日、その夜に見つかれば一件落着であるが、二日も三日も捜しても見つからないのが神隠しで、前代の人たちは長い経験から子供がいなくなれば最初からこれを神隠しと推定して、上述のような処置を執った。二十年ほど前まで(明治末期頃まで)のことらしい。

続いて具体例を書いているが、次の「八 今も少年の往々にして神に隠さるること」に各地の神隠し例をあげていて、大変興味深い。しかしなりよりも心引かれるのは、そういった神隠しに柳田が興味を持ったのはじつは自らの幼いときの体験からであったことである。「九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと」を読むとよくわかる。

この章(九)で柳田は幼いときの三つの体験例を記述している。

 (1)人為的なこと
 (2)道に迷う(迷子)
 (3)子供の意志(衝動的行動)

それぞれについて、以下、全文を掲載する。

(1)について7歳頃の体験:
『私の村は県道に沿うた町並で、山も近くにあるのはほんの丘陵であったが、西に川筋が通って奥在所は深く、やはりグヒンサンの話の多い地方であった。私は耳が早くて怖い噂をたくさんに記憶している児童であった。七つの歳であったが、筋向の家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足さきにその家の戸口を出ると、不意に頬冠[ほおかむり]をした屈強な男が、横合から出てきて私を引抱[ひっかか]え、とっとっと走る。怖しさの行止まりで、声を立てるだけの力もなかった。それが私の門までくると、くぐり戸の脇わきに私をおろして、すぐに見えなくなったのである。もちろん近所の青年の悪戯で、のちにはおおよそ心当りもついたが、その男は私の母が怒るのを恐れてか、断じて知らぬとどこまでも主張して、結局その事件は不可思議に終った。宅ではとにかく大問題であった。多分私の眼の色がこの刺戟のために、すっかり変っていたからであろうと想像する。』

柳田国男生家近くの旅館ます屋 (写真は柳田国男生家近くの旅館ます屋)

これは、村の若者のいたずらで、すぐに終わったようであるが、そうでない場合、深刻な問題(神隠し)に発展しそうである。母は心当たりがあったらしいが、そういった風習みたいなものが当地にあったのであろうか。その青年のそのときのその場でのたんなる思いつきなどではなかったのかもしれない。

(2)について11歳頃の体験:
『それからまた三四年の後、母と弟二人と茸狩[きのこがり]に行ったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向うの谷に暗い淋しい池があって、しばらくその岸へ下おりて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元[もと]登った方の山の口へきたと思ったら、どんな風にあるいたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻ってきてしまったのである。その時も茫[ぼう]としたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持になった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。』

これは、道に迷った例で、子供だけのときは迷子(迷児)である。道を間違えて先ほどまでいた淋しい池の岸へ戻ってしまったとき、国男少年は、激しい既視感のようなきわめて不思議な感覚(自分はどうしてここにいるのだろうかのような)に陥ったのであろうか、茫(ぼう)っとなったが、母にどなられて正気に返った。

82歳のときに口述した「故郷七十年」の『神隠し』にも同じ話が載っていて、このときのことを次のように述べている。『私がよほど変な顔をしていたと見えて、母が突然私の背中をがあんと叩きつけた。叩くなんてことは今までついぞなかったのに、その時は私の変な顔つきを見た拍子に背中をはっと叩いたのであろう。』

柳田国男両親 (写真は柳田国男 父松岡操・母たけ)

母は、大声でどなりながら背中をどんと叩き、いわゆる気合いを入れたようであるが、これは、国男の過去の(1)のときのような眼の色がすっかり変わった顔つきを思い出し危険と感じたのか、とっさに出た行為であった。偉大な母である。それゆえ、もし一人であったら神隠しの一例を残したかもしれないと回想している。

(3)について4歳頃の体験:
『これも自分の遭遇ではあるが、あまり小さい時の事だから他人の話のような感じがする。四歳の春に弟が生まれて、自然に母の愛情注意も元ほどでなく、その上にいわゆる虫気があって機嫌[きげん]の悪い子供であったらしい。その年の秋のかかりではなかったかと思う。小さな絵本をもらって寝ながら看[み]ていたが、頻[しきり]に母に向かって神戸には叔母さんがあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往[い]ってみたらもういなかった。ただし心配をしたのは三時間か四時間で、いまだ鉦[かね]太鼓[たいこ]の騒ぎには及ばぬうちに、幸いに近所の農夫が連れて戻ってくれた。県道を南に向いて一人で行くのを見て、どこの児だろうかといった人も二三人はあったそうだが、正式に迷子として発見せられたのは、家から二十何町離れた松林の道傍であった。折よくこの辺の新開畠にきて働いていた者の中に、隣の親爺がいたために、すぐに私だということが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたそうだが、自分の今幽[かすか]に記憶しているのは、抱かれて戻ってくる途[みち]の一つ二つの光景だけで、その他はことごとく後日に母や隣人から聴いた話である。前の横須賀から東京駅まできた女の児の話を聴いても、自分はおおよそ事情を想像し得る。よもやこんな子が一人でいることはあるまいと思って、駅夫も乗客もかえってこれを怪まなかったのだろうが、外部の者にも諒解しえず、自身ものちには記憶せぬ衝動があって、こんな幼い者に意外な事をさせたので、調べて見たら必ず一時性の脳の疾患であり、また体質か遺伝かに、これを誘発する原因が潜んでいたことと思う。』

これは、幼子であってもその意志で出歩いた例である。4歳の子に意志があるといえるかについて確信があるわけではないが、柳田はこれを衝動とよんでいるので、衝動的行動といってもよさそうである。4歳のとき弟が生まれたので、母は以前のようにかまってくれず、それが不満だったのか、あるとき、しきりに母に神戸には叔母さんがあるかと尋ね、じつは実在しないが他の事に気を取られて母はいい加減な返事をしたらしいが、国男が昼寝をしたので、他のことをしていたら、家からいなくなってしまった。県道を南に一人で行き、家から二十何町離れた松林の道傍に至ったがその辺の新開畠で隣の親爺が働いていたので、すぐに隣の子とわかり、神隠しとされる前に抱かれて家にもどされた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたとのことで、思い込みであるが、それを信じて自らの意志でそこに向かったのである。

同じく「故郷七十年」の『神隠し』で次のように述べている。(ここでは秋ではなく、弟が生れる前の春となっている。)

『私より三つ年下の弟が生れる春先の少し前であったから、私の四つの年のことであった。産前の母はいくらかヒステリックになっていたのかもしれないが、私にちっともかまってくれなかった。
 ある時、私が昼寝からさめて、母に向って「神戸に叔母さんがあるか」と何度も何度も聞いたらしい。母が面倒臭いので「ああ、あるよ」と答えたところ、昼寝していた私が急に起き上って外に出て行った。神戸に叔母などいなかったのに、何と思ったか、私はそのままとぼとぼ歩き出して、小一里もある遠方へ行ってしまった。
 そこは西光寺野という、開墾場になっていて、隣家の非常に有能で勤勉な夫婦者が、ちょうどそこを開墾していた。よく働く親爺が、「おお、これは隣の子だ」というので、私をすぐに抱き上げて帰ってくれた。帰る途中で逢った人々が、「これはどこの子だい。さっき何だか一人で、てくてく歩いて行ったが……。一人でどこへ行くのか知らんと思ったまま声をかけなかったのだ」と、みなでいったことを今も覚えている。
 それなども、もうちょっと先に行くか、または隣の親爺さんが畠をしていなければ、もうそれっきりになっていたに違いない。』

実在しない神戸の叔母は、母の愛情不足の反映といってよさそうである。母の代わりに神戸の叔母さんを本当に存在するように幻想した。そこに行けば、もとの母のように叔母さんがかわいがってくれる(はず)。そう思って行ったこともない神戸へ向かった。昼寝からさめて神戸の叔母さんの質問をし、母の答えを聞いて急に起き上って外に出て行ったが(「故郷七十年」)、一種の入眠幻覚に陥っている。

柳田は、「もうちょっと先に行くか、または隣の親爺さんが畠をしていなければ、もうそれっきりになっていたに違いない」とし、この事件についても、神隠しの例となったはずと考えている。

以上の柳田国男の体験例は、隠された(かもしれない)本人側からのものであるので、リアルであり、そのとき本人や周囲の人になにが起きていたのかを明らかにしているといってよく、神隠しを内側から明白にしたきわめて貴重なものである。柳田は、他人の神隠しの事例を考察するとき、たとえば「前の横須賀から東京駅まできた女の児の話を聴いても、自分はおおよそ事情を想像し得る」と記述しているように、自らの体験を基にしきわめて確信的である。横須賀云々とは、「六つとかになる女の児が、神奈川県の横須賀から汽車に乗ってきて、東京駅の附近をうろついており、警察の手に保護せられた」こと(「八 今も少年の往々にして神に隠さるること」より)。

これらの体験例からの類推であるが、現在でもときたま起きる子供の行方不明は、(1)~(3)のいずれかに該当する例が多いのではないだろうか。あと考えられるのは、事故で、とくに(2)(3)に事故的事象が重なる例もあるのかもしれない。

ここまで書いてきて、(3)に該当するような自分の子供の頃の事件を思い出したので書いてみる。故郷の山で囲まれた盆地での出来事である。60年も前のことで記憶がかなり曖昧で詳細は違っているかもしれないが、たぶん小学5,6年の頃のことであろう。5~7月の晴れた日の午後、自転車に乗って一人で自宅から近くの山の方に向かった。そんなに急ではないが自転車では大変な坂道を上り、ちょっと緩やかなになって、小さな沼がある辺りが峠の頂上で、そこを過ぎると下り坂になり、砂利道でかなりのスピードが出たことをかすかに憶えている。その下り方向にある集落まで行くことは、ふだんはなく、なぜ、そんなところに向かったのか、いまでは、まったくわからない。もう1つ不思議なのは、その道から自宅に帰るには、途中の四差路を左折しなければならないが、何の迷いもなく左折している。なぜそういえるかというと、その後の出来事のためである。左折後の道は比較的真っ直ぐだが砂利道の一車線(当時の田舎道はみなこの程度)で、左側を走行していたが、向こうから小型トラックがやって来て、そのすれ違いざま、道路脇に寄りすぎたためか、左脇へ自転車ごと転落したのである。この転落の瞬間を長く忘れることができなかった。1~2mほど落下したが、さいわい、そこは田んぼの畦道で、草も生えていて柔らかで、なんの怪我もなかった。おまけに、田んぼで作業中の遠くで見ていた農家のおばさんと青年が来てくれて、自転車を持ち上げてくれた。田んぼに落ちなかったので、田植え後の苗に被害がなく、服もほとんど汚れなかった。ふたたび自転車に乗ってその道を同じ方向に向かい無事に家に帰り着いた。服の汚れがなかったので家族には黙っていた。

以上が幼き頃の事件の顛末であるが、その四差路を左折せずに直進し山奥に向かい道に迷ったり、また、転落のときの落下高さや落下先の状態によってはかなりの事故となったりして大変なことになったかもしれず、柳田と同じように、神隠しの事例をつくったかもしれないといえる。柳田の体験例(2)(3)に事故的事象が重なる場合もあると考えた所以である。

ところで、なぜいつもは行かないような所に出かけたのか、不明であるが、吉本隆明の少年時代についての記述が参考になる。吉本少年は、月島・新佃島に住み(以前の記事)、遊び場所は近所の路地裏であったが、ときたま、ちょっと離れた原っぱだった四号埋立地(晴海)まで遠征した。親や大人たちの目の倫理がわずらわしくなると遠出で医(いや)した。そこまで行けば、おとなのしつけの外の世界で、少年は、そんなとき、孤独と不安と心細さの中に解き放たれる、そして耐えている、と述懐している(「少年」)。

私の場合いま思えば、その遠出はなおぼんやりとしているが非日常的空間への移動欲求に突き動かされたというほかないような気がする。そのときたしかに不安と心細さの中にあって、たぶん耐えていたのだろう。そして、ここまで書いてきて、わかったことがある。近くの川沿い散歩をしていると、たまに自転車に乗った小学高学年らしき少年から道を尋ねられることがある。迷ったふうでもないがそんな少年を見ると、なにか懐かしい感じがするのだが、そのわけがである。
(続く)

参考文献
柳田国男「山の人生」青空文庫
柳田国男「故郷七十年」青空文庫
「新編柳田國男集 第1巻」筑摩書房
新潮日本文学アルバム「柳田国男」新潮社
吉本隆明「少年」徳間書店

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彼岸花(2024)

2024年10月07日 | 写真

彼岸花(ヒガンバナ)/別名:曼珠沙華(マンジュシャゲ)は、例年、9月中旬~下旬に咲き、文字通り、お彼岸の頃であるが、今年は、猛暑の影響か、開花が遅れたようで、10月に入ってようやく満開となった。以下、いつもの川沿いで撮った写真。

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