柳田国男(1875~1962)は、『山の人生』(大正14~15年(1925~1926))の「九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと」で子供時代の三つの体験談を述べたが(柳田国男の体験的神隠し論(1))、その冒頭に次のような結論めいたことを書いている。
(写真は、明治26年(1893)10月 19歳の国男と長兄鼎の長男冬樹)
「神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまってそういう心配は完全になくなった。」
柳田は、神隠しに遭う子供には特別な気質があると推察し、そして、自身もそのような隠されやすい方の子供であった、としている。この短い素直な表白から、わずかながらであるが文学的なにおいがしてくる。柳田が『山の人生』を記述したときの五十という年齢を考えると、若いときの文学的傾向について思いを巡らざるを得ない。神隠しに遭う子供にある特別な気質とはいったい何かの問題の前に、柳田の初期の文学(新体詩)を見る必要がありそうである。ちょうど吉本隆明が『共同幻想論』の「憑人論」でそこから柳田について論じ、神隠しの三つの体験に触れている。
(写真は、明治30年(1897)大学入学の頃の国男 22歳)
松岡(旧姓)国男は、岡谷公二によれば、二十代の前半、すぐれた新体詩人であったという。明治28年(1895)20歳のとき『文学界』に初めて新体詩を発表し、以後『文学界』や『帝国文学』を主な舞台にし明治32年(1899)まで新体詩人として活躍した。とくに、明治29年、30年の作品は藤村のものと拮抗し、時には藤村以上とさえ見なされた。田山花袋、島崎藤村、国木田独歩などと交際し、とくに藤村と独歩から大きな影響を受けた。しかし、明治31年(1898)に入ると、次第に試作への意欲が減じた。この詩心の衰えの背景として、ある種の恋愛事件の終末、大学での農政学の専念などが考えられるという。明治33年(1900)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、農商務省農務局農政課に勤務した。この大学を出て役人となった時期と試作を廃した時期とはほとんど一致している。
この間のことを、吉本は、「この年少詩人は、日夏耿之介の評言をかりれば、国木田独歩に推称される詩才をもちながら「その後の精進の迹を見せずに自分の学問的本道へ進んでしまった。」人物であった。」とし、「しかし柳田の学的な体系は、はたしてこういう詩からの転進だったのかどうかわからない。」と疑問を呈し、ここから柳田論が始まる。
松岡国男の明治30年(1897)4月刊の詩集「野辺のゆきゝ」の冒頭に次の詩がのっている。明治28年(1895)発表の処女詩である。
夕ぐれに眠のさめし時
うたて此世はをぐらきを
何しにわれはさめつらむ、
いざ今いち度かへらばや、
うつくしかりし夢の世に、
いやなことにこの世界はうす暗いのに何をしようと私は眼がさめてしまったのだろうか、さあもう一度かえりたいものだ、うつくしい夢の世界へ、といったような意味であろうが、これが、国男の夕ぐれに眠がさめた時の心性である。午後に寝入ってしまったのか、夕ぐれに眼がさめたが、うすぼんやりとした気分で、うす暗いまわりを見渡してもまだ夢うつつで、もう一度眠って、いままでいた夢の中にもどりたい、といった心の状態であろうか。
吉本は、この詩を引用し、柳田の心性に迫っている。
「「夕ぐれに眠のさめし時」とは柳田国男の心性を象徴するかのようにおもえる。かれの心性は民俗学にはいっても晨に〈眠〉がさめて真昼の日なかで活動するというようなものではなかった。夕ぐれに〈眠〉からさめたときの薄暮のなかを、くりかえし徴候をもとめてさ迷い歩くのに似ていた。〈眠〉からさめたときはあたりがもう薄暗かったので、ふたたび〈眠〉に入りたいという少年の願望のようなものが、かれの民俗学への没入の仕方をよく象徴している。
柳田の民俗学は「いざ今いち度かへらばや、うつくしかりし夢の世に、」という情念の流れのままに探索をひろげていったようである。夕べの〈眠〉から身を起して、薄暗い民譚に論理的な解析をくわえるために立ちどまることはなかった。その学的な体系は、ちょうど夕ぐれの薄暗がりに覚醒とも睡眠ともつかぬ入眠幻覚がたどる流れににていた。そしてじじつ、柳田が最初に『遠野物語』によって強く執着したのは、村民のあいだを流れる薄暮の感性がつくりだした共同幻想であった。いまこの共同幻想の位相はなにかをかんがえるまえに、柳田が少年時のじぶんの資質にくわえた回想的な挿話に立ちどまってみたい。」
吉本は、柳田の民俗学は「いざ今いち度かへらばや、うつくしかりし夢の世に、」という情念の流れのままに探索をひろげていったようである、その学的な体系は、ちょうど夕ぐれの薄暗がりに覚醒とも睡眠ともつかぬ入眠幻覚がたどる流れににている、としている。入眠幻覚とは、宇田亮一によれば、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が遮断された状態で生じる幻覚とされている。
柳田民俗学を源流へとたどると、「夕ぐれに眠のさめし時」の詩に至り、この青年時の詩からさらに年少時へとたどる。年少時から青年、さらにその後まで一貫して内在するものがある。吉本はそれを明らかにしていく。
「柳田は『山の人生』のなかで少年時の二、三の体験をあげて空想性の強い資質の世界を描いている。そのなかの一つ、
それから又三四年の後、母と弟二人と茸狩に行ったことがある。遠くから常に見て居る小山であったが、山の向ふの谷に暗い淋しい池があって、暫く其岸へ下おりて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元登った方の山の口へ来たと思ったら、どんな風にあるいたものか、又々同じ淋しい池の岸へ戻って来てしまったのである。其時も茫としたような気がしたが、えらい声で母親がどなるので忽ち普通の心持になった。此時の私がもし一人であったら、恐らくは亦一つの神隠しの例を残したことゝ思って居る。(「九 神隠しに遭い易き気質あるかと思ふ事」より)
ここで「それから又三四年の後」というのは、筋向かいの家にもらい湯に行った帰りに屈強な男に引抱えられてさらわれそうな恐怖の体験をしてから三、四年の後ということである。これは三つほどあげてある柳田の少年時の入眠幻覚の体験のひとつだが、柳田がもっていたこの資質の世界はかれの学にとって重要なものであった。このつよい少年時の入眠幻覚の体験者が『遠野物語』の語り手であるおなじ資質の佐々木鏡石と共鳴したとき、日本民俗学の発祥の拠典である『遠野物語』ができあがったといえるからである。
この挿話にあらわれたもうろう状態の行動はけっして〈異常〉でもなければ〈病的〉でもない。空想の世界に遊ぶことができる資質や、また少年期のある時期にたれもが体験できるものである。また、そういう資質や時期でなくても、日常の生活的な繰返しの世界とちがった異常な事件や疲労や衝撃に見舞われたとき、たれでもが体験できる心の現象である。
たぶんこの心の現象は〈既視〉現象と同質にちがいない。かれは山道をかえりながら周囲の光景が、すでに一度視たことがあるものだという感覚にうながされて、山を越えてかえり道をたどったつもりで、またもとの池の岸へもどってしまったのである。この挿話につづいて柳田は、弟が生れて母親の愛情がじぶんだけに集まらなくなったのが不満な時期に、絵本をみながら寝ているうち、神戸に叔母さんがいるという考想にとりつかれて、昼の眠りから覚めるともうろう状態で、実在しない神戸の叔母のところへ行くつもりで家をとび出してしまったという挿話をかきとめている。このばあいも、いわば考想上の〈既視〉体験ともいうべきもので、神戸の叔母がすでに存在していたかのような実感覚をもったため、母親の代りをもとめて家をとびだしたのである。
柳田は、子供のあいだには神隠しにあいやすい気質があるとおもっていると述べている。もし覚醒時や半眠時の入眠幻覚に〈気質〉という概念が入りこめるとすれば、入眠幻覚がどの方向へむかうか、という構造的な志向の差異という意味によってである。ここで柳田国男の入眠幻覚を性格づける構造的な志向がたしかめられるとすれば、もらい湯のかえりにさらわれそうになったとか、山へ茸狩にでかけて淋しい池のほとりで休んだのちに、家に帰ろうとして歩いていったら茫っとしてもとの淋しい池にかえっていたとか、また、絵本をあてがわれて寝ながら読んでいるうちに、神戸に叔母さんがいるという考想にとりつかれ、いつの間にか実在しない神戸の叔母のところへゆくつもりで家をとびだしていたという挿話の共通な性格によってである。そして、こういう挿話から共通の構造的な志向をとりだすとすれば、柳田の入眠幻覚がいつも母体的なところ、始原的な心性に還るということである。そこにみられる恐怖もいわば母親から離れる恐怖と寂しさというものに媒介されている。〈気質〉という概念をみとめる精神病理学の立場からすれば、柳田国男の入眠幻覚の性格はナルコレプシーのような類てんかん的心性として位置づけられる。」
柳田の体験をもうろう状態の行動とし、その行動は、異常でも病的でもなく、空想の世界に遊ぶことができる資質であったりまた少年期のある時期にたれもが体験できるもので、日常の生活的な繰返しの世界とちがった異常な事件や疲労や衝撃に見舞われたとき、たれでもが体験できる心の現象であると普遍化している。この吉本の解釈のように、柳田の子供時代の行動を非日常的で異常な事件や疲労や衝撃のとき誰でも体験できる心の現象によるとすると、その行動は特別なものではないといえる。柳田が後年、自身を隠されやすい方の子供であったというのは、子供の頃の体験がまだ生々しく残っている記憶を背景にした思い込み程度のものといってよさそうである。一番目の恐怖体験にある「私は耳が早くて怖い噂をたくさんに記憶している児童であった。」という記憶も背景になっている。一般に神隠しにあいやすい子供など存在しないのである。
それでは、神隠しにあいやすい「気質」はどうなのであろうか。「柳田は、子供のあいだには神隠しにあいやすい気質があるとおもっていると述べている。」と書いた吉本は、気質という用語をそのまま使うことに抵抗があったのか、気質についてかなり論じている。
「もし覚醒時や半眠時の入眠幻覚に〈気質〉という概念が入り込めるとすれば、入眠幻覚がどの方向へむかうか、という構造的な志向の差異という意味によってである。」とし、柳田の入眠幻覚を性格づける構造的な志向を、三つの体験の共通な性格からたしかめている。もらい湯のかえりにさらわれそうになったとか、山へ茸狩にでかけて淋しい池のほとりで休んだのちに、家に帰ろうとして歩いていったら茫っとしてもとの淋しい池にかえっていたとか、また、絵本をあてがわれて寝ながら読んでいるうちに、神戸に叔母さんがいるという考想にとりつかれ、いつの間にか実在しない神戸の叔母のところへゆくつもりで家をとびだしていたという挿話の共通な性格から共通の構造的な志向をとりだすと、柳田の入眠幻覚がいつも母体的なところ、始原的な心性に還る、そこにみられる恐怖もいわば母親から離れる恐怖と寂しさというものに媒介されている、としている。つまり、入眠幻覚を性格づける構造的な志向から、柳田の入眠幻覚が母体的なところ(始原的な心性)に向かい、その体験における恐怖は母親から離れる恐怖と寂しさからやってくる。これが柳田の入眠幻覚の性格を特徴づけるとすると、柳田の神隠しにあいやすい〈気質〉は、母体的なところ(始原的な心性)に向かう入眠幻覚の性格に限定されるといえそうである。(入眠幻覚の性格と「神隠し」にあいやすいか否かとの関係は別問題である。)
『共同幻想論』の「憑人論」の前半を参考にして柳田の神隠し体験からの結論を検討したが(ささやかであるが)、柳田の結論自体は、子供の頃の体験を思い出しながら思わずこぼれ落ちた言葉のようで、体験談そのものに比べればさほど重要なものではない。吉本は、柳田の少年時に入眠幻覚を体験した資質の世界はかれの学にとって重要なもので、このつよい少年時の入眠幻覚の体験者が『遠野物語』の語り手であるおなじ資質の佐々木鏡石と共鳴したとき、日本民俗学の発祥の拠典である『遠野物語』ができあがったといえるとし、柳田の少年時の入眠幻覚の体験に重きをおいて論じている。
吉本が論じた入眠幻覚から別にわかったことがある。『山の人生』の「一 山に埋もれたる人生ある事」にある二つの挿話のうち次の有名な始めの挿話に関してである。
「今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞[まさかり]で斫[き]り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰[もら]ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻[しきり]に何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧[おの]を磨[と]いでいた。阿爺[おとう]、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向[あおむ]けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
この親爺[おやじ]がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細[しさい]あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持[ながもち]の底で蝕[むし]ばみ朽ちつつあるであろう。」
この挿話について吉本は別の著書で次のようなことを記述している(「少年」)。
「親は子どもを飢えさせまいと必死になり、子どもは自分たちの死を、無条件に父親の労苦ととり代えることにためらっていない。」「父親の情愛、そのやっていること、考えていることは完全に子どもに理解され、共感されて育ってきたから、自分の生命ととり代えていいとおもっている。」「常々偉大な愛を注いでいる父親でなければ、子供にそこまで理解されることはできない。」
柳田は、その犯罪の記録書類を読んだことを思い出し、吉本と同じ点でその父と子の関係に感動したからこそ「偉大なる人間苦の記録」と記したのである。この挿話は悲劇的だが偉大な父性が主題といってよいが、そこには柳田の少年時の体験、「夕ぐれに眠のさめし時」と同じ背景が垣間見えるのである。
「最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。・・・。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。」の部分は、リアルで臨場感にあふれ、まるで実際に目撃したかの如くである。父親が昼寝をし、眼がさめたのが夕日のさす夕方で、季節は晩秋であった。それは、まさしく柳田が少年時に覚醒とも睡眠ともつかぬ入眠幻覚を体験したときと同じ背景といってよい。「くらくらとして、前後の考えもなく」が入眠幻覚の様子をあらわしている。「夕ぐれに眠のさめし時」の作者である柳田だからこそ、その父親の内部になにが起きたかを即座に理解し、その情景をはっきりと心に浮かべることができたのである。それゆえ、柳田の誇張や思い込みもあるかもしれないが、たんなる記録を超えた臨場感あふれる描写ができた。偉大な書き手である。
参考文献
「新編 柳田國男集 第1巻」筑摩書房
柳田国男「山の人生」青空文庫
柳田国男「故郷七十年」青空文庫
吉本隆明「改訂新版 共同幻想論」(角川ソフィア文庫)
吉本隆明「少年」徳間書店
宇田亮一「新装版 吉本隆明『共同幻想論』の読み方」アルファベータブックス
新潮日本文学アルバム「柳田国男」新潮社
三浦佑之 HP「柳田国男/年譜と仕事~明治44年まで」
彼は農商務省に籍を置いた時を境に、その幽冥界のことばを拾う事を止めた。「日本人とは何か」という核心部の研究も止めた。一重に平凡な対象に研究を限定したのである。それは理解できない事ではない。彼はとにかく政府機関での席を守りたかった。それは兄弟親類も居る家族の中では、ごく真っ当な選択であろう。それでも農商務省を退職し内閣高等書記官も止めた後に、本来の民俗学の研究を再び始めた。それは分る。生活を資するもの無くして、想いのままに研究など出来るものでは無い。彼の選択はごく真っ当だった。私は昔読んだ「海上の道」を再び、いま読んでゐる。