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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

吉本隆明「昼間の星」(『少年』)

2024年12月29日 | 吉本隆明

吉本隆明は、少年時代のことを綴った『少年』の第一章 生まれ育った世界「昼間の星」に昼間に星を見たことを記している。前回記事の「柳田国男「幻覚の実験」(白昼に星を見た)」で引用した『幻覚の実験』の柳田国男と同じ体験である。

以下、「昼間の星」の後半である。

「近くでの遊びがつづき遠出がしたくなると、今の晴海、四号埋立地に出かけた。大正の末から昭和の初めにかけて、江戸時代摂津国・佃村から集団移住した漁師たちの町、元佃島につぎ足されるように、新佃島、その次は月島が一号から三号地まで埋め足された。そこまでが東京の住居地の町筋になっていた。地名は、三号埋立地は月島三丁目、掘割を隔てて二号埋立地は月島二丁目、一号埋立地は月島一丁目だった。
 遠出の遊びはまだほとんど原っぱだった四号埋立地に遠征する。そこでは、たいていの遊びは間に合い、そして大規模になった。隠れんぼをしても半日は見つからない。そして鬼が降参する。
 四号地まで遠出すれば親たちの眼がとどかない、町中とちがった別天地だった。雑草と葦[よし]の原っぱ。ひばり、よしきり、雀、ハト、バッタ、イナゴ、コオロギ、ゲンゴロウ、水スマシ、トンボ、トンボのやご。これが生きもののお相手だった。
 三号埋立地の突端の右手に佇[た]つと、大川(隅田川)の河口を隔てて浜離宮や聖路加病院の十字架がみえる。三号地には海水浴場があって、そのすぐ手前まで民家が立ち並んでいた。四号地は葦茫々の風景がつづいていた。
 遠出をするときは、まだ海底の砂が積み重なっている箇所も残った四号埋立地へ行って、珍しい貝殻を採ったり、原っぱでコオロギやバッタやトンボを捕ったり、水溜まりに棲むゲンゴロウを捕ったりすることもあった。
 四号埋立地の草っ原には、とくべつな印象がのこっている。その葦の原っぱは広々として、葦のかげに隠れると半日かかってもだれも捕まらないようなかくれんぼができる。葦の根っこに伏せれば、なかなか見つからないので、つい居眠りをしてしまうこともある。
 草いきれと土の肌の匂いがする。
 ある日の昼間、その葦の原っぱで、鬼がこないので仰向けになって寝転んでいた。よしきりが葦原を飛んでわたり、ひばりが空に上がって鳴いていた。葦の間から青空を見ていると、昼間であるのに、その空に星が見えた。大人になってから、ほんとうに昼間に星が見えたのか、と疑問を抱いたが、へんなところで、一人で、真っ昼間、星が見える空を眺めていたという印象は強く残っている。
 後年、柳田國男の『故郷七十年』(朝日新聞社)を読んでいると、つぎのような一節を見出した。

「その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに憶えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻した」

 これを読んでわたしは、昼間の星を見たのはけっして夢か幻のたぐいではなかったことを信じた。
 少年にとって遊びが生活のすべてであり、ときに仕事だ。家の近隣や街筋での遊びは親たちの子育ての倫理の支配下にある、といっていい。親たちの眼がないときには、町中の大人たちの眼の倫理があった。それがわずらわしくなったときは、遠出で医[いや]した。
 それは子どもたちだけの秘密の遊び場だ。ここまでくれば大人のしつけの外にある世界になる。
 少年は、そんなとき、孤独と不安と心細さのなかに解き放たれる。そして耐えている。」

京橋南築地鉄砲洲絵図(1861) 江戸名所図会_佃島 昭和16年地図_佃島 昭和16年地図_月島 昭和16年地図_月島_1





江戸末期の佃島にちょっと触れると、左一枚目は尾張屋清七板の嘉永・慶応 江戸切絵図の京橋南築地鉄砲洲絵図(1861)の一部で、右上に舩松町の対岸に佃島が見える。江戸初期、徳川家康が摂津国西成郡佃村から呼び寄せた漁民たちによりつくられた。舩松町と佃島との間にある渡し場が佃渡しの原形である。魚師町、佃小橋が見え、その端の住吉神社は、移住した漁民の郷里である摂州の住吉神社から正保三年(1646)に分祀された。北にある石川島は、1700年代末頃放火犯や盗賊を取り締まる火付盗賊改方・鬼平こと長谷川平蔵がつくった人足寄場である。

二枚目は『江戸名所図会』の佃島の挿絵で、船松町側から見た俯瞰図である。手こぎの渡船や漁師町や佃小橋が見え、左端に住吉神社がある(佃大橋~佃島(2))。江戸末期に月島はまだない。

三~五枚目は、昭和16年(1941)地図の京橋区の佃島・月島付近である。三枚目が佃島で、住吉神社(⑨で示される)のある一帯と小橋の東側の狭い領域が元々の佃島(元佃島)で、そのさらに東側が明治になってからつくられた新佃島である。北側の⑧には石川島造船所があった(空白になっているのは戦時対応の意図)。右下の相生橋が月島、新佃島と越中島、深川とを結び、橋下に中之島の公園がある。

四、五枚目は新佃島の南にその後つくられた月島付近である。月島は隅田川河口の浚渫土で埋め立てられてできた埋立地で、明治18年(1885)東京府技師倉田吉嗣が設計し、日本土木会社が請け負って築成された。東から西へと延び、西河岸通一丁目・西中通一丁目・月島通一丁目・東中通一丁目・東河岸通一丁目、西河岸通二丁目・西中通二丁目・月島通二丁目・東中通二丁目・東河岸通二丁目、・・・、西河岸通十二丁目・月島通十二丁目・東河岸通十二丁目まであり、かなり広い。

月島の南にあるのが四号埋立地(晴海)でここも広い。大正15年(1926)から埋立事業が始まり昭和6年(1931)に完成した。

五枚目の⑤は築地本願寺、⑥は浜離宮、⑦は築地市場である。

吉本一家は、大正13年(1924)年4月ころ天草島(熊本県天草郡志岐村)から月島に移住し、隆明は、同年11月25日京橋区月島東仲通り四丁目1番地(現・中央区月島四丁目3番)に生まれた。四枚目の月島中央の清澄通りの南にある月島第一公園のすぐ南付近である。その後、昭和3年(1928)頃、京橋区新佃島西町一丁目26番地(現・佃島二丁目8番6号)に移り、次に、昭和12年(1938)頃、新佃島西町二丁目24番地(現・佃島二丁目5番14号)に移った(石関善治郎「吉本隆明の東京」)。新佃島の二つの移転先は、三枚目からわかるように、運河に近く、互いに近い位置にあった。

吉本隆明は、昭和6年(1931)4月小学校入学で、この前後に遊んだ所は、新佃島の自宅や橋を渡った近くの月島周辺と思われるが、「昼間の星」にあるように遠出したくなると、月島から四枚目の東河岸通三丁目の朝潮橋(この橋名がその当時一般化していたかは不明だが)を渡って四号埋立地に行ったと想像される。四号埋立地はできたばかりで、そこは大人の眼がなく自由に遊べたが、南北の幅が地図から500mとかなりあるので、橋を渡ってからそのちょっと奥までの一帯で遊んだのであろう。

四号埋立地の広々とした葦の原っぱで、葦のかげに隠れてかくれんぼをしていると、鬼になかなか見つからない。吉本少年は、ある日の昼間、その葦の原っぱで、鬼がこないので仰向けになって寝転んでいると、よしきりが葦原を飛び、ひばりが空に上がって鳴き、葦の間から青空を見ると、昼間であるのに、その空に星が見えた。

吉本は、後年、柳田國男の『故郷七十年』の「ある神秘的な暗示」を読み、じつに澄み切った青い空に数十の星を見た旨の記載を見出し、「昼間の星を見たのはけっして夢か幻のたぐいではなかったことを信じた」。

大人になってから昼間の星を見たことに疑心を抱いたようであるが、これは『幻覚の実験』で「幻覚」としている柳田と同じである点が興味深い。そして、その疑問が柳田の記述により氷解し夢でも幻でもなかったことを信じるに至った。柳田がその体験を記したおかげである。

柳田国男の子供頃と同じ体験をしたが、少年の眼はかなりよいためと思われる。前回の記事のように想像をたくましくすると、かくれんぼで隠れて仰向けになって寝転んで、末尾のように孤独と不安と心細さのなかに耐えていると、不意に涙ぐんでしまい、涙目になって、それで一時的に普段よりももっと視えるようになったのかもしれない。

吉本少年は、小学5年生の頃から親に言われて深川区門前仲町で今氏乙治が主催していた私塾に通い始めたので、それ以前の体験であった。そのときの一緒に遊んだ友達との別れの辛さや寂しさやむなしさがその前の「悪ガキとの別れ」に綴られている。

朝潮橋(2024) 朝潮橋(2024) 晴海(2024) 晴海(2024) 晴海(2024)

 

 

 

一~五枚目は、今年(2024)10月にかつての四号埋立地である晴海に行って撮った写真で、左から一枚目が月島側からの朝潮橋、二枚目が晴海側からの朝潮橋である(現代地図)。吉本少年が渡った朝潮橋がどんな橋か不明だが、現在は、二車線道路が通り、両脇に歩道があり、風景も当然であるがかつての橋とはまったく違っているといってよいであろう。

三枚目は、広い晴海通りに出た辺りを撮ったもので、吉本少年がかくれんぼをして青空に星を見た辺りかもと想像すると、青空に突き出たような超近代的な高層ビルの世界がまったく異次元空間に存在するような錯覚に陥ってしまいそうになる。

四,五枚目は、晴海通りのさらに西側で撮ったもので、この辺りが、昭和15年(1940)予定の日本初の万国博覧会のために建設された万博事務局棟跡とのこと。しかし、戦争の激化や参加国の減少により直前に中止となり、「幻の万博」といわれたと説明板にある。超近代的な風景が続く中で、突如として戦前の世界に戻ってしまいそうである。

吉本隆明は、その後、戦争の時代を生きるが、生涯の師として敬愛した今氏乙治は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で妻子とともに焼死した(第二章 遊びの世界「今氏先生の私塾」)。

参考文献
吉本隆明「少年」徳間書店
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
竹内誠 編「東京の地名由来辞典」(東京堂出版)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)
柳田国男「幻覚の実験」青空文庫
柳田国男「故郷七十年」青空文庫

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