川沿い散歩の途中に荻窪の与謝野公園に立ち寄った(現代地図 )。ここは、公園内の説明板(下三枚目の写真)のように歌人の与謝野寛(鉄幹/1873~1935)・晶子(1878~1942)夫妻の旧居跡。川近くのおしかわ公園(現代地図)に建っている散策案内板(下二枚目)で知っていたが、訪れたのは今回がはじめてである。
善福寺川にかかる春日橋を下流から進んで左折し、まっすぐ西へしばらく歩くと環八道路の荻窪二丁目の交差点にいたる(現代地図)。この交差点を横断し、二本目を右折し、ちょっと歩くと、左手に与謝野公園の入口が見えてくる(一枚目)。荻窪駅南口から行く場合は、南口仲通りの商店街を道なりに歩き(現代地図)、忍川上橋をわたり右におしかわ公園を見て進むと環八で、左折して行くと荻窪二丁目の交差点。
住宅街の中にあり静かな雰囲気で、2月初め頃来たときスイセンが咲いていたのが印象的であった。
この公園(杉並区南荻窪4丁目3番22号)は、昭和57年(1982)に「南荻窪中央公園」として開園し、平成24年(2012)4月に再整備した際「与謝野公園」と名称変更した(杉並区HP)。このためちょっと古い地図では南荻窪中央公園となっている。
公園は、出入口から広がる長方形状であるが、奥の方右側にさらに続き(四枚目)、全体として鍵型状になっている。
晶子自選の歌集(岩波文庫)にきわめて簡潔だが要領を得た晶子略歴が次のように附記されている。
与謝野晶子は明治十一年十二月七日、鳳宗七の三女として大阪府堺市に生る。
同三十四年、鉄幹与謝野寛に嫁す。
大正元年渡欧、仏独英等に遊び同年帰朝。この時ロダンに会う。
作歌生活四十年、『乱れ髪』以降五万首を超えた。
昭和十七年五月二十九日、東京・荻窪の自邸において没す。諡、白桜院鳳翔晶耀大姉。多磨墓地に葬らる。
この地には、公園内の説明板などによると、与謝野家の三つの家があった。与謝野夫妻は、大正12年(1923)の関東大震災を機に、翌年この地(東京都豊多摩郡井荻村字下荻窪)に土地を借り、洋風の家「采花荘」(さいかそう)を建て、長男と次男を住まわせた。
昭和2年(1927)には晶子自らが図面を書いた洋館を建て同年9月麹町区富士見町(現千代田区富士見)から移転した。晴れた日には二階から秩父連山や富士山や箱根山脈を遠望できることから「遙青書屋」(ようせいじょおく)と寛が名付けた。ここが寛・晶子の終の棲家となった。左の写真は、遙青書屋の前に立つ夫婦である。遙青書屋は、公園開園前の昭和55年(1980)頃まで残っていたという。
昭和4年(1927)弟子たちから五坪ほどの一棟が贈られ、これを夫婦は「冬柏亭」(とうはくてい)と名付け、書斎や茶室として使用した。冬柏とは夫妻の好きだった椿を意味する。 冬柏亭は、京都の鞍馬寺に移築され、現存している(鞍馬寺山内案内)。
公園の奥側には、上一~三枚目のように、二人が詠んだ歌碑が敷地の縁に沿って間隔を空けてたくさん並んでいる。上四、五枚目はその一部で晶子の次の歌。
やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君 「乱れ髪」(明治34年)
木の間なる染井吉野の白ほどのはかなき命抱く春かな 「白桜集」(昭和17年)
第一首は、若き日の官能的な歌で君に問いかける。第二首は、晶子は昭和15年(1940)5月脳溢血が再発し同17年64歳で永眠したが、その病床にあって死を予感した歌であろう。白桜集は同年9月刊行の遺詠集。
寛は、昭和10年(1935)3月26日63歳で亡くなっている。
参考文献
新潮日本文学アルバム「与謝野晶子」
与謝野晶子「みだれ髪」青空文庫
与謝野晶子自選「与謝野晶子歌集」(岩波文庫)