東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

九段坂

2011年07月05日 | 坂道

今回は、九段坂から北側(飯田橋側)の坂を巡り、それから南側の三番町方面の坂にも行った。

九段坂周辺街角地図 九段坂下 九段坂下 九段坂下 午後九段下駅下車。

地下鉄の駅から地上に出ると、九段坂の坂下である。坂下の目白通りとの交差点から西へまっすぐに上って、坂上側で左にちょっと曲がっている。勾配はさほど急でなく中程度といったところである。靖国通りにある坂で、道幅が広く、交通量も多い。ゆっくり写真を撮っていられない。新宿近くの靖国通りに安保坂というのがあるが、そこと同じように、信号を待ちながら途切れるのを待つ。

お濠のある南側(左側)の歩道を上る。このあたりは、田安門から北の丸公園方面への道であるためか、歩道が広く、ゆったりとしている。北側(右側)の歩道も同じく広い。南側の歩道の下側から靖国神社の鳥居が見える。

この坂は来たことがあるが、坂巡りの一環としてではなく、千鳥ヶ淵の花見のためであった。かなり前のことであるので、ほとんどはじめての坂である。

九段坂下 九段坂下 九段坂中腹から坂上 九段坂上標柱 坂上側に千代田区教育委員会設置の標柱が立っている。次の説明がある。

「この坂を九段坂(くだんさか)といいます。古くは飯田坂ともよびました。『新撰東京名所図会』には「九段坂は、富士見町の通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之を九段長屋といひしより此阪をば九段坂といひしなり。今は斜めに平かなる阪となれるも、もとは石を以て横に階(きざはし)を成すこと九層にして、且つ急峻なりし故に、車馬は通すことなかりし(後略)」とかかれています。坂上は、月見の名所としても名高かったようで、一月二十六日と七月二十六日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。」

尾張屋板江戸切絵図(飯田町駿河台小川町絵図)を見ると、水野監物の屋敷(北側)と小笠原加賀守(南側)との間近くから西へ田安門のところまで上る坂道に九段坂とある。多数の横棒からなる坂マークもある。坂北側は澁川孫太郎の屋敷である。坂下を東へ進むと俎板橋というのがあるが、この道の北側が町屋となっている(ただし、町名の表示がない)。

近江屋板も同様で、△九段坂とあり、坂北側が渋川助左エ門の屋敷である。北側に飯田町とあるので、尾張屋板の町屋は飯田町である。面白いことに、渋川助左エ門の北側から水野監物のわきのL字形の土地に御薬園とある。尾張屋板では植木屋となっている。

『御府内備考』の御曲輪内之四に飯田坂として次のような説明がある。

「今九段坂ともいへり。近き頃まで家居九段に作りなせしゆへなり。今はそれも名のみなり。むかし飯田喜兵衛が住し所なりと。【江戸紀聞】」

江戸名所図会 飯田町中坂九段坂 九段坂上から坂下 九段坂上歩道橋から坂下 九段坂上歩道橋から坂上側 横関は、江戸絵図に出てくる一番古い坂は九段の坂である、と書いている。慶長七年(1602)の江戸古図には、「登り坂四ッ谷道」と記してあるところの「登り坂」というのが、のちの九段坂の道筋であるという。

また、昔の主要な道路の坂は、みな段々になっており、段々は土留めなのであるという。九段坂というのも段々の数である。のちに、その段々にしたがって屋敷長屋が九段につくられていたので、九段坂と解釈されたこともあったが、初めは、単に坂の段々の数から呼ばれた坂名であったことは間違いなく、『江戸名所図会』の挿絵を見るとそれがよく理解できるとしている。左は、その挿絵(飯田町中坂九段坂)の左半分である。手前が九段坂であるが、下の長い部分を零段とすると、一番上の三角に見える部分が九段目である。

この九段坂や五段坂というのは、要するに、段々の段数をいったものであるというのが横関の意見である。上記の新撰東京名所図会や御府内備考の説明とはちょっと違うが、横関説の方が単純明快で説得力がある。

坂の印として、尾張屋板は多数の短い横棒を用いているが、横棒は段々をあらわしていたのであろう。坂名が入っている場合は、名前の上の方が坂上である。近江屋板は△であらわすが、△の頂点が向いている方が坂上である。

『大江戸地図帳』(人文社)という江戸絵図がある。天保十四年(1843)岡田屋嘉七刊行の『御江戸大絵図』の復刻版を文庫本の大きさにしたものであるが、これには、多数の横棒の次に、九タン、とある。次に行く隣の中坂は横棒の次に、ナカサカとある。

九段坂上から坂下 九段中腹から坂上 九段坂中腹から坂下 九段坂下 池波正太郎が「江戸切絵図散歩」(新潮文庫)に、子供のころ九段坂上のさきで濠端の風景を写生したときの次のような思い出を記している。昭和9年か10年のころという。絵を描いていると、後ろで、白い服を着て、眼鏡をかけ、パナマ帽子をかぶった老人がステッキをついて絵に見入っていた。恥ずかしいから向こうに行ってよ、などと云っているうちに、絵をくれないかと云われたので、スケッチブックからはがして手わたした。礼をいい、財布から5円札(当時としては大金)を渡そうとしたが、断って靖国神社の方に歩いていくと、老紳士はあとをつけて来る。何でついてくるのと尋ねると、老紳士の両眼が赤く腫れあがったようになって泪がこぼれかかっていた。びっくりして九段坂を一気に駆け下りた。それから50年余年間、その老紳士が記憶の底からときどきあらわれ、思いだしておもいにふけることがある。

現代地図を見ると、田安門前の西のさきの内堀通りが靖国通りに接続する交差点が九段坂上となっているが、江戸時代には、いずれの絵図をみても、飯田町の方から西へ上り田安門の所までが九段坂となっているようである。現在も田安門前にある歩道橋から先(西側)はほぼ平坦であるので、この歩道橋で反対側に渡り坂を下る。

この坂の標柱は、上記のもの以外に二つあることが「東京23区の坂道」に紹介されている。その一つは、坂下北側の歩道わきで、飯田橋通り商栄会・九段下さくら会が設置したもので、上の2、3枚目の写真のように、字がほとんど見なくなっている。もう一つは今回確認できなかったが、三枚目の写真にかすかに写っているようである(編集しているときに気がついた)。これらの説明文は同サイトに詳しい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)

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