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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

柳田国男「幻覚の実験」(白昼に星を見た)

2024年12月27日 | 柳田国男

柳田国男は、『幻覚の実験』(初出:「旅と伝説 第九年第四号」三元社、1936(昭和11)年4月1日)という題で前回の記事の『故郷七十年』「ある神秘的な暗示」と同じ体験を書いている。ここでいう「実験」は、化学実験のような意味ではなく、実際の経験、実体験の意味である。

以下、ちょっと長いがその全文。

「これは今から四十八年前の実験で、うそは言わぬつもりだが、余り古い話だから自分でも少し心もとない。今は単にこの種類のできごとでも、なるべく話されたままに記録しておけば、役に立つという一例として書いてみるのである。人が物を信じ得る範囲は、今よりもかつてはずっと広かったということは、こういう事実を積み重ねて、始めて客観的に明らかになって来るかと思う。
 日は忘れたが、ある春の日の午前十一時前後、下総北相馬郡布川という町の、高台の東南麓にあった兄の家の庭で、当時十四歳であった自分は、一人で土いじりをしていた。岡に登って行こうとする急な細路のすぐ下が、この家の庭園の一部になっていて、土蔵の前の二十坪ばかりの平地のまん中に、何か二三本の木があって、その下に小さな石の祠が南を向いて立っていた。この家の持主の先々代の、非常に長命をした老母の霊を祀っているように聞いていた。当時なかなかいたずらであった自分は、その前に叱る人のおらぬ時を測って、そっとその祠の石の戸を開いて見たことがある。中には幣[へい]も鏡もなくて、単に中央を彫[ほり]窪[くぼ]めて、径[けい]五寸ばかりの石の球が篏[は]め込んであった。不思議でたまらなかったが、悪いことをしたと思うから誰にも理由を尋ねてみることができない。ただ人々がそのおばあさんの噂をしている際に、いつも最も深い注意を払っていただけであったが、そのうちに少しずつ判って来た事は、どういうわけがあったかその年寄は、始終蝋石のまん丸な球を持っていた。床に就いてからもこの大きな重いものを、撫でさすり抱[かか]え温めていたということである。それに何等かの因縁話が添わって、死んでからこの丸石を祠にまつり込めることになったものと想像することはできたが、それ以上を聴く機会はついに来なかった。
 今から考えてみると、ただこれだけの事でも、暗々裡に少年の心に、強い感動を与えていたものらしい。はっきりとはせぬが次の事件は、それから半月か三週間のうちに起こったかと思われるからである。その日は私は丸い石の球のことは、少しも考えてはいなかった。ただ退屈をまぎらすために、ちょうどその祠の前のあたりの土を、小さな手鍬のようなもので、少しずつ掘りかえしていたのであった。ところがものの二三寸も掘ったかと思う所から、不意にきらきらと光るものが出て来た。よく見るとそれは皆寛永通宝の、裏に文の字を刻したやや大ぶりの孔[あな]あき銭であった。出たのはせいぜい七八個で、その頃はまだ盛んに通用していた際だから、珍しいことも何もないのだが、土中から出たということ以外に、それが耳白[みみしろ]のわざわざ磨[みが]いたかと思うほどの美しい銭ばかりであったために、私は何ともいい現わせないような妙な気持になった。
 これも付加条件であったかと思うのは、私は当時やたらに雑書を読み、土中から金銀や古銭の、ざくざくと出たという江戸時代の事実を知っていて、そのたびに心を動かした記憶がたしかにある。それから今一つは、土工や建築に伴なう儀式に、銭が用いられる風習のあることを少しも知らなかった。この銭はあるいは土蔵の普請[ふしん]の時に埋めたものが、石の祠を立てる際に土を動かして上の方へ出たか、又は祠そのものの祭のためにも、何かそういう秘法が行なわれたかも知れぬと、年をとってからなら考える所だが、その時は全然そういう想像は浮かばなかった。そうして暫らくはただ茫然とした気持になったのである。幻覚はちょうどこの事件の直後に起こった。どうしてそうしたかは今でも判らないが、私はこの時しゃがんだままで、首をねじ向けて青空のまん中より少し東へ下ったあたりを見た。今でもあざやかに覚えているが、実に澄みきった青い空であって、日輪のありどころよりは十五度も離れたところに、点々に数十の昼の星を見たのである。その星の有り形なども、こうであったということは私にはできるが、それがのちのちの空想の影響を受けていないとは断言しえない。ただ間違いのないことは白昼に星を見たことで、(その際に鵯[ひよどり]が高い所を啼いて通ったことも覚えている)それを余りに神秘に思った結果、かえって数日の間何人にもその実験を語ろうとしなかった。そうして自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた。後日その事をぽつぽつと、家にいた医者の書生たちに話してみると、彼らは皆大笑いをして承認してくれない。いったいどんな星が見えると思うのかと言って、初歩の天文学の本などを出して来て見せるので、こちらも次第にあやふやになり、又笑われても致し方がないような気にもなったが、それでも最初の印象があまりに鮮明であったためか、東京の学校に入ってからも、何度かこの見聞を語ろうとして、君は詩人だよなどと、友だちにひやかされたことがあった。
 話はこれきりだが今でも私はおりおり考える。もし私ぐらいしか天体の知識をもたぬ人ばかりが、あの時私の兄の家にいたなら結果はどうであったろうか。少年の真剣は顔つきからでもすぐにわかる。不思議は世の中にないとはいえぬと、考えただけでもこれをまに受けて、かつて茨城県の一隅に日中の星が見えたということが、語り伝えられぬとも限らぬのである。その上に多くの奇瑞[きずい]には、もう少し共通の誘因があった。黙って私が石の祠の戸を開き、又は土中の光る物を拾い上げて、独りで感動したような場合ばかりではなかったのである。信州では千国の源長寺が廃寺[はいじ]になった際に、村に日頃から馬鹿者扱いにされていた一人の少年が、八丁のはばという崖の端を遠く眺めて、「あれ羅漢[らかん]さまが揃って泣いている」といった。それを村の衆は一人も見ることができなかったにもかかわらず、さてはお寺から外へ預けられる諸仏像が、ここへ出て悲歎したまうかと解して、深い感動を受けて今に語り伝えている。あるいは又松尾の部落の山畑に、壻[むこ]と二人で畑打[はたうち]をしていた一老翁は、不意に前方のヒシ(崖)の上に、見事なお曼陀羅[まんだら]の懸かったのを見て、「やれ有難や松ガ尾の薬師」と叫んだ。その一言で壻は何物をも見なかったのだけれども、たちまちこの崖の端に今ある薬師堂が建立せられることになった。この二つの実例の前の方は、あらかじめ人心の動揺があって、不思議の信ぜられる素地を作っていたともみられるが、後者に至っては中心人物の私なき実験談、それも至って端的に又簡単なものが、ついに一般の確認を受けたのである。その根柢[こんてい]をなしたる社会的条件は、甚だしく、幽玄なものであったと言わなければならない。
 奥羽の山間部落には路傍の山神石塔が多く、それがいずれもかつてその地点において不思議を見た者の記念で、たいていは眼の光った、せいの高い、赫色をした裸の男が、山から降りて来るのに行き逢ったという類のできごとだったということは、遠野物語の中にも書き留めておいたが、関東に無数にある馬頭観音の碑なども、もとは因縁のこれと最も近いものがあったらしいのである。駄馬に災いするダイバという悪霊などは、その形が熊ん蜂を少し大きくしたほどのもので、羽色が極めて鮮麗であった。この物が馬の耳に飛び込むと、馬は立ちどころに跳ねあがってすぐ斃[たお]れる。あるいは又一寸ほどの美女が、その蜂のようなものの背に跨[また]がって空を飛んで来るのを見たという馬子もある。不慮の驚きに動顛[どうてん]したとは言っても、突嗟[とっさ]にそのような空想を描くようなかれらでない。すなわち馬の急病のさし起こった瞬間の雰囲気から、こんな幻覚を起こすような習性を、既に無意識に養われていたのかも知れぬのである。
 わが邦の古記録に最も数多く載せられていて、しかも今日まだ少しも解説せられていない一つの事実、即ち七つ八つの小児に神が依[よ]って、誰でも心服しなければならぬような根拠あるいろいろの神秘を語ったということは、この私の実験のようなものを、数百も千も存録して行くうちには、まだもう少しその真相に近づいて行くことができるかと思う。「旅と伝説」が百号になったということが、ただ徒然草のむく犬のようなものでないのならば、今度は改めて注意をこの方面に少しずつ向けて行くようにしたらよかろうと思う。いわゆる説明のつかぬ不思議というものを、町に住んでいて集めようというのはやや無理かも知らぬが、それでも新聞や人の話、又は今までの見聞記中にもまだ少しずつは拾って行かれる。実は私もだいぶたまっているつもりだったが、紙に向かってみると今はちょっとよい例が思い出せない。そのうちにおりおり気づいたものを掲げて、同志諸君の話を引き出す糸口に供したいと思っている。」

この『幻覚の実験』には次の体験が記されている。

 (1)庭にあった祠の石の戸を開いて見たこと
 (2)その半月か三週間後その祠の前の土を掘り古銭が七八個出てきたこと
 (3)そのとき白昼に星を見たこと

古銭の話は前回の「ある神秘的な暗示」(『故郷七十年』)にはない。祠の前の辺りの土を掘り返したところ、不意にきらきらと光るものが出てきた。それは、寛永通宝の、裏に文の字を刻したやや大ぶりの孔あき銭七八個で、それがみな耳白の磨いたような美しい銭であったために何ともいい現わせないような妙な気持になったとある。

そのとき、国男少年は、しばらくただ茫然としたが、しゃがんだままで、首をねじ向けて青空のまん中より少し東へ下ったあたりを見ると、澄みきった青い空で、日輪のありどころよりは十五度も離れたところに、点々に数十の昼の星を見た。

ヒヨドリ(2023) この青空に星を見たことについて、柳田は、幻覚という一方、ただ間違いのないことは白昼に星を見たことであるとしている。そして、そのとき、ヒヨドリが高い所を啼いて通ったことも覚えていると括弧書きで書いている(ただし、それで人心地がついたとは記していない)。

国男少年は、青空に星を見た体験をかなり神秘に思ったため、かえって数日の間何人にもその実体験を語ろうとしなかったが、後日その事を家にいた医者の書生たちに話すと、彼らは皆大笑いをして承認してくれなかった。東京の学校に入ってからも、何度かこの見聞を語っても、君は詩人だよなどと、友だちにひやかされた。 その当時は、誰にも認められなかったが、48年後に『幻覚の実験』を執筆するとき、四十八年前の実(体)験といっているので、あれは幻覚だったとしても、白昼に星を見たことは間違いなく(うそでなく)、それゆえ、タイトルを「幻覚の実体験」とした。

柳田は、「今は単にこの種類のできごとでも、なるべく話されたままに記録しておけば、役に立つという一例として書いてみるのである。人が物を信じ得る範囲は、今よりもかつてはずっと広かったということは、こういう事実を積み重ねて、始めて客観的に明らかになって来るかと思う。」とし、事実の記録の重要性を述べているが、柳田の民俗学の原則の片鱗が垣間見えるような見解である。その具体例として、青空に星を見た体験の後に次のようなことを記述している。

・信州では千国の源長寺が廃寺になった際に、村に日頃から馬鹿者扱いにされていた一人の少年が、八丁のはばという崖の端を遠く眺めて、「あれ羅漢さまが揃って泣いている」といった。それを村の衆は一人も見ることができなかったが、お寺から外へ預けられる諸仏像が、ここへ出て悲歎したまうかと解して、深い感動を受けて今に語り伝えている。

・松尾の部落の山畑に、壻と二人で畑打をしていた一老翁は、不意に前方の崖の上に、見事なお曼陀羅の懸かったのを見て、「やれ有難や松ガ尾の薬師」と叫んだ。その一言で壻は何物をも見なかったが、たちまちこの崖の端に今ある薬師堂が建立された。

「この二つの実例の前の方は、あらかじめ人心の動揺があって、不思議の信ぜられる素地を作っていたともみられるが、後者に至っては中心人物の私なき実験談、それも至って端的に又簡単なものが、ついに一般の確認を受けたのである。その根柢をなしたる社会的条件は、甚だしく、幽玄なものであったと言わなければならない。」と解釈しているが、吉本隆明『共同幻想論』によって考えると、最初の例は、源長寺が廃寺になってしまったという負い目(人心の動揺)が村民に共同幻想として存在し、その村民の共同幻想と一人の少年の言うことが合致したものといえそうである。次の例は、村民にはもともと薬師如来信仰があって、その共同幻想が一老翁の一言と合致し、それが契機となって薬師堂建立に至ったのである。その根柢をなしたる社会的条件とは、幽玄というよりもリアルに、強固な信仰による共同幻想が支配的であったことと解釈できる。

柳田は、「わが邦の古記録に最も数多く載せられていて、しかも今日まだ少しも解説せられていない一つの事実、即ち七つ八つの小児に神が依って、誰でも心服しなければならぬような根拠あるいろいろの神秘を語ったということは、この私の実験のようなものを、数百も千も存録して行くうちには、まだもう少しその真相に近づいて行くことができるかと思う。」という上記の見解と同じ結論を記している。

青空の月 (左の写真は、2024年12月午後に撮ったもの)

ところで、青空に星が見えるかについてそのような経験がないので調べたら、次のような解説があった(県立ぐんま天文台HP)。

「昼間でも、空には夜と同じく星があります。それらの星をふだん見ることができないのは、星の明るさよりも空の明るさの方が明るいからです。しかし、1等星のような明るい星に限ると、望遠鏡を使えば昼間でも観察することができます。こうした星は空の明るさよりも明るく輝いているため、望遠鏡で星の近くを拡大して見ると、青空の中の輝く点として見えるのです。
 極端に明るい星の場合、望遠鏡を使わず直接目で観察できることがあります。青空に浮かぶ月を見たことがある人は多いかもしれません。金星も昼間から見られることがありますが、青空の中から手がかりなしに金星を探すのはかなり難しいです。」

星空観察ネットの広場には、昼間に撮影された五つの恒星や金星、土星の望遠鏡写真が載っている。

青空に星が見えることは、天文観測では常識となっていることがわかる。幼い柳田は実に澄みきった青空に星を肉眼で見たが、特に恒星の場合は、望遠鏡でないと見えないようである。金星だったのかもしれないが、そうすると、「点々に数十の昼の星を見た」とあるのが不思議で、この点で幻覚としたのかもしれない。以下はたんなる推測であるが、子供の視力はかなりよく、そのとき、国男少年は、祠の前の土を掘り返すときらきらと光る美しい古銭が出てきたため何ともいい現わせないような妙な気持になったが、その感動のあまり涙目になって涙のレンズ効果(こういう言葉があるか不明だが涙によりほんの一時的によく視えることはよくある)により視力が非常によくなって青空に星が見え、(上述のことと矛盾するかもしれないが)涙目により数十の点になって見えたのかもしれない。

また、吉本隆明も同じように昼間に星を見た体験を語っている(次回の記事)

前回の「ある神秘的な暗示」(『故郷七十年』)には(2)古銭の話がなく、(1)祠の中を見たことと(3)白昼に星が見えたこととが連続していた。今回の「幻覚の実験」では(1)と(2)(3)に二~三週間ばかり間があるが、この方が事実に近いように思われる。

時系列的には、『幻覚の実験』は昭和11年(1936)4月(61歳)に発表し、『故郷七十年』は昭和32年(1957)12月14日~33年(1958)3月29日(83歳)まで計25回口述したもので(その後神戸新聞に連載)、『幻覚の実験』の方が20年ほど先である。

2019年発行「柳田國男全集 別巻1 年譜」の明治21年(1888)四月の事項は、「幻覚の実験」にほぼ従っているが、青空に数十の星が見えて異常心理となるがヒヨドリの鳴き声で現実に戻ることができる、とあることから一部が「ある神秘的な暗示」によっている。

参考文献
柳田国男「幻覚の実験」青空文庫
柳田国男「故郷七十年」青空文庫
柳田国男「山の人生」青空文庫
新潮日本文学アルバム「柳田国男」新潮社
「柳田國男全集 別巻1 年譜」2019年3月25日発行 筑摩書房
「柳田国男伝」三一書房
吉本隆明「改訂新版 共同幻想論」(角川ソフィア文庫)

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