東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

八幡坂(早稲田)

2015年12月06日 | 坂道

今回は、早稲田の八幡坂からはじめて牛込台地を下り神田川を渡り目白台の方まで散策した。

穴八幡神社周辺地図 高田八幡男坂 高田八幡男坂 穴八幡神社境内 午後東西線早稲田駅下車。

出口3bから出ると、早稲田通りであるが、西側へちょっと歩くと、馬場下町の交差点(現代地図)。このあたりから早稲田通りを西北へ上るのが八幡坂である。実際は、交差点の手前から勾配がつきはじめている。

このすぐ東にある夏目坂には何度か来ているが、この坂ははじめてである。

交差点を渡って南側へ行くと、穴八幡神社(高田八幡宮)の参道があるので、ちょっとお邪魔する。急な階段を上ると、かなり広い境内がある。この階段が高田八幡男坂(今回はうっかりして女坂によらなかった)。

八幡坂下 八幡坂下 八幡坂標識 八幡坂標識 神社から坂下までもどり、坂を上るが、左手の石垣が神社側である。西北へほぼまっすぐに緩やかに上っている。あまり面白味のない坂であるが、幹線道路のせいで、しかたがない。こんな坂は、都内にはここだけでなく、多い。

坂下に東京都による大きな石碑からなる標識が立っていて、歩道側に次の説明がある。

『八幡坂(はちまんざか)
 坂名は穴八幡にちなんで八幡坂と名づけられたものである。
 この地は、もと高田と呼ばれ、穴八幡は高田八幡とも呼ばれていた。
 昔の道は急坂で、坂の下り口、上り口には、いわゆる「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止める手助けをして、賃金をもらっていたと伝えられる。昭和三九年一二月、地下鉄早稲田駅が開業して、坂下の馬場下付近はにぎやかさを増した。
   昭和五十八年三月    東京都』 

坂名は、この説明にあるように、この神社に因む。これは他の八幡坂(たとえば小山の八幡坂)と同じである。

八幡坂下 八幡坂下 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854)) 江戸名所図会 高田八幡宮 江戸名所図会 高田八幡宮(其二) 三枚目の江戸切絵図尾張屋清七板の牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854))を見ると、穴八幡神社が描かれ、その北側に龍泉寺(竜泉院)、法輪寺があるので、これらの間にある西への道が現在の早稲田通りに相当し、この道にこの坂があったのであろう。

四、五枚目は「江戸名所図会」の高田八幡宮の挿絵である。四枚目の挿絵と上記の江戸切絵図とを見くらべると、この挿絵の石段が男坂とすると、その右にある右へ延びている道がこの坂となる。ただし、挿絵には法輪寺が描かれているが、その位置が江戸切絵図と合わない。

五枚目の挿絵(右半分)を見ると、右の急な階段が男坂、左の緩やかな階段を女坂とすると、右端中央から左上に描かれている道がこの坂の上側であろう。

八幡坂中腹 八幡坂中腹 八幡坂上 八幡坂上 「江戸名所図会」の本文に次の説明がある。

『高田八幡宮 牛込の総鎮守にして高田にあり。(世に穴八幡とよべり。)この地を戸塚と云ふ。別当は真言宗にして光松山放生会寺と号す。・・・』

このあたりを含む牛込の総鎮守で、江戸八所八幡の一つ。

そのむかし、新たに迎えた社僧の草庵をつくるため山腹を切り開くと、霊窟があり、その中の石の上に金銅の阿弥陀の霊像が一体たっていた。これを奇とし、穴八幡の名がついたが、その旧跡が今なお坂の傍にあると、本文に記されている。これが穴八幡といわれるようになった所以のようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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