東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

内記坂

2016年11月21日 | 坂道

渋谷山手線沿い 猿楽橋への階段 猿楽橋 渋谷山手線沿い




代官坂上から小路を通り抜けて八幡通りを右折し、北へ歩く。途中、信号で左折し、天狗坂を下り、右折し、そのまま道なりに右の方に歩いていくと、やがて、先ほどまでの八幡通りの猿楽橋のガード下に出る。この辺から山手線沿いに道が延びている(現代地図)。ガードをくぐり抜け、南へ歩く。

内記坂下 内記坂下 内記坂下 内記坂中腹 内記坂中腹




やがて恵比寿西一丁目の交差点(五差路)にいたるが、ここを右折し、代官町方面に向かい、すぐに左折する(現代地図)。そのまま道なりに進むと、前方にかなり緩やかだが、坂下が見えてくる。そのあたりから撮ったのが一枚目の写真で、ここが内記坂である。

渋谷区恵比寿西二丁目17番と恵比寿西一丁目30番との間を西へ上る(現代地図)。坂の標識は立っていない。

緩やかな坂下から左に大きく曲がりながら上り、しだいに勾配がついてくる。低層のビルが坂の両側に続く。

内記坂中腹 内記坂中腹 内記坂中腹 内記坂上 内記坂上




カーブしながら上ると、勾配が緩やかになって、ちょっと大きな四差路があるが、ここを越えた坂上側はかなり緩やかである。この坂は実質的にはこの交差点をちょっと越えたあたりまでである。

坂上のあたりは、ちょうど代官山駅の東側。裏山といった感じで、人通りがちょっと多いが落ちついた山の手の雰囲気がする。

この坂は江戸時代から続くことが横関の説明からわかる。横関によれば、明和九年(1772)ころの江戸地図に、下渋谷のところに松平備前守の下屋敷があるが、その屋敷の南わきの道路に、坂の印とともに「ナイキ坂」とあるという。そして、ナイキ坂というのはゲキ坂(外記坂)と同様に、官職名の呼称からできた坂の名で、この坂の側にかならずナイキ(内記)を名のる人が住んでいて、その名前が坂の名になったとする。

たしかに本郷一丁目にある外記坂(新坂)は、この坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があったことが坂名の由来である。

分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 手持ちの江戸地図のうち、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))を見ると、ナイキ坂が示されていることがわかった。左図がその部分図であるが、横関に載っている明和九年(1772)ころの江戸地図と似ている。この中央右側に斜めに流れている川が渋谷川(右側が上流)で、その上流近くに宮益坂(ミヤマス丁)が見え、その先で渋谷川にかかる橋が富士見橋、そこから上(西)に延びる道が道玄坂。ミヤマス丁の左斜め下にある八幡神社が金王八幡、その前が古くには鎌倉街道とよばれた八幡通り、その先にかかる橋が並木橋、その下流にかかる橋が庚申橋である。庚申橋近くの下シブヤ丁の道を左(西)にちょっと進み、右折した先の道に坂の印(多数の横棒)が示され、そのわきに「ナイキ坂」とある。その右(北)に松平山城の下屋敷があるが、内記とよばれる武家屋敷はない。

横関は、さらに宝暦七年(1757)の江戸大絵図、寛延三年(1750)の江戸絵図を見て、後者の江戸絵図に、「松平丹後守抱[かかえ]ヤシキ」の近くに「横山内記抱屋舗」を発見している。松平丹後守は宗教で、松平備前守治茂の兄。しかし、寛延三年(1750)の江戸絵図で横山内記の屋敷のある前の道は、金王八幡の方から延びる八幡通りになっている。宝暦七年(1757)の江戸大絵図でも松平丹後守の屋敷が八幡通りの前で、これら二つの絵図ではナイキ坂は八幡通りにあるが、これらは誤りで、三つの絵図の中でもっとも新しい明和九年(1772)ころの江戸地図が正しい位置を示しているとしている。これら三つの絵図の部分図が横関に載っている。

さらに、その後の分間江戸大絵図(文政十一年(1828))は、明和九年(1772)ころの江戸地図と同じ道筋を示しているが、この横関の結論を裏付けているといえそうである。

寛延三年(1750)の江戸絵図の横山内記は、横山内記清章といい、当時定火消の頭で、のちに西の丸御小姓組の番頭となり、采地四千五百石取りの大身の旗本であったという。

現代地図を見ると、渋谷川の庚申橋から西へ進み、山手線を横切ると、恵比寿西一丁目の交差点であるが、ここを左から二本目の道に南へ進み、次を右折すると、内記坂へいたるが、この道筋が、上記の分間江戸大絵図(文政十一年(1828))にある、庚申橋から西側に進み右折し、その先にナイキ坂とある道筋と合うように見える。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 当ブログでは、江戸地図として、尾張屋清七板江戸切絵図と御江戸大絵図(天保十四年(1843))をよく引用するが、前者は道玄坂より西側の絵図がなく、左図は上記の分間江戸大絵図(文政十一年(1828)の部分図と対応する後者の部分図である。これからわかるように、渋谷川の上側(西)には道と山以外はなにも描かれていない。この絵図(天保十四年(1843))よりも古い分間江戸大絵図(文政十一年(1828)やもっと古い明和九年(1772)ころの江戸地図の方が詳しい。なんとも不思議な感じがするが、江戸終期には、これら古い絵図に描かれている武家屋敷が消滅したということであろうか。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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