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自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

父の故郷

2015-10-11 09:32:40 | Weblog

父の故郷     2015-10-11

父の故郷は普通は自分の故郷になる人
が多い。私の父は末っ子だったので、
故郷の家を継ぐことは有り得ない立場
であった。若くして東京に出て、母と
出会い結婚して上海に渡り、私が生ま
れた。

日本が戦争に負けて、翌年日本に引き
揚げた。取り敢えず住んだのが父の故
郷、福島県伊達郡だった。今は数か町
村合併して伊達市である。ハワイアン
ズで一泊して翌日は横浜に帰る日、皆
と別れ、県南部に住むSさんのご好意で
彼の運転でハワイアンズのいわき市か
ら相馬市、霊山峠を越えて伊達市まで
送って貰った。

私を送り届けてくれたSさんは、須賀川
方面まで帰らなくてはならない。有難
いことだ。伊達市の父の実家は、今でも
父の本家筋が所有し現存するが、他人
に貸しているようだ。私は離れて見る
だけにした。その隣の隣に住むカツユキ
さんを訪ねた。70年前、上海から福島
に引き揚げ地元梁川小学校2年2組に転校
した。その時の同級生である。

上海の我が家で、私は標準語で育てら
れた。梁川の小学校では福島弁で喋る。
子供同士で喋り出したとたん、こいつ
東京の言葉で喋る生意気だとなった。
私はいじめっ子にはならないが、いじ
められっ子にはもっとならない。クラ
ス全部の男の子と喧嘩になった。田舎
の排他性である。

私は一人で、向かってくる相手全部と喧
嘩した。カツユキさん一人が味方をし
てくれた。カツユキさんは、今でも言
う。ハルカちゃんは喧嘩強かった。目
を吊り上げてキッと身構えて、来る奴
をぶん投げるんだ。そういうカツユキ
さんも喧嘩はうんと強かった。私達2人
が背中合わせに身構えると、小学生な
ら、何人相手にしても負けなかった。

梁川に着いた夜カツユキさんご夫妻に
宴会をして頂き焼き魚と馬刺しと豪華
な晩御飯をご馳走になり、父の実家の
前のカラオケスナックで歌った。スナ
ックのママが噂のハルカちゃんお会い
したかったです。と挨拶された。

翌朝カツユキさんは町内会長なのに、
会館の清掃の日を忘れていて、奥さん
に尻を叩かれ、慌てて出ていった。
私も同行した。彼は「いやー、昨夜は
ハルカちゃんと飲み過ぎてここさ来る
のすっかり忘れてたはー」と言ってる。
忘れてたは、「わすっちゃ」となる。

私達が着いたときは既に清掃はあらか
た終わり、お茶にすべえと、お茶と
お茶菓子をご馳走になり、そういう
時に活動の中心になるご婦人方が喋る
70年前に毎日聞いていた田舎の言葉を
懐かしく聞いた。

お世話になったカツユキさん夫婦と
お別れし、阿武隈急行と東北新幹線で
横浜に帰ってきた。4時間で着いてしま
う。カツユキさん、有難う。送ってく
れたSさん、有難う。

 


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