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武田騎馬隊の謎

2007-05-10 15:21:50 | Weblog
武田騎馬隊の謎             2007年5月10日

横浜市栄区のテレビセミナー・NHK大河ドラマをより一層
楽しく見るために:第3回「武田騎馬隊の謎を追う」を
昨日聞いてきました。今回の講師は山梨ふるさと文庫代表で
作家の岩崎正吾先生でした。
http://homepage2.nifty.com/manatsu_s/list/iwasaki.html

去年の大河ドラマ功名が辻では武田軍団は織田信長の鉄砲隊
に敗れ去って弱くなっていましたが、今年の、そして今放送
中の武田軍団は強くなりつつある軍団です。

以下は、岩崎先生の話の概要です。

武田の弱点は、国が小さい(だから人も少ない)、米が取れ
ない、海が無いことでした。逆に、武田の強さは、優秀な
騎馬隊が居たこと、金山が有ったことです。

ですから今TVでは、武田勢は、米が取れ、馬を育てている
所を、攻め落としています。TVドラマでは、取り立てて馬を
育てている土地であることを強調していないが、先生が調べ
たところでは、信玄の時代よりはるか以前より信濃、甲斐は
馬の産地であったとのこと。平安時代の記録で関東各地の
官牧から朝廷に献上された馬の頭数として、信濃(16牧、
80頭)、甲斐(3牧、60頭)武蔵(4牧、50頭)上野(9牧、
50頭)との記録がある。ドラマに度々出てくる地名の佐久に
は大きな官牧が有ったとのことだ。

織田信長は、敵の城を落とすと、女子供まで殺す根絶やし
策を取ることが多かったが、信玄は、殺さず味方に引き入れ
る策を取る事が多かった(領土と人を増やしたい)。

では何故、武田には優秀な騎馬隊が居たのか、その謎に迫る
のがこの公演の核心でした。古来日本には馬は居たらしいが、
騎馬は無かった。日本書紀によると、4世紀初頭、百済王から
雌雄2頭の馬を贈られた。この時に馬具も一緒に来たので、
馬に乗る技術が伝来したと考えられる。その後馬飼部(うま
かいべ)が置かれ、多くの渡来人が技術指導をしたとある。

甲斐の馬のことが記録として最初に現れるのが、やはり日本
書紀だそうで、雄略天皇13年9月の項に、ぬば玉の甲斐の
黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒と言う歌が記され、その
物語の中では、甲斐の黒駒が物凄く速く走るとされている
(490年頃の話)。

壬申の乱(672年)では天智天皇の後継争いとして、大友の
皇子と大海人の皇子が争うが、「甲斐の武者」が馬上で弓を
射んとする記述がある。このことから、6-7世紀には甲斐
には良い騎馬武者が居たことが判る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

確かに騎馬武者は徒歩(かち)侍より強いだろうから、軍事
力としては強大であろうが、戦をすれば馬を消耗する。よく
映画やTVで騎馬戦のシーンを見るが、実際の戦だと、馬の
予備が必要であり、強力な騎馬軍団を維持するには、強力な
馬育成システムが必要である。しかも戦時に馬を失うのは、
一瞬だが、その後継馬を育てるには、数年かかる。

さしもの武田の騎馬隊がいつまでも強さを維持出来なかった
のは、打ち続く合戦で消耗する馬の補充が追い付かなくなっ
てしまったのではないだろうか。追い討ちを掛けるように、
武田の前に戦の天才、織田信長が現れる。馬防柵を作り、銃
を大量に調達して、輪番で撃たせる(異説あり)。これで
武田の騎馬隊は馬を撃たれてしまう。
http://www.shinshiro.or.jp/battle/gaiyo-index.htm

史実では長篠の戦いの後、武田軍は急速に弱体化して行く。
武田勝頼が、味方の離反と脱落に悲憤慷慨し、織田の先行隊
に追われ追われて、終には討たれてしまったのが天正10年
3月31日とある。これは西暦1582年で長篠の戦いの7年後の
ことである。猛き者も遂には亡びぬ。偏に風の前の塵に同じ。


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