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芭蕉の宿泊術

2007-10-23 21:33:05 | Weblog
奥の細道-4-              2007-10-23

芭蕉の宿泊術

前回、那須野では、文の美しさに感動したと書きました。
それはその通りなんですが、あれは芭蕉の創作であって、
事実では無かったようです。実録曽良の日記には、有りま
せん。それはそうでしょう。奥の細道の旅を挙行するに当
たっては、地理と故事来歴に強い弟子の曽良が事前に調
べた案に基づいています。そんな曽良が付いていて、下手
すりゃ野宿なんて旅程を組む訳が無いでしょう。

いくら交通の未発達であった江戸初期のこととは言え、日
暮れて農家に宿を借りると言うのは怖いことだと思います。
身ぐるみ剥がされて、放り出されたらおおごとです。曽良の
日記によれば、実際に那須野では、弟子の処に泊まって
います。

基本的に、芭蕉はこの旅では、弟子、知人の家に厄介に
なりながら旅を続けています。その実例が、黒羽(くろばね)
に書かれています。

黒羽(原文)

  黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬ
  あるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠など云が、
  朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまね
  かれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遙して、犬追物の
  跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。
  それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては
  我国氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、
  感応殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。

Arui訳

黒羽(現栃木県大田原市黒羽)の城代家老(当時の黒羽は
天領で、代官が治めていた)浄法寺某の家を訪ねた。(この
人は俳句を嗜み、江戸に出た時は芭蕉を訪ね、かねてより
親交があった)思いがけぬ芭蕉の訪問を喜び、日夜語り続
けた。その上、弟の桃翠(俳号)などが朝夕訪ねてきて、
心配してくれ、更に彼の家にも呼んでくれて、親族まで呼び寄
せて接待してくれて何日か過ごした。ある日郊外を散策した。
(以下略)

省略した後半は、一言一句に故事来歴の裏話が付随して、
それを明快にすると原文の3倍ほど書かないと意味が完全
には判らない。

こう言った具合で、芭蕉は寝食の世話を受けながら、しかも
人々に感謝されながら旅を続けて行ったのです。




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