Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

船で天津へー9-

2007-06-13 23:34:33 | Weblog
船で天津へ-9-                2007年6月11日

成都から天津へ戻ってきた私は、腑抜けのように土日を過ごした。
金曜日の夜のDelight barの様子を見てしまってからは、行く気に
ならない。天津市内の日本料理の店のママに電話をする。旅行
好きの彼女の旅行団に加えてもらって、中国各地に連れて行って
もらったが、今回も旅行に出ていた。あらー、今ね邯鄲なのよ、
ほら、あの馬車の遺跡が出たとこよ・・・と言っていた。と、言うこ
とはママが留守の店に行っても、顔見知りは皆旅行に行ってるだ
ろうから、やめとこ。

貴方にも電話したのよ、ちっとも繋がらないじゃない、と言って
いた。青島に居た時の電話番号だ。と言うことは、私は日本に
帰ったことをママには言ってなかったんだ。私の記憶はおぼろげ
だが、私より年上のママの記憶の方が確かだろう。結局、この2日
間は、船で天津への記事を書き、その合間に食事に出たり、飲み
に行ったりしてたことになる。

今朝は、早めに天津新港の客運站にきた。昨日船会社の案内を見て
たら、金曜日までに○○○へ電話して帰国便の確認をするようにと
書いてあるのを発見、しまった、やってない。それで受付を早く
して、自分のcheckinが間違いなくできるようにしたかった。私が
着くと、昨夜大連を出て、今朝先ほど天津港に着いたお客さんが
沢山残っていた。グループ団体で来てる人も多く、バスがずらりと
待ち受けている。北京、河北省、山東省のナンバープレートまで
ある。勿論天津No.が多いが。

程なくcheckinが始まって、私は4-5番目で切符を出した。案の
定、電話での確認はしたか?と聞かれ、してないと答えた。一瞬
の静寂、受付のおっさんは、じーっと書類を見ている。出国書類
が目の前に出されて、これ記入してくださいとのこと。ってこと
は、船には乗れる訳で安心した。このように私同様早めに来た人は
殆どが中国人で、切符を買ってない人たちであることが判った。
私のように、往復切符代を日本で払ってきた人も居る。それでも、
港の管理料30元(450円)を取られた。

私より10分ほど遅れて、日本人の青年がやってきた。受付のおっさん
の日本語の声がでかいので、直ぐ判る。いや、おっさんは日中とも
同じ声のでかさで喋ってるのだろうが、私が、日本語だとすぐ反応
できるが、中国語を現地人同士のスピードで喋られると反応できない
と言うのが正確な表現だろう。その青年は30元を持ってないらしい。
もう中国元は不要と思っていたのだろう。有り得ることだ。私も
昔、何処かの国の空港でやっちまったことがある。その時は、空港
だったので、両替窓口がやや離れたところに有り、わざわざその為に
両替して払った。ここには多分両替所は無い筈だ。

どういうことになるんだろうかと思った瞬間、私は、30元有りますよ
と怒鳴っていた。彼には聞こえなかったようなので、もう一度叫んだ。
2回目に彼はこちらに振り向いて私の所に来た。私は50元札を渡して、
これでどうぞ。と言った。彼は、有難うございますと言ってから、
支払い窓口に行き、管理料を払い、20元を私に返しながら、「これ
だと私がお金を貰ってしまうことになります。私はもう中国元を
入手出来ません」と言った。私は、それでも良いですよ。船の中で
遭遇したら、ビールかなんかで返してくれれば良いですと言った。

船の手続きは、ゆっくりだ。通関が済んで、乗船の列に並んでる
時に、先ほどの青年が1$札5枚出して、これで返済させてください
と言ってきた。私は1枚返して、4$だけ貰いますと言った。彼は
バックパッカーで、荷物を見事に大きなリュックサック1個に纏め、
インドをスタート地点にパキスタンを回って、中国に来たと言って
いた。若い人は良いね。

乗客の数は、往きよりはだいぶ少ない。外国人バックパッカー
も、私が見た限り一人だった。話しかけると、彼はロンドンっ子で
ロンドンから鉄道でパリに着き、シベリア鉄道に乗り継ぎ、蒙古に
入り、中国各地(北部)を回ってきて、今で2ヶ月になるとのこと。
日本では1週間(東京のみ)過ごし、大阪から船で上海へ渡り、
中国南部を見て、ミャンマー、ラオス、ベトナム、タイ、シンガポール
と陸路を旅して、そこから船でオーストラリア、ニュージランド、そして
南米へ行く船を探す。いずれアメリカ各地を回って、1年かけてロン
ドンへ帰るそうだ。凄いね、こんな旅も有るんだね、羨ましいね。